79.理解出来ない人間の怖さを学ぶ
──さっきからよく泣く子だね。完全に他人の話だけれど。誘拐に監禁か。
アシェルとソフィアは、部屋でおとなしく過ごしていられる子どもではなかった。
ウォーラー侯爵領に着いてすぐ、まず果樹の苗木を植える場所を求めて、二人は領内を駆け回った。
途中で蜜蜂を見付ければ、その生態を知りたくて追い掛けるし、巣を見付けたときには大騒ぎだ。
書庫で仲良く本を読んでいると思ったら、何か思い付いて突然外へと飛び出していくこともたびたびあった。
予期せぬ動きばかりして周囲の大人たちを困らせ、ローワンに叱られた日は数えきれず。
「しかもその女は、匿うだけでは満足せずに、なおも悍ましいことを考えた。美の女神の愛し子アシェルから愛されたいと願ったのだ」
──愛されたいと願った……?
その瞬間、怒りがはたと消え、アシェルは素の顔をして、隣のソフィアを見下ろした。
すぐにアシェルは、妻の願いを叶えるために、湧き起こる強い衝動を押さえなければならなくなる。
アシェルが見たソフィアは、ぎゅっと眉間に皺を寄せ、苦しそうに唇を噛んでいたから。
──ソフィアにこんな顔をさせるなんて。もう絶対に許さない。国を出る前にこいつらは消す。いや、いっそ消して首を……。その方が面倒事は少なく済みそうだね。
もはや命の危機にある王子は、なおも演説を続けるようだ。
「当初はアシェルに暴力を振って、恐怖で支配し、愛されようと試みたがこれは失敗」
──暴力?恐怖?それって……。
アシェルは思い出したように、イーガン子爵家嫡男を眺めてみたが。
相変わらず、勝利を確信したように口角を上げ、堂々とアシェルを見据え立っている男の姿が確認出来た。
──確実にあの親の子だね……。嫌だなぁ。
あまりに危機管理能力のないその様子には、除籍したら血の繋がりまで断てたらいいのにと、絶対に実現しないことを願ってしまうアシェルだった。
「それでも美の女神の愛し子であるアシェルから愛されることを諦められなかったその女は、ウォーラー家の恐ろしい研究技術を用いることにした。アシェルが自分を愛するように洗脳したのだ。悲しいことにこれは成功し、アシェルはそれから何年も自分の意思を奪われることになる」
──先からしつこいくらいに洗脳、洗脳と繰り返しているけれど……。
アシェルはもしかして?と思い付く。
──セイブルの論文か?
可能性のひとつとして上げてはみたが、アシェルはそれが正解とは思えなかった。
様々なテーマで研究はしているが、セイブルが世に出した論文は少ないのだ。
そして実現可否は別として、セイブルは洗脳の研究もしていなかった。
──精神の成長課程について論じるあれを曲解したか?あるいは……いや違うな。
推論を立てていたアシェルの瞳が、急速に冷えていく。
──帰ってすることがまた増えたね。ねぇ、セイブル。さすがに今回は許さないよ?
早く帰ろうという気持ちを強めたアシェルは、王子の演説もこれで終わるだろうと考えていた。
理解出来ない人間の考えは推測も出来ないこと、まだアシェルはその学びが足りていなかったようである。
王子は虚空に向けて、一段と声を大きくして言った。
「その女は浅ましくも、まだ足りないと考えた。ただ愛を囁く人形のようになったアシェルをいくら側に置いても楽しくはないと言って暴れたのだ。なんと身勝手な話だろうか」
──本当に誰の話をしているんだろう?
これには呆れるばかりだったアシェルも、王子の次の言葉には驚かされることになる。
「アシェルに大怪我をさせたあと、その女は愛しているなら共に遊べと命じて、アシェルに危険な虫取り遊びを強要するようになった」
──は?大怪我に虫取り遊び?
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