74.真面な人間の不在
イーガン子爵家の嫡男がアカデミーに通っているかどうか、そんな話をアシェルが知るはずもない。
しかしこの場にいるからには、彼は学生なのだろう。
今日は学生しかいない。外部からは誰も呼んでいない。そう話したアカデミー長が事実を語っていればという前提はあったが。
されど少数しかいないとはいえ、イーガン子爵家の嫡男はこの場では年長に見えていた。
学生の年齢に規定がないとはいえ、学費の工面に苦労でもして入学が遅れたのだろうか。
──学費がいくらか分からないから何とも言えない。だけど特別に裕福ではないにしても、あの頃も子爵家が困っているという話は聞かなかった。
イーガン子爵家がお金に困っていたら。
あの父親だ。
アシェルはとうに資金援助と引き換えにして、裕福な商会の会長の娘辺りに婿入りさせられていたと思われる。
だから今は分からないとして、当時は悠長に婿入り先として当てのない高位貴族を狙えるだけの余裕はあったということ。
──それなら仕事を覚えて余暇が出来てから入学した?いや、だけど……何のため?
アシェルは長兄がアカデミーに通う理由をすぐには理解出来なかった。
先にあの教科書の内容が浮かんでしまったからだ。
アカデミーでの学習結果は、当主の業務の支えにもならないと思われる。
しかし少し考えれば、アシェルもその目的に思い至った。
──王族や高位貴族と繋がるためか。
アシェルはそこで思った。彼もまたイーガン子爵そっくりではないかと。
血統には抗えないのだろうか。
そう捉えると嫌な気分になってしまうが。
イーガン子爵家当主。
アシェルの父親であったあの男も、常々高位貴族との繋がりを求めていた。
そのためにせっせと下位貴族の集まりに顔を出していたわけだが、当然下位貴族相手に望んだような成果は得られず。
その息子はより確実な成果を求め、アカデミーへの入学を選んだということ。
それもちょうど王子と王女が通う時期を狙って。
──そういうことね。いや、だからって……この状況の説明にはならない。
長兄が不敬にも王子王女にどんな話を吹き込んでいたとして。
王族が二人もいて、ウォーラー侯爵家の当主の娘が乱暴される。
それはいつでもソフィアを守ろうとしてきたアシェルにだって、想定出来ない状況だった。
ローワンとて、今日このアカデミーでこんな愚行があるとは思ってもいないことだろう。
国からはアシェルたちの研究してきた養蜂の技術を是非に広めてくれと要請されている状況で、何故王子たちにこんな愚かな真似が出来たか。
「心して聞いてくれ、アシェル。君はそこの女に洗脳されている!」
王子にいきなり名を呼ばれて、そのうえ分からないことを言われて。
アシェルの頭から相手が王子である知識がすっぽりと抜けてしまった。
いや、先からずっと。
それは要らぬ知識として、アシェルが自ら捨て去っていたかもしれない。
「はぁ?誰が何だって?今、妻をそこの女と言ったか?」
美しい口から出て来たとは信じられない低音は、とても王族に向けたとは思えない言葉を紡いだ。
王子は目を見開いて固まった。
このような暴挙に出る愚者だとしても、そこは王子。
今までに少しの暴言を吐かれたこともなかったのだろう。
王子の様子でそう読み取ったアシェルは、笑みを深めてさらに問い掛けた。
「ねぇ、誰が何だって?もう一度言ってくれる?」
王子はまた違う理由で放心していた。
周囲の者たちも一斉に息を呑んでいる。
遠く大きな窓から柔らかく広がる陽光の元で観るアシェルの微笑は、計算尽くで創造された美しき彫刻のようだった。
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