69.悪妻かしら?
「……アシェルはアカデミーに行きたくないの?」
クッションの布越しにくぐもった声が聴こえた。
ソフィアは再び顔を隠してしまったけれど、先程頬に伸ばしてくれた手はしっかりと握り返してくれているから、アシェルの心はまだ比較的穏やかにあった。
「そうだね。出来ればもう行きたくないなぁ」
「本当に?本当なのね?」
ぱっとクッションから顔を出してくれたソフィアに、アシェルの頬は自然に緩む。
「本当に行きたくないと思っているよ。面倒なことになりそうだからね。ソフィアも嫌な予感がすると言っていたよね?講演は断ろう」
ウォーラー一族への爵位は、貴族たちへの忖度として半ば強制的に与えられたものである。
もう何代にも渡って貴族たちがウォーラー家の当主に公爵位を与えたがっている理由も、自分より下の身分の者から教えを乞いたくないためだった。
しかし勝手なもので、公爵になっても他の公爵のようには働かないぞと返せば、これまた一部の貴族たちが憤慨するのだ。
彼らはまた、自分たちの求める貴族らしい上位貴族にしか、頭を下げたくないということ。
その均衡を保つ形で過去にウォーラー家が折れて、当主は侯爵位に落ち着いたというのに。
アシェルたちが今、アカデミーという忖度のためだけに存在するような場所で、貴族の子女や関係者たちを刺激したらどうなるだろうか?
上には元王族。学生には現役の王族。もうこの時点で面倒事になることは確定しているようなものだが。
他の学生たちも、アシェルたちと歳は近く、成人前後の貴族家の子女たちだという。
つまり多くが今後の貴族社会を担う若者たちだ。
将来にまた勝手な議論をされては、アシェルたちだけでなく、ウォーラー家全体に迷惑が掛かることになる。
そういう場所なのだから、問題回避のためにも、存分に忖度してやればいいというのは、アシェルだって考えた。
講演では子どもでも分かるよう言葉を選び簡潔に話したとする。
しかしすでに発表した論文には当然誰に向けた忖度があるわけもなく、論文内容と講演内容の乖離が、かえって彼らの貴族としてのプライドを傷付け、面倒事に発展するのではなかろうか。
関わらないで済むなら、それが一番いいだろう。
ソフィアが賛同してくれるなら、これでアカデミーの件は終わりにして、ソフィアの問題と向き合うだけでいい。
アシェルは嬉しく思っていたのに。
「私が言ったからなの?」
口を尖らせてソフィアは言った。
アシェルは狼狽える。
「ソフィアが言わなくても、アカデミーには関わりたくないと思っていたよ?」
ソフィアの顔がみるみる陰って、アシェルはさらに狼狽えた。
「ソフィアの考えは違ったかな?ソフィアはアカデミーに関わりたい?」
「私のことはいいのよ。アシェルは同年代の貴族に会いたいと思わないの?」
「え?同年代……もしかしてソフィアは、貴族の友人が欲しかった?」
「私のことではないのよ。今はアシェルに聞いたの!」
つんつんと尖った口調で言ったあと、すすすっと動いたクッションの向こうにソフィアの顔が隠れてしまった。
──今のはどこが悪かったんだろう?ソフィアを少しも傷付けたくないのに。
悩むアシェルに、意外にはっきりとした声が届く。
今度はクッションに口を押し付けてはいないようだ。
「講演はするわ。王命だもの」
「ローワン様がまだ断れると言っていたよ?陛下も一度謁見して気が済んだろうって」
「いいのよ。確認したいもの」
「確認って?」
「……何でもないのよ。ねぇ、アシェル。講演はしてもいいでしょう?」
──本当に友人が欲しいのかな?それなら俺もよく人を見ておかないと。
アシェルはソフィアがすると決めたこと。
これを全力でサポートすると決めているから。
「大勢の前で研究について話すのは久しぶりだね。どういう感じで話そうか、俺と一緒に考えてくれる?」
「……もちろんよ。私が妻ですもの」
微笑んだアシェルは、ぎゅっと妻の手を握り締めると言った。
美しい唇から紡がれる声は、蕩けるほどに甘くころころと室内に広がっていく。
「ソフィア。無理に話せとは言わないから。言えそうだったら教えて。俺も夫として、ソフィアのことは全部知りたいと思っているからね」
「────っ!」
悶えているとは知らず。
クッションを抱えふるふる震え出したソフィアを心配し過ぎて、アシェルはまた少し妻を怒らせてしまうのだった。
そして怒られながら、不謹慎にも思うのだ。
──ソフィアが可愛い。
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