61.親になれなかった人
「お母さまが泣いているのに、何もしないだなんて。なんて冷たい子に育ってしまったのかしら。この子が選ぶ嫁も冷たいわけね。こんなことなら、ずっと手元に置いておけば良かったわ!だいたいわたくしは、ウォーラー侯爵家に預けることを了承しておりませんでしたのよ。全部夫が勝手に決めたことですからね」
一人癇癪を起こし喚く夫人に、周囲は眉を顰めている。
それはアシェルたちも例外ではなく。
──手元に置くって……あの頃も王都の邸に俺だけ残して領地に行っていたのに。
夫人の主張に、アシェルは心底呆れていた。
「結婚相手だって、わたくしが選んであげましたのに!何を勝手に出て行って、勝手に結婚まで決めて!お母さまに何の相談もなく!お母さまの気持ちも考えないで!わたくしはそんな息子に育てた覚えはありませんよ!聞いておりますの?」
──聞いてはいるけれど。その主張、分からないにも程がある。
はじめからアシェルにはイーガン子爵夫人に育てられた記憶がない。
幼いときは知らないが、物心付いたときにはすでに嫌われており、夫人に近付くことは許されなかった。
ソフィアが口を開きかけたとき、アシェルは弱い力で手を引くようにして、それを止める。
──心配してくれてありがとう、ソフィア。だけど最後は自分で片付けさせて。
「分からないと考えるより、早く聞いてしまえばいい。望まずして答えを持つ者が目のまえにいるのだから」
アシェルは小さな声で呟いていた。
──より効果的に追い詰める方法を探ってきたけれど。どうせ俺には理解出来ない人たちなんだ。いつもしている研究と同じように動いてみよう。
アシェルの小声は、イーガン子爵夫人に届いてしまったようだ。
「何のお話をしているのですか!お母さまはあなたのことで怒っておりますのよ?真面目に聞きなさい!」
憤る声を無視して、アシェルは素直に問い掛けた。
「イーガン子爵夫人。私の記憶通りなら、あなたは私のこの顔が嫌いでしたね?」
イーガン子爵夫人の眉が一層高く吊り上がった。
しかし夫人は自分で気付きはっとした顔を見せ、すぐに眉を下げると、引き攣った笑顔を作る。
それでもその両眼は揺れ動いて、周囲の様子をかなり気にしていることはアシェルからも見て取れた。
「おほほ。嫌だわ。急に何を言い出すのかしら?今はお母さまのお話を聞くときですよ」
「聞く気はないので、こちらも勝手に話します。あなたは祖母上……あなたの母親によく似た顔をした私を嫌い、近付くな、見える場所にいるなと、常々仰っておりました。何故今さら、そんなに嫌いな私と付き合おうとしているのでしょうか?」
「嫌だわ。お母さまに怒られたくないからって、おかしなことを言い出したのね。あなたはまだそんな嘘でお母さまを虐める気ね?お母さま悲しいわよ?」
イーガン子爵夫人の言葉を完全に無視して、アシェルはなお勝手に話した。
過去の彼らがいつもアシェルに対し、そうしてきたように。
「そのうえあなたは、侍女に祖母上について尋ねた件で、私を殴っています。それほどあなたは自分の母親が嫌いで、その母親に似た私を気に入らないのだと解釈しておりました。この認識に間違いがあったでしょうか?間違いないのでしたら、今の心変わりの理由を教えていただきたい」
「なっ……殴っただなんて。ほほほ。あり得ないことを言わないでちょうだい。そうだわ、怖い夢でも見たのではないかしら?それを現実だと思って覚えていたのね?まぁ、嫌だわ。まだ可愛いところがありましたのね」
必至に誤魔化そうとするイーガン子爵夫人も、周囲を見ては今まで以上に顔色を悪くした。
『子どもを殴ったと言いましたわよ』
『あの頃の可愛かったアシェル様を?信じられないわ』
『酷い母親ね。それでどうして今さら母親らしい顔が出来たのかしら』
『アシェル様のお祖母様はそれは美しい方でしたわね』
『えぇ、それに所作も美しくて。わたくしも憧れておりましたわ』
『夫人はあの方の娘さんでしたわね。それにしては……』
『確か夫人は父親似だったのではないかしら?』
『まぁ、それで我が子に嫉妬していらしたの?』
そしてついに夫人の気持ちが爆発する。
「うるさいっ!うるさいうるさいうるさいっ!」
壊れるまでが早くて、アシェルは驚き、そして思った。
──最初から祖母上の話をしておけば良かったよ。
カツカツカツと短い間隔で音が鳴り響く。
イーガン子爵夫人が、ヒールの靴底で石畳を叩いているのだ。
──ソフィアの言った通りだったね。次兄とそっくりだよ。
周囲の者たちもアシェルと同じように、先ほどテーブルを二度叩いたイーガン子爵家の次男を思い出していた。
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