56.恥じるもの
「もう嫌!もう我慢出来ないわ!」
カッとなり我を忘れたか。
イーガン子爵夫人は石畳みに膝を付いて這うように再びダニエルに近付くと、その腕を叩いた。
「いっ!母上、何を!」
叩かれた場所から全身に走る痛みに苦悶の表情を浮かべた息子を心配もせず、イーガン子爵夫人は声を荒げる。
「あなたのせいでお母さまが恥ずかしいじゃない!見苦しく騒いで!あげくにそんな姿でいて!早く起きなさい!」
イーガン子爵夫人が息子を起こそうと、また腕を引っ張りはじめた。
しかし怒られたことは理解しているようで、今度は無事な左腕を選んでいる。
それでもダニエルの顔は痛みに歪んだ。
「いたい!いたい!やめろ、母上!強く引っ張るな!肩が外れているんだぞ!動かして戻らなくなったらどうする!背中も痛むんだ。もっと優しく支えてくれ!」
「いいから早く起きなさい!」
「だから痛いって。強く引くな!」
「あなたこそ、大きな声を出さないでちょうだい。外では静かになさいと言ってきたでしょう?」
何を見せられているんだろうと、思っていたのは近くに立つアシェルたちだけではない。
席に座る貴族たちは皆同じように眉を顰め、小声で不快を囁き合った。
『招待状もなく勝手に来てこんな騒ぎを起こすだなんて』
『イーガン子爵家はどうなっているのかしらね』
『そういえばもう何年も夫人を見掛けたことはなかったわ。元々社交が出来ない方なのではなくて?』
『以前もイーガン子爵がお一人で行動されていたわね。アシェル様と一緒にいたのも彼だけよ』
『ねぇ、わたくしたち……あの頃間違えたのではないかしら?』
『えぇ、アシェル様のご家族がこんな方たちだったなんて』
『ねぇ、あの噂も……』
『そうでしょうね。出所はこの方たちよ』
『だってお二人はこんなにも……』
イーガン子爵夫人がはっと我に返って、周りを見渡した。
そしてまた寝転ぶ息子を叩く。
「早く起きてちょうだい!あなたが恥ずかしくて、お母さま耐えられないわ!」
「恥ずかしい?この俺が恥ずかしいだって?」
「恥ずかしいでしょう!あなたの言うことなら何でも聞くと言うから連れて来たというのに。こんな騒ぎを起こすだなんて。もうお母さまは恥ずかしいったらないわ」
「それは……でもこいつが前と違って生意気を言うからで……」
「言い訳はやめてちょうだい。男らしくして」
「くっ。母上、起きますから医者を呼んで……」
「もう黙りなさい、ダニエル。男なんだからそれくらい我慢出来るでしょう?治療は邸に戻ってからになさい。ほほほ。ごめんなさいね、皆さま。お騒がせしましたわ。ただの兄弟喧嘩ですよ。もう嫌ね。久しぶりに会ったものだから、二人とも手加減を忘れてしまったのかしら?子どもが男の子の兄弟だと大変ですわよね。ほほほ」
──ここでも気にするのは周りの目か。本当に彼が可哀想に思えてきたな。
しかしアシェルは少しも同情しているようには見えない冷え冷えとした視線で、イーガン子爵家の二人を見下ろしていた。
隣では同じ目をしたソフィア。
蜜蜂を愛する二人は、普段は虫にだってこんな目を向けることはない。
──しっかり片付けないから、こうしていつまでも迷惑が掛けられるんだよね。もう二度と俺たちに会いたくないようにしないとな。
このとき不意に横を見上げたソフィアは、その新緑色の瞳に微笑むアシェルを映して、大好きな人が父に似てきたかもしれないと、ほんの少し、ほんの少しだけ思ってしまったが、それは心の奥深くに仕舞っておいた。
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