55.弱きもの
かろうじて叫び声を出さずにいられたダニエルだったが、身体を起そうとして右肩が強く痛むことに気が付いた。
知覚すれば急に痛みが増したように感じてダニエルは唸り声を上げたのち、結局また仰向けの状態に身体を戻す。
ただでさえ打った背中は痛むのに、衣装を越えて背中に伝わる石畳の冷たく固い感触は精神的にもダニエルを追い詰め始めた。
指先が動くことは確認出来たが右腕全体の感覚は鈍く、まだ動く左腕で右肩を押さえてみるが、痛みは引かないし、触れた肩にはいつもとは違う感触があって、ダニエルはいよいよ恐ろしくなってくる。
「まさか折れて……。医者を……」
頼りなく助けを求めるダニエルの声は、アシェルが遮った。
「折ってはいないから安心してよ。でも無理に動かさない方がいいね。ついでに右肩を外しておいたからさ。テーブルを叩く腕なんか、ここでは使えない方がいいだろう?」
「は?」
「戻しやすいよう綺麗に外してあげたんだから、そんな顔しないで欲しいな」
「なっ、なっ」
「それからまだ口が動くことにも感謝してよね。俺のことは好きに言えばいい。だけど妻を悪く言うことだけは許さない。次は顔を潰す」
「──っ!」
落ちて来た低い声に、ダニエルは無意識のうちに息を呑んでいた。
「それにしても弱くなったね、イーガン子爵令息。あぁ、そうか。あの頃は俺が小さかったんだね。幼い子ども相手に、よくぞまぁあれだけやってくれたよ」
先程イーガン子爵夫人がしたように、アシェルはわざと声を大きくした。
「俺の何がそんなに気に入らないのかなぁって昔は気にしていたけれど。今日はあなたが幼い俺を執拗に甚振っていた理由が分かって良かったよ」
「な、何を言って……」
「今でこの程度だ。あの頃なんか、同世代どころか、少し下の世代にも勝てなかったんだろう?あなたが絶対に勝てる相手は、自分よりずっと身体の小さな子どもしかいなかった。だけど余所の家の子どもに手を出して、怪我でもさせたら問題になったからね。あなたの相手は、実質俺しかいなかったわけだ。本当に可哀想になってきたなぁ。そんなことで誰にも勝てない惨めな心を慰めることしかしてこなかったから、今も弱いままなんだろう?」
ここでダニエルの肥大化した自尊心が恐怖心を上回った。
「黙れ、貴様っ!不意打ちがちょっと成功したくらいで、いい気になるなっ!今のは俺の実力ではなく──ぐっ」
しかし叫べばあちこちが痛むらしく、ダニエルの顔が苦痛に歪む。
アシェルは心身ともに弱いダニエルをせせら笑った。
「まだ騒ぐ元気はあるんだ?それならあの頃作ってくれた痣の分、返してあげようか?でもなぁ。あなたと違って、俺に寝ている男を嬲る趣味はないんだよねぇ。肩を戻して、もう一勝負といく?次は剣も使おうか?」
「やめてちょうだい。もうやめて!喧嘩は終わりよ!」
席を立ち駆け寄って来たイーガン子爵夫人は、ダニエルの傍らに屈むと、寝転ぶ息子の腕を引き起こそうと試みた。
そんなことをすれば当然ながら。
「いたっ。いたたっ。やめろ、母上、腕に触らないでくれ!」
ダニエルが痛みに叫び暴れたことで、イーガン子爵夫人の手が払われる。
「きゃっ。何するのよ、ダニエル!痛いじゃない!」
着飾ったドレスで石畳に尻もちをついたイーガン子爵夫人が、叫び声を上げたときだ。
アシェルは一瞬、全身が石のように固まったことを自覚した。
──この顔……。
アシェルの左手が不意に温まる。見ればソフィアが隣に立ってアシェルを見上げ微笑んでいた。
固まったと感じた身体も、たちまち元に戻る。
アシェルは何故かこのとき、怯えて隠れていた幼子がソフィアを見付けて飛び出し、それは嬉しそうに笑った姿を見たような気がした。
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