42.新婚なので?
「アシェルは私に釣り合わないことなんてないのよ!アシェルはとっても素敵なんだから!」
アシェルの胸がまた一段と温まった。
この時はそれだけではなかった。
知らない感覚がアシェルを襲った。
胸の奥をぎゅーっと掴まれ持ち上げられたような。
呼吸の知識を取り上げられて息が上手く吸えなくなったような。
鈍い痛みが全体に染み渡りやがて麻痺していくような。
その感覚を理解しようとアシェルが言葉にすればするほどに、出来上がる文章は不快さを連想させた。
なのに実態はむしろ心地好くて。
不思議な感覚にアシェルは戸惑う。
「身に余る幸運を得たのも私よ!相応しくないのは、アシェルより私なのよ!私だって、アシェルの横にいて恥ずかしくないかしらって、いつも考えてしまうんだわ!だけどアシェルと一緒に居たいから、私は頑張っているのよ!」
言いたいことは沢山あるのに。
胸の違和感がアシェルの口から自由を奪って、おかげでソフィアの早口が止まらない。
「アシェルの方が強くて、賢くて、素敵で、素晴らしくて、いつも助けてくれて、優しくて、それにとっても美しいんだから!私の方がアシェルを尊敬しているのよ!」
──胸が変だ。どうしよう?
まだアシェルの声は出なかった。
「それにね、アシェル。それに……その……」
抱き着かれているから実際には見えていないのに、アシェルには眼鏡の奥で新緑色の瞳が揺れている様が見えていた。
途端アシェルの口から不自由が解かれる。
「ソフィア。俺には何でも言っていいんだよ」
「それよ、それなのよ!アシェルは私には話せない?話したくはなかった?」
「え?」
「私だって全部聞きたいのよ。いつもアシェルも、何でも言っていいと言うでしょう?私も同じなのよ?」
ウォーラー侯爵領に移ってから、家族について、アシェルが積極的に話したことはない。
最初の頃にローワンにはいくつか確認をされていて、それには答えた。
セイブルに関しては、遠慮なく詳細を聞いて来るから、少しずつ知らせただけ。
他の者たちに対しても、アシェルは聞かれれば答えたが、自分から家族について話題にすることはなかった。
辛い過去の経験を吹聴する気が起きない理由に、かつて正直に話しても大人は誰も助けてくれなかったという経験が関与しているかどうか、それはアシェルにも定かではない。
ただひとつアシェルが確実に分かること。
──ソフィアを泣かせたくなかった。それだけだった。
「アシェルが優しいから言わないことは知っているわ。でもね、アシェル。考えてみて欲しいのよ?私はいつもアシェルには何でも話してしまうでしょう?もしも、もしもよ?私が辛いことだけをアシェルに話さないようにしていたら、アシェルは平気?」
アシェルの目が大きく開いた。
──俺とソフィアが逆だったら?そんなこと、考えたこともなかった。
──ソフィアが辛いことを話してくれないなんて……絶対に嫌だ。
──だけど違う。辛いことだから話さなかったわけではなくて。泣かせたくないという理由はあったけれど。
「ソフィア。俺は辛くなかったんだよ」
「あんなご家族なのよ?辛くなかったことはないでしょう?」
「本当だよ、ソフィア。本当に辛くなかった。それはね、子どもの頃の俺が何も辛くなかったとは言わない。だけどもう俺にはその頃の辛さが思い出せなくなっているんだ」
「辛かったのに?忘れてしまったの?」
「ソフィアのおかげでウォーラー侯爵領に移って、ソフィアと毎日一緒にいたらさ。いつも楽しくて、楽しいことばかりで……。俺たち毎日笑っていたよね?そうすると、あの人たちのことなんか思い出す暇もなくてさ。それで忘れてしまったんだろうね」
「本当に?本当なのね?今も辛くない?」
「本当だよ、ソフィア。安心して。あの人たちに会っても、俺は何も感じなかった」
──怒りはしたけれど。それは別でいいよね?
「全部ソフィアのおかげだよ。ありがとうね、ソフィア。あのとき俺に会いに来てくれて、俺を研究に誘ってくれて──」
今度はソフィアが話せなくなった。
肩がじわじわと冷たくなって、なのにそれも温かい気がして。
また胸に広がる不思議な感覚にアシェルはひととき身を任せて、ソフィアが落ち着くときを待っていた。
扉をノックする音を聴き逃したのは、互いの胸の音だけに耳を傾けていたからだろうか。
「失礼するぞ。おぅ、良きところだったか。ゆっくり続きを楽しませてやりたいところなんだが、こちらも時間がなくてな。すまぬが許せ」
突然の女性の声に、二人は飛び上がらんばかりに驚いて、より強く抱き締め合ってしまった。
「ははっ。若いとはいいものだな、ローワン卿よ」
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