37.閃き
顔の側で両手を合わせて嘆きはじめた女性は、アシェルを見詰めて、次第にその瞳を潤ませていく。
「夫がきちんと教えてくださっていたら。侯爵様にお願いしてわたくしが早くに会いに行っておりましたのに。あぁ、どうしてこんなにも長く、目を離してしまったのかしら?」
「母上?」
次兄からもう一度怪訝な声が聞かれたが、女性はその声を拾わず、アシェルだけを見ていた。
「まぁまぁこんなにも美しく大きくもなって。蜂蜜の研究をしていたのですってね?活躍は聞いておりましてよ。立派になりましたのね」
予期せぬ称賛の声もどこ吹く風で、アシェルにとって女性はどこまでも知らない人だった。
──どうしてもあの顔しか思い出せない。それが重ならない。
元々顔を合わせる機会は少なく、顔を合わせたところでアシェルはいつも母親から嫌そうに目を細められていた。
しかしアシェルはその不機嫌な顔すら覚えていないのである。
アシェルに残る母親の顔の記憶はひとつだ。
あの叩かれた日の恐ろしい形相、それだけがアシェルの記憶に深く刻まれ残った。
だから笑顔を見せられても、アシェルにとって知らない女性でしかない。
その知らない女性に何を言われても、アシェルの心は鉄のように動かなかった。
──俺が帰らないことを咎めた人たちは、みんな同じように話していたね。
探求心に溢れ、興味のあることばかりに熱心で、他者の事情には積極的に介入しない者が多いウォーラー侯爵領でも、まだ少年だったアシェルに家族について有難い助言をする大人たちはいた。
『会えば良かったと思うはずだよ。君は遠くにいるから反発しているだけで、会ってしまえば母親を恋しく思っていたことに気付くだろう』
──そんなことないんだけど?恋しい?何、それ?
『ただ一人の母親なんだ。もっと大事にしなさい』
『出来るときに親孝行しておかないと。未来のあなたが後悔するわ』
『意地を張っていないで、ご両親と話してごらんなさい。親子なんだから、話せば分かるよ』
『親になれば、親の気持ちも分かるようになる。今は分からなくていいから、仲直りだけはしておきなさい』
親になったときの気持ちはまだ分からないとして。
アシェルは今、次々と思い付くことがあった。
──俺が今、早く帰りたいと思うのは、帰ってしたいことが沢山あるだけじゃなくて、ウォーラー侯爵領にいる人たちが恋しいからでもあるんじゃないかな?
──時々ローワン様が俺たちを残し王都に行かれるときのあの気持ち、あれも恋しいだと俺は思うな。
──ソフィアと離れてもきっと……嫌だな。ソフィアとは離れたくない。それは恋しいどころじゃないから。
そしてアシェルは結論を導いた。
──恋しさを生むのは時間だ。親を恋しいと思えるあの人たちは、きっと恋しさを感じるだけの時間を親と共有してきている。
──ただ親というだけで、子が恋しく想う親は生じない。
思い付いたこの考えを領地で待つセイブルに伝えたら、どんな土産物より喜ぶんだろうなと思ったアシェルは、しかしセイブルのことも恋しいなと想っていることについては隠しておこうと決めた。
さてアシェルがひとつ悟りを得ている間も、女性の一人語りは続いている。
しかし話の内容は変化していた。
いくら称賛しても、アシェルから何の反応が返って来ないことにしびれを切らしたのだろうか。
「あなたは大変立派に育ちましたわよ。それにしても、わたくしに知らせずに結婚したとはどういうことですの?結婚の前に、まずは親の許可を取るものですよ?」
ここで王が「それは確かにそうであるな」と相槌のように呟くと、女性は強い味方を得たとばかりにつらつらと己の想いを語り出した。
「いいですか、結婚する前に、まずは親にお伺いを立てるのです。親の許可を得て、それから二人でそれぞれのご両親にご挨拶をして、そして両家の顔合わせを済ませます。けれどそこですぐに結婚とはなりません。結婚式まで間を置くのです。結婚式については、親が一緒に考えるものなのですよ?親にしか分からない色々なお付き合いというものがございますからね?そうしてやっと結婚出来るのです。なのに連絡もなく、一度も顔を見せずに結婚しただなんて。そのような良識のない振舞いを教えた覚えはありませんが、一体あなたは誰にこれでいいと教わってしまったのかしらね?」
女性は一般的には至極真っ当なことを語っていただろう。
しかしここが、アシェルにとって知らない女性が敵視する女性に変化した瞬間だった。
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