2.幼くして抱いた野望
父親に連れられる社交界で、幼いアシェルはいつも困った。
「婿入り先は高位貴族だ。下位貴族は相手にするな。いいな?」
父親はアシェルにいつもそう言ったが、所詮は子爵。
付き合いのある貴族たちは下位貴族ばかりだったので、アシェルにも高位貴族と接する機会はなかった。
どうやって高位貴族と会えるのかと聞けば、父親は自分を馬鹿にするなと怒り出すだけ。
アシェルはいつも身の振り方に悩んだ。
幼いアシェルに出来たことは、可愛い、可愛いと、菓子や果物をくれる下位貴族の大人たちに笑顔を向けること。
それだって笑顔を見せていないと、あとで父親に叱られるからそうしただけ。
こうしてアシェルは、下位貴族の、特に夫人たちによく話し掛けられる存在になっていた。
「おばあさまによく似ていらっしゃるわ」
「おばあさまにそっくりのお顔ね。将来が楽しみだわ」
いつからか、アシェルは同じような言葉をよく耳にするようになった。
アシェルは祖母に会ったことがない。
生まれたときには、すでにどちらの祖母も亡くなっていたからだ。
ある日アシェルは、家に帰ると侍女に尋ねることにした。
すると侍女は、夫人らの言う人が母方の祖母であり、いかに美しい人だったかと語ってくれた。
どうやってそれが母親の耳に入ったのか、それは今もアシェルには分からない。
興味はないように見せていたが、監視はしていたのだろうかと、予測を立てるくらいだ。
本から知った遠い異国から流れて来た言葉『鬼の形相』というのはあれを言うのだとアシェルは今も思っている。
とにかく恐ろしい顔をした母親に腕を取られ、そのまま強い力で引っ張られて、連れて行かれた先は物置部屋。
扉が閉待った直後、アシェルははじめて人に頬を打たれた。
「あなたまで!私を下に見るのは許さないわ!」
アシェルは当時六歳で母の心を理解した。
そしてこのとき、母親に好かれようという気持ちを完全に失った。
父親の言いつけも、兄たちの小言も、真面には受け取らなくなったのも、このときからだ。
家族への期待という期待を、アシェルは手放した。
同時にアシェルは僅か六歳で野望を抱く。
形は婿入りでも何でもいい。早くこの家を出て行こう。出来るなら縁も切る。
家族を捨てる野望だ。
早期の自立。そのために出来ること。
幼いアシェルは必至に考えたが……時間がある限り本を読むくらいのことしか出来なかった。
家庭教師も取り上げられて、人から学ぶことは出来なかったからだ。
高位貴族に婿入りするなら勉強しておかなければならないと、父親に訴えてみたこともある。
しかし父親はその美貌があれば問題ないと言って、アシェルの言葉を取り合うことはなかった。
子爵家の書庫など数は知れていて、現当主の父がこれでは新しい書物が補充されることもない。
古い書物を順に読破して、時に昔の当主の日記を読み、時には兄たちがもう学び終えたと捨てた書物をこっそり回収し自室に隠して。
アシェルは将来のためにと学び始めた。
美貌だけで婿に選んでくれるほど、高位貴族は甘くない。
社交界で夫人たちのお喋りに耳を澄ませてきたアシェルは、父親とは違い現実的に考えていた。
いくら美しかろうとあの父親の息子、高位貴族と縁を繋げる可能性は低い。
しかし下位貴族相手では、父親は婚約すら認めないだろう。
だからアシェルは別の道を考えていた。
優秀さを見込まれることがあれば。
家として縁付くは無理でも、雇われて働くことは出来るのではないか。
あるいはもう少し成長したあとで父親に反発し縁を切られる。
そうして平民となって市井で働くときにも、学は身を助けてくれることだろう。
次兄の鍛錬についても、アシェルは身を守る術を学ぶ時間と割り切ることにした。
痛めつけなければ気が済まない次兄にやり返す方法を考えることはない。
攻撃を躱すのではなく、受け止め方を変えて身体を守る方法はないか。
戦略を練るうち、アシェルは大袈裟に倒れ受けた力を流す方法で身を守れることに気付いた。
長兄からの不意打ちの攻撃も、市井で襲われたときの訓練をしていると思うようにした。
不思議なもので捉え方を変えると身体の痛みは変わらずも精神的な苦痛は和らぎ、そしてまた不思議なことに兄たちがアシェルに構う時間が減った。
二人も将来を見据え忙しくなっていたこともあろうが、アシェルの気持ちの変化を感じ取っていたのかもしれない。
だが現実は変わり映えなく、アシェルの幼い時間は過ぎていく。
それでもアシェルは悲観しなかった。
婿入り先が高位貴族であろうとなかろうと、婿入り先自体見付からなかろうと、アシェルはイーガン子爵家の三男。
いずれは外に放り出される時が来る。
刻々とその日に向かっていることを知れば。
アシェルにとってはすべてが希望の時間だった。
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