第八夫人エスメラルダの陰湿
エスメラルダが前世の記憶を思い出したのは、はるか辺境の地へ向けてガタゴトと揺れる馬車の中だった。エスメラルダ十九歳、既に断罪され国からの追放として蛮族へと嫁に出された後である。
えちょっと待ってよ遅くなーい?こういうのって普通幼少期に思い出して兄を味方につけて王子の心を癒して宰相の息子とか騎士団長の息子とか商人の息子とかあれやこれやして断罪されないように立ち回るもんじゃなーい?と脳内に昨今流行りの、大人たちからは頭が悪そうと専ら大不評の王国女学生言葉が踊るがもう遅い。断罪は済んでいる。
しかも冤罪なら騒ぎようもあるが、くっきりはっきりしっかり王立魔術学院で聖女様を陰湿にいじめた記憶があるのである。
間違いありません、私がやりました。私が聖女様の教科書を捨ててドレスを破いて階段から突き落として間違った演習場所を伝えてドラゴンと戦わせて魔王の墓所に閉じ込めました。
エスメラルダは断罪やむなしの罪状を抱え、ぼんやり馬車の窓から外を眺める。嫁ぎ先は辺境のその先の、隣の国と呼んでもいいか分からない荒野だか砂漠だかのオアシスの、なんだかよく分からない蛮族の族長だそうだ。
友好の証として差し出すには断罪された悪女は向いてなくなーい?と思うが、国が決定したのだから何かしらの思惑があるのだろう。
でも大丈夫、こういうのってつまり美貌の青年であなたを愛することはないで呪いを解いてあげて溺愛でしょ?
前世の知識を思い出したことで勝利を確信し、ふふんと余裕ぶって笑うエスメラルダを見ている人はいなかった。話し相手すら用意されない馬車の旅なので。
人生甘くはいかないよねーえ。エスメラルダは一月に及ぶ馬車の旅の後、蛮族の花嫁衣裳に身を包み粛々と結婚式に臨んだ。結婚式とは言ってもほぼ宴会だ。厳粛な式なんてものは無い。当たり前だ、エスメラルダは第八夫人なのだから。
結婚相手の族長は普通に十二も歳上のおじさんだったし、妻は既に七人いたし、子供は十一人いた。その内男児は六人。
そんな訳でもう全然エスメラルダがすることはないらしい。なるほど、友好の証として嫁ぐのがエスメラルダでよかったわけだ。王国人なら誰でも良かったのだろう。
深夜まで飲んで騒いで、当然初夜もさっさと済ませて、エスメラルダはそうして辺境のその先の蛮族の族長の第八夫人となった。
期待していた「お前を愛することはない」は当然なかった。
―――
「今まで周りにいなかったタイプだけどぉ、嫌いじゃないかも」
夫となった族長の話である。
「ガハハって笑うの、最初は怖かったけど慣れると笑う顔ちょっと可愛いかもって思うし」
誰からも返事は無い。
「こないだ死んだ兎くれた時は次はお前がこうなるってメッセージ?ってびっくりしちゃったけど」
お茶を用意する侍女の手元が一瞬揺れたのに、エスメラルダは気付かなかった。
「あの兎、綺麗な真っ白の毛皮だったから、あの毛皮で耳あてを作ってあげたら旦那様着けてくれるかな?」
やはり誰からも返事は無い。
蛮族がエスメラルダに用意した侍女たちは、何を言いつけられているのかエスメラルダと会話をすることはない。ただ毎日エスメラルダを起こし、服を着せ、化粧をし、食事を用意し、風呂に入れ、髪を乾かすだけだ。与えられた部屋の外に自由に出ていいのかすらよく分からないので、エスメラルダは毎日午後に部屋の窓から見える中庭を少し散歩するだけの日々を送っている。たまに来る夫だけが唯一の会話相手だ。
誰とも会話ができないので、退屈すぎるエスメラルダは返事をしない侍女に話し続けることにした。返事がなくても聞こえていないわけではない。その証拠に呼べばちゃんと来るのだから。
いつかこの侍女たちを爆笑させてやろうと思いながら、しかし大した面白トークもできないエスメラルダは日々思ったことを一人で喋っていた。
そんなある日、第一夫人からお茶のお誘いが来た。ここに嫁いですでに三月は経つが、他の夫人と顔を合わせるのは初めてのことである。いや、結婚式の時にいたかもしれない。大宴会と大声で笑う男たちと楽しそうに騒ぐ女たちに圧倒されて覚えていない。
もう誰でもいいから喋りたいエスメラルダは喜び勇んで行きますと返事をした。お誘いに来てくれた第一夫人の従者に飛びつかんばかりだった。
チクチク嫌味を言われたり虐められる可能性もあったが、エスメラルダは王都で聖女様を陰湿にいじめた女だ。陰湿さなら負けないし得意分野なのでむしろかかってこいとまで思っていた。
夫がおじさんなのだから、その夫と同い歳で幼なじみであったらしい第一夫人も当然おばさんだった。十二歳上なんてエスメラルダにとってはとてもとてもおばさんなので。恰幅の良い、豪快そうな女性だ。
第一夫人はエスメラルダの装いを上から下まで眺めて、満足そうにふんと息を吐いた。
「ああよく似合ってる、うちの伝統衣装だよ。ちゃんと場にも合わせてるね」
エスメラルダは意外に思った。蛮族の服などてんで分からないので、衣装は侍女が決めるまま一切逆らわず着ているのだ。故郷から持ってきたドレスもあるが、侍女たちが持ち出さないので衣装部屋にしまい込まれている。
エスメラルダはてっきり、あの何を言っても反応しない侍女たちは第一夫人の配下で、この場にまったく相応しくない服装をさせて笑いものにするつもりなのだと思っていたのだ。だって自分ならそうする。
それがどうやら完璧に正しい衣装を完璧に正しく着せてくれているらしい。
あれ、そういう感じ?と思いながらエスメラルダは王国式に礼をした。習ってもいない蛮族式を見よう見まねでするより、そちらの方がちょっとはマシかと思ったので。
第一夫人はそれにも満足そうに頷いて、さあさあとエスメラルダに席を勧めた。
「あんたそんなに細っこくて、ちゃんとご飯は食べてんのかい」
「はい、何を食べても美味しいのでもりもり食べています」
本当だ。蛮族式の衣装は締め付けが少なく、コルセットから解放されたエスメラルダは食事ってこんなに楽しいのねと出されるままに毎日もりもり食べている。
エスメラルダの薄らぼんやりした前世は食の細い女であったので、いくらでも食べられるのが楽しくてしょうがない。なので夜にエスメラルダの寝所を訪れる族長がたまに持って来てくれる果物もその場でもりもり食べている。
王国にいる時に比べていくらか太った気はするが、蛮族は一人残らず王国民より体格が良いのでそれでもまだ細く見える。でも故郷から持ってきたドレスはきっともうサイズが合わないだろう。
「あんた部屋からほとんど出ないらしいじゃないの」
「どこまで行っていいのか分からなくて…中庭はお散歩しています」
出された菓子を右から順番に一つずつ口に入れながら、エスメラルダは次々と投げられる質問に答えた。食べた事のない菓子が多い。絶対に全種食べたい。そのためなら夕飯が入らなくてもいい。
今食べた小さな花の形の砂糖菓子がとてつもなく美味しかったのでもう一つ食べたいが、先は長い。ここで欲張ってこの先にあるかもしれないもっと美味しい菓子を逃したくない。美味しかったのは覚えておいて次に山盛り食べればいいし…ああでも次がなかったらあの時アレを思いっきり食べておけばよかったと死ぬまで後悔するかもしれない。
上品に口元に手を当て、まるで儚い令嬢ですと言わんばかりにほうと息を吐いたエスメラルダを、第一夫人は呆れた顔で見やった。
「あんたね、菓子なんていくらでも食べさせてやるから。気に入ったのなら包んで持って帰ってもいい。だからそんなに一気に食べるんじゃないよ」
言質は取ったとエスメラルダはにっこり笑った。
「全種一つ…いえ三つずつください。そのお花のはもう少し」
「そんなに食べられるのかい」
「侍女に分けます」
エスメラルダの身の回りの世話をしてくれる喋らない侍女は二人いる。どうやらきちんとエスメラルダの味方をしてくれたらしいので、主人として報いねばならない。
エスメラルダは王国貴族として生まれ、王子の婚約者も見据えた教育を受けた矜恃の高い女なのだ。だからこそ突然現れて図々しく王子に纏わりついた聖女をネチネチいじめた。
「仲良くやってるようで何より」
第一夫人の言葉に、エスメラルダは気に入りの花のお菓子をもう一つ口に放り込んでまたにっこり笑った。
「ここはあんたの家なんだから、あんたが行っちゃいけない所なんてどこにも無いよ。外に出る時にはちゃんと付き添いをつけること、それだけでいい」
だからもうちょっと運動しな、とエスメラルダの服の上からでも分かるほど筋肉なんて全然ない二の腕を眺めながら第一夫人は言った。菓子を詰めた箱はエスメラルダが自分で持つ。そもそもここには一人で来た。
部屋を出るエスメラルダの背中に、第一夫人は思い出したように声をかけた。
「あいつは白だと汚れるって身につけないから、兎の毛皮は自分の襟巻きにして、耳あては茶か黒で縫っておあげ」
「はぁい、お姉さま」
ほとんど廊下に出ていたエスメラルダは、手だけを室内に戻してひらひらと振る。その後ろで第一夫人が「お姉さまだってさ」と眉を下げて笑っていたなんて、エスメラルダは知らない。
ここには一人で来たはずなのに、扉を開けたすぐそこに自分の侍女が立っていて、素早くお菓子の箱を持たれたのに気を取られていたので。
―――
ひどい!ひどい!とってもひどーい!
エスメラルダは足音高く廊下を進む。とはいっても蛮族の室内用の靴は布で出来ていて、石造りの屋敷をどんなに乱暴に歩いてもほとんど音が出ない。なので気分としてはカッカッと足を踏み鳴らし、実際はパタパタとエスメラルダは夫の執務室にやって来た。
族長の第八夫人であるエスメラルダは、族長の執務室であろうと誰の断りなく入ることが出来る。嫁いできて一年と少しが経った今、屋敷の全ての扉を開け放つのに躊躇いなど無い。
気分だけはバァン!と、実際は侍女に手伝ってもらってよっこら扉を開けたエスメラルダに、室内に集まっていた面々が注目した。
夫に、大将軍に、文官長にと並み居るお歴々に加え、第一夫人に、軍閥の出の第二夫人に、剣の得意な第四夫人までいるのに自分が呼ばれていない事実にエスメラルダは頬を紅く染めて怒った。
「どうしたんだ、エイリャン」
エスメラルダはちょっと蛮族には言いにくい名前なので、夫はエスメラルダを蛮族風にエイリャンと呼ぶ。それに習っていつの間にやら他の大勢もエスメラルダをエイリャンと呼ぶようになっていた。
「エイリャン、今はちょっと難しい話をしてるんだよ」
第四夫人はエスメラルダを子供のように扱う。実際他の夫人より第一夫人の産んだ長男の方が歳が近いくらいだから仕方がないのだか、今はそんな話をしている時ではない。
「ひどい!ですわ!」
ですわなんて久々に言った。こんな時なのに自分は怒ると王国宮廷言葉が飛び出すのだな、とエスメラルダは少々感心した。
「何がだい?」
夫まで子供に接するように言う。今だけはそんな、熊さんみたいなかわゆいお顔でこっちを見ても許してあげませんからね!ますます頬を紅潮させて、エスメラルダは猛然と全員の中心、卓上の地図を指さした。
「王国とやり合うそうではないですか!」
「ああ、お前の故郷だものな…だがこれは仕方なくて」
「そんなことは言っておりませぬ!」
「ええ…」
そうなのだ、エスメラルダは知らなかったが、この秋頃から蛮族は王国に度々小さな嫌がらせを受けていたらしい。蛮族とは言っても資源豊富な荒野のオアシスに都市を築き上げたこの国は、王国にとっても魅力的な場所だ。末永く付き合いを…などとは言っているがいずれは獲ってやろうという思惑が見え透いている。友好の証に差し出したのが断罪された令嬢なことからもその侮りは明らかだ。
繰り返される嫌がらせについには我慢の限界と戦いが見えてきていたが、エスメラルダの祖国であるためエスメラルダには伏せられてきた。それを今日エスメラルダはぶらぶらと遊びに出た事務棟内で若手文官の噂話として聞いてしまい、そのまま勢いに任せて夫の執務室に乗り込んできたのだった。
怒るエスメラルダの後ろを無口で無表情だが主人に忠実な侍女二人がしっかりと固めている。
「聞けば王国に嫌がらせをされているとか!」
「ああエイリャン…」
「王国の!嫌がらせに関して!私の右に出る者などいないでしょう!」
故郷に攻め入るななどと泣きながら訴え出たらすかさず当て身を食らわせて意識を刈り取ろう、と構えていた第四夫人はそっと構えを解いた。第一夫人は菓子を持ってくるように従者に指示を出し、第二夫人は説明を最初からやり直すべく地図上の駒の配置を戻している。
「旦那様は!私がどうしてここに嫁いできたか!覚えていらっしゃらないの!?」
「いや覚えているぞ、友好の…」
「聖女様に陰湿に嫌がらせしたのを見つかって叱られたからですわ!」
本当は叱られたなんてものではない。打首か蛮族に嫁ぐかの二択だった。本来なら打首一択だったところ、蛮族に嫁ぐという選択肢を王子自らが入れた。敗者に対する陰湿な嫌がらせである。陰湿な気風の国なのだ。
大将軍の連れていた若い補佐官が思わずといったふうに「本当だったんだ…」と呟いて大将軍に脇腹を鋭く突かれている。
「一時は聖女様の異端審問目前までいきましたのよ!それほどまでに王国の嫌がらせには精通しておりますのに!この場に私より嫌がらせが得意な方がいらして!?」
エスメラルダが部屋をぐるりと見回しても、名乗りを上げる者は誰もいない。
この国はからりとした気候と同じ、さっぱりして豪快な気性の者が多い。雨の季節の長さに比例するように陰湿な気質の王国民とは正反対だ。その王国民の中でも、陰湿な上に粘着質な気質までも併せ持った自分こそが最もネチネチしているとエスメラルダは自負している。前世の記憶をうっすら思い出したことで、エスメラルダは客観性を手に入れたのだ。
「でもあんた、叱られてるってことは一回失敗してんじゃないの」
侍女に持ってこさせたエスメラルダ気に入りの菓子を片手に、第一夫人が肩を竦める。そこなのだ。エスメラルダは歯噛みした。
そうであるからこそ、きっとエスメラルダはここに呼ばれなかったと考える。私がそうであったから、もはやあの頃のエスメラルダではないと証明を怠ったから。
誤解である。エスメラルダの夫たちはただ純粋にエスメラルダの、祖国と敵対するという心労を慮って全てを黙っていた。思い遣りを尊ぶ国民性でもあったので。
「父は…」
今までとは打って変わって、低い声で話し始めたエスメラルダに部屋の全てが注目する。巨大な振り子時計までが視線を注いでいるような静寂だった。
「父は、最後の時、私に言いましたわ。自らの行いを見つめ直せ、と」
やったことがやったことなので、これには皆が納得した。でしょうね、というやつだ。
「私は、毎日、毎朝、毎晩、ひとときも欠かさず己が何をしたかを考え続けました。今日に至るまでひとときすらも欠かさず!」
エスメラルダが両手を握る。たっぷりとした布の下から、細く白い腕がチラリと覗く。
「そしてようやく分かりましたの。私に足りなかったものが。そう…」
エスメラルダの目は透き通って光を反射して、そのこの国には無い色合いに皆が息を飲んだ。何処までも見通せるような、しかし奥に何があるのか分からない色。
「私には根回しが足りなかった…!」
握りこぶしは力を入れすぎて白くなっていた。
「あとひと月、あとひと月準備に専念していればあの女を追い落とせたのです。なのに私は結果を焦って…!」
エスメラルダは悔しかった。本当の本当に悔しかった。馬車に揺られて故郷を去ったあの日、あまりの悔しさに憤死しかけて前世の記憶を思い出したのだ。それくらい悔しかった。
エスメラルダは前世を思い出す前から誇り高い女だったので、誰かのせいにはしなかった。全ては己の不徳の致すところ。だが機会さえあれば絶対に報いてやろう、いや機会がなくても必ずやり返すと誓って打首よりも追放を選んだ。
馬車の中で前世を思い出し、第三者である前世の視点から己の行いを見つめ直し自分に何が足りなかったのか考えられたのは大きかった。そのおかげで朝も昼も夜も自分がどこで何を間違えたのかを分析し続けることが出来たのだ。
第一夫人とお茶をしていても、第一夫人の産んだ跡取り息子と棒切れを片手に地下牢を探検していても、第四夫人の産んだ第二息女と花を摘んでいても、夫を膝枕してその頭を撫でていても、ずっとずっと考え続けた。
あの時ああしていれば、この時こう言っていれば。しかし結局最後に行き着くのは準備不足、それに尽きた。あとひと月あれば勝てた戦いに功を焦って負けたなど、それはもう断罪やむ無し。
しかしエスメラルダの望み通り、ここにこうして機会は巡ってきた。もはや王子がどうとか婚約がどうとかは関係ない。己に膝をつかせた女に一矢報いなければ死ぬものも死ねない。いや機会があれば王子もどうにかしてやるが。あいつはわざわざ人が多く集まるパーティーの場でエスメラルダを笑いものにし断罪したので。
この復讐思考は蛮族には馴染みないものだ。蛮族は負けたなら潔く認めて相手が強かったと笑う。
ちなみに復讐大好きで歌劇の人気ジャンルが復讐モノの王国においても、エスメラルダのように泥水啜ってでもとまで考える人間は少数派なので、やはりエスメラルダは自分で言うように王国でも一、二を争うほど陰湿かつ粘着質な人間だった。
王国の一般女性は、蛮族に嫁ぐくらいならいかに悔しかろうと打首を選ぶ。王国では蛮族は動物の生き血を啜って生きていると思われている。つまりエスメラルダは動物の血くらい喉笛喰い破って直接啜ってやりますわ、という覚悟でここに来た。
「ほら、お前の考えをここに来て説明してご覧なさいな」
「はぁい、二の姉さま!」
第二夫人が駒を並べ終えた地図を指し示す。エスメラルダは第二夫人の現実的で合理的なところが大好きだ。
意気揚々と地図の隣に立って、そしてエスメラルダはいずれは王妃にとまで言われた己の知識の全てを持って王国への嫌がらせプランを語った。
この伯爵にちょっかい掛けられたんでしょーう?
なら真っ直ぐ本人にやり返すんじゃないの。ここの領地の境目のギリギリを攻めてお隣の男爵の領地に魔物が追い込まれるようにするの。
だって男爵の寄親の侯爵は、この伯爵と建国以来の不仲だから。伯爵のやらかしで自分の子分が酷い目にあったなんて、もうそんなのこっちの国どころじゃないから。むしろやり合う口実をあげたこと、感謝されちゃうから。
この運河の物流を止められちゃったんでしょーう?
ならうちのも止めちゃうの。王国じゃなくて、別の国に対して。布とか、果物とかを王国のせいって言って。そしたら下流の港湾国家は困るでしょ。うちからの果物を漬け込んで航海に持っていったり、うちからの布を仕立てて海の向こうにもっていったりしてるのに。
ほら、港湾国家が交易できないから、王国が欲しくて欲しくて仕方がない海の向こうの香辛料が入ってこなくなっちゃうから。王女様はあの香辛料がないと怒り狂うのに。
嫌がらせをしてきているのは王国の一部の貴族だけでしょーう?
なら嫌がらせをしてきてない貴族に仕返しをするの。今嫌がらせをしてきているのは王族派の貴族で、貴族派はまだ様子見をしているの。だからやり返すのは全部貴族派にするの。そしたらほら、何もしてないのに王族派のせいで損害が出た貴族派は。うちがやり返すのを罠を張って待ってたのに後ろから貴族派に突かれる王族派は………。
その間にも、小さな嫌がらせも忘れない。商家出身の第六夫人の実家が飼っている草食の巨大な獣を国境近くまで連れて行って何百頭と並べてバオオアォアと朝に夕に雄叫びを上げさせてみたり、王国が放置している辺境の村の民が困っているという魔獣をかっこよく退治してみたり、王国との境目のあったら助かるなという場所に無料の休憩所を作ってみたり学校を作ってみたり井戸を掘ってみたり、王子が不能だとかあの貴族の子供は托卵だとかあの大臣はハゲてるだとか下らない噂話をいくつもいくつも流してみたり。大事なのはこつこつとした下準備なのだから努力は惜しまない。
そうして、エスメラルダは一通の手紙を書いた。
はるか昔、まだ男女の区別も曖昧な幼い頃に一緒に遊んだ従兄弟が、小さな手に玩具の騎士を握って「俺にだって、王になる資格はあるのに」と呟いたのを、エスメラルダはまだ覚えていた。
今は懐かしい幼なじみ宛ての手紙は、二人だけの秘密よと作った二人にしか分からない暗号で書いた。一見すると可愛らしい詩のようなそれは、果たしてすぐに返事が返ってきた。無邪気に幼なじみからの便りを喜ぶような飛び跳ねるような文字で書いてある。その手紙を持って、エスメラルダは蛮族の宮殿を大好きな夫の執務室までスキップした。
執務室に飛び込んで、まず夫に抱き着いてその頬にキスをする。続いて隣に立つ第一夫人、第二夫人、たまたま来ていた第三夫人の頬にも順番に唇を落として、第五夫人が教えてくれた蛮族の喜びの踊りを少し踊ってから地図が広げられた卓の前に立つ。
「ほらねだよね、エリャがきっと今にきっとすぐにおどりにくるとつくと言ったね」
第三夫人は呪い師で、秘境の民特有の喋り方をして未来を少しだけ垣間見る。蛮族の地の中でも遥か北方にあるという秘境には招かれなければ入れないが、エリャならいつか連れていってあげるとエスメラルダに約束してくれた。
「なにか嬉しいことがあったのね」
「ええ、ええ、二の姉さま!わたくしやりましたわ!」
「ほうエイリャン、なにをやったのかお前の旦那様にも教えてくれるか?」
「ええ勿論!愛してるわ旦那様!私たちの勝利でしてよぉ!」
そしてまたエスメラルダは踊る。今度は第三夫人も一緒にステップを踏んで、手拍子までしてくれた。
「エリャエリャ、末の妹、なにをしたのか勝ったのか言ってないね。姉さまにお前の成したことを遂げたことをおしえてよ」
一節だけ二人で踊って、第三夫人に促されてようやくエスメラルダは卓上の地図の、王都の位置に置かれた一際豪奢な駒を指でピンと弾いた。
「王が代わりますわよ」
「ほう」
「どういうことだい?」
「私ね、従兄弟にお手紙を出しましたのよ。二人で西の丘から葬列の騎士とたなびく雲、黄色い目のヒバリを見たのを覚えてる?って。そうしましたらね、従兄弟ったら、うふふ、あの子ったら。戴冠式には呼んでくれるのですって。本当にせっかちさん」
「あんたね、王国式のまだるっこしい説明じゃぁ分かんないよ」
「はぁい、お姉さま。うふふ」
第一夫人だってエスメラルダが勿体ぶってわざと分かりづらく喋っているのを分かっている。でもこの末の妹が構ってほしがりなのも、姉と呼ぶ夫人たちにしかこれをやらない事も知っているので、呆れたふりをして望むままに窘めてやった。
「従兄弟がクーデターを起こすって。今王国内はあっちもこっちも大混乱じゃなーい?だからこの機に乗じてどうかしらって手紙を出したの。ちょっとぐらいなら手伝ってあげるわよって」
「あら、エイリャンたらそんなことをしていたの?」
「ええ二の姉さま!下準備をたくさんしたもの!下準備も根回しもこれ以上ないってほどしたら、最後は手を汚す人を唆すだけ!」
エスメラルダは王国中の貴族の子女が集う魔術学園で、取るに足らない特待生の平民の娘…今は聖女様と崇められる娘から学んだのだ。いつだって手を汚すのは自分ではない。自分は裏から糸を操るだけ。沢山沢山味方をつくって、その中から適任者を見つけてやらせればいいのだと。
あの娘は涙と微笑みでもってそれをやった。エスメラルダは婚姻とお喋りでもってそれをやった。
「王が代わるとどうなる?」
「あのね旦那様、現王はクーデターのうちに倒れる。だって私城の隠し通路も全部知ってるの。どこにだって逃げられない。王は倒れ、国を乱し騒乱を起こす元を作った王子は打首、その婚約者の元聖女も一緒に!」
「なるほど、王子と婚約した時点で教会は聖女の認定を取り消すか。ただの王子妃なら処刑しても構わん」
「婚約式は七日後だったかしら」
「あたしらは呼ばれてないねぇ」
夫と姉たちが王が変わる影響や打首になる元聖女への教会の反応などを話し合い、人を呼んだり書き付けを走って持っていかせたりと慌ただしくする中、エスメラルダは部屋の片隅で気に入りの菓子をつまみながら第三夫人に遊んでもらった。
第三夫人はいつも効いているんだか効いていないんだか分からない呪いと、正しくても正しくなくてもどうでもいいような予言でエスメラルダと遊んでくれる。
そのうち第二夫人の産んだ第一息女がやってきて王国語の課題を手伝ってとエスメラルダに強請り、手を引かれるままに夫の執務室を出たので、その話し合いがどう纏まったのかをエスメラルダは知らない。
―――
それから。
エスメラルダは祖国の革命の詳細を知らない。成功したことは知っている。宣言通り従兄弟から戴冠式の招待状が届いたからだ。
しかしエスメラルダは戴冠式には行かなかった。エスメラルダは第八夫人で、夫には既に七人の妻がいて、子供は十一人いる。その内男児は六人。友好の証として嫁いだ、もう全然することのない妻だからだ。だから自分に膝を折らせた女と、ついでに公衆の面前で恥をかかせた王子の顛末だけを聞いて、その後は外交だの社交だの戴冠式だの軍事会議だののことは気にせずに、気に入りの菓子を摘むのに勤しんだ。
なにより、呪い師である第三夫人がエスメラルダの腹を指さして「かわいい美しいかしこいよい子」と言ったので。
やがてエスメラルダは双子の男児を産んだ。息子たちは母であるエスメラルダに生き写しと言っていいほど外見も内面もそっくりだっだものだから、兄姉たちを押しのけて族長の地位を得んとするのではないかと大将軍から下級文官に至るまで随分気を揉んだ。
しかし双子は趣味嗜好まで母にそっくりであったので、跡取り息子である長男によく懐き後ろを付いて周り、長男が族長に就任してからは母譲りの粘着質と陰湿で兄をよく支えた。
後の歴史書にはエスメラルダはただ、隣国から友好の証として嫁ぎ、その役割を大いに果たしたとだけ記載されている。
夫:族長、大きい、熊に似てる。兄が三人いたので本来なら族長になる予定はなかった。
第一夫人:族長の幼なじみで許嫁だったため、夫が繰り上げ族長になった際に繰り上げ族長夫人になった。
第二夫人:軍閥の大家出身。戦争を指揮する才能がありすぎたので族長に嫁ぐしかなかった。
第三夫人:秘境出身の呪い師。キャラ作りの喋り方が呪い師の典型として浸透してしまったため故郷で肩身が狭い。
第四夫人:武家出身。剣を振る才能がありすぎたので族長に嫁ぐしかなかった。
第五夫人:宴会を盛り上げる才能がありすぎたので族長に嫁いできた。
第六夫人:商家出身。金貨を積み上げる才能がありすぎたので族長に嫁いできた。
第七夫人:反対隣の帝国出身。いつも部屋から一歩も出ずに泣いているが遊びに行くと帝国のお菓子をくれるので子供には人気。
第八夫人:エイリャン