第二話 中編
山の中。東から日が差し込み、木々の合間を縫って朝の訪れを告げる。
普通ならチュンチュンと鳥が鳴き、あちこちから動物の息遣いが伝わってくるだろう。――しかし、この山は違った。まるで死の山のように、生き物の気配がない。唯一の例外は進化の代わりに本能を捨て去った人間だけである。
痩せた男が真っ青になってたき火にじっと視線を注いでいた。彼は夜通し起きていた。夜中に一度交代するはずだったのだが、たき火の傍で眠る存在が恐ろしすぎて一瞬でも背を向けることに耐え切れなかったのだ。
傍らに止まる幌馬車の御者席から恰幅の良い男が降りてきた。なんで起こさなかったんだ、と咎めるように言う。
痩せた男はああ、とうん、の中間のような曖昧な声で答える。訝しげに痩せた男を見たもう一方の男は地面に寝転がってすやすや眠る二人の姿を見つけてその一幅の絵画のような美しさに息を呑んだ。
「――何を言っているんだ……!掘り出し物だぞ、魔物など馬鹿なことを」
「夜にいきなり現れたんだぞ!?竜の塒に近いから鼠一匹いないこの山で!」
「動物がいない分安全なんだ、俺達以外にこの山を通ろうという人間がいたっておかしくないだろう。こんなに綺麗所でおまけに年もいいころだ。売ればいくらになるか――考えてみろ!」
「―――んん」
なんだかうるさい。ユーシアは目を擦りながらムクリと起き上がった。
「ヒッ」
「ゴ、ゴホン……おやお嬢さん、おはよう」
「んー……おはよ?」
竜から貰った剣“金流”を左手で引き寄せながら返し、ユーシアは寝ぼけ眼で二人の男を見た。どちらも茶系の頭の痩せた男と太った男だ。痩せた方に見覚えがある気がして記憶をさらい、
「ああ――パンの」
ポンッと手を打つ。
「お腹が減ったのかね?」
太った男が尋ねた。これには考える必要もなく頷く。
「じゃ、一緒に食べないかね?そっちの連れの少年も起こして」
「しょーねん?」
どこにそんなものが?――ユーシアは辺りを見回したが見つからなかった。竜が寝こけているだけだ。
まあ、いいか。大きな欠伸を一つして、ユーシアはいそいそと太った男に近寄った。
もぐもぐ、ごくん。ユーシアは昨日と同じ固いパンと格闘していた。今日は渡された水があるから少し楽だ。
「ふう、お腹いっぱい。ごちそうさまでした」
「お嬢さんよく食べたね。名前を聞いても」
「あっ。ねぇ、それ何?」
「……馬車だよ。君の名前を聞」
「へえ、初めて見た」
ユーシアはふうんと呟いて周りをぐるぐる回る。痩せた男はユーシアの動きに馬が怯えている気がしてさらに顔を青白くした。
「なっ、なあ関わらない方が……」
ひそひそと太った男に耳打つが、その声はもちろんユーシアにも聞こえていた。ただ、彼女は初めて見る馬車に夢中で気に止めない。
「馬鹿言うな。あれなら金貨になるかもしれんぞ。少なくとも銀貨は下らん」
「だが見ろよ、馬まで怯えて……」
「気のせいだ。見ろ、両の目の色が違う。娼館でなく金持ちの好事家に売ればもっといくかもしれん。しかもあの剣……!間違いなく売れば相当な物だ」
「ねぇおじさん。どこ行くの?」
痩せた男は飛び上がった。太った男もやや焦りながら笑顔を見せる――が、ユーシアは馬車に目を奪われたままだ。
「ヒンルという街に行くんだよ。王都に次いで大きい街なんだ」
ユーシアは考え込んだ。大きい街。つまりは人がたくさんいるのだろう。ということは、勇者に相応しい場所な気がする。
「年頃の女の子が好きそうなお洒落な店もたくさんあってね、綺麗な服やら美味しい甘味が」
甘味!ユーシアの目が煌めいた。
「おじさん!私もおじさんと一緒に行く!」
「そうかい、そうかい!」
太った男は相好を崩す。まるで対称的に痩せぎすの男はガタガタ震え出した。山の魔物と一緒にヒンルまで……冗談じゃない。
「おい!」
「大丈夫だ、さっきの水に薬を仕込んでおいた」
魔物に薬が効くのか?逆に怒らせるんじゃないか?痩せた男の怯えぶりに相方は呆れて肩を竦めた。
「薬?私、戦いに行くんじゃないよ?」
「あははは、あの水は飲みなれない人には毒になることがあるからね。薬を入れておくものなんだよ」
『戦い』という言葉を冗談だと思った男は笑って口から出まかせを並べ立てた。ふうん、とユーシアは気のない返事をする。
「そうだ、お嬢さんの名前は」
「いつ出発するの?」
見事に男の言葉を遮るタイミングでユーシアは言った。太った男がユーシアの名を聞こうとしたのは三度目で、男のにこやかな顔が引き攣る。
「ああ、もう出るよ。お嬢さんは幌に乗っていておくれ。一眠りしている間に着くからね」
「そうなの?……ふあぁ」
起きたばかりなのにまた眠くなってきた。ユーシアは素直に指し示された幌に潜り込む。
「ちょっと待っておくれ。こっちの少年は知り合いなのかい?」
「んん……ふあぅ」
肯定ともつかない声を漏らし、ユーシアの瞼が急激に重くなる。そのまま意識をなくしたユーシアは、そのあと簡単に手足を縛られた竜が乱暴に幌の中に投げ入れられたのも、自分の手から剣が抜き取られたことにも気付かなかった。
ゴトゴトゴトゴト
ぼんやり目を開けた竜はしばらくして地面が揺れていることに気付いた。
――なんで湖じゃないんだ?
自分の周りにあるのは篭った空気ではなくひんやりした水のはずだった。竜は寝起きのぼんやりした頭でそう思い……一気に蘇った記憶に跳ね起きる。
「おい、もどき!」
成長期の竜――というか、成竜になる前の竜というのはとにかくよく眠る。起きている時間の五十倍ほど眠る。この竜はもう成竜になりかかっていたから眠る時間も小刻みになっているが、それでも結構な時間寝ていたはずで――
「いないのか、もどき!」
あの自称勇者の人間もどきは彼を置いてさっさと行ってしまったのか。うっかり危険なペットを野放しにしてしまった気分で青ざめる。脳裏に浮かぶのはナイフとフォークを持って竜の丸焼きの前で舌なめずりする人間もどきの姿だ。
「もどきっ!」
焦って周囲を見回した竜は床に伏す人間もどきに気付き、とりあえず安心する。
何はともあれ野放しにしたわけではなかったらしい。やれやれ、よかった。
――というか、眠った場所じゃない。
ようやくそう気付く。しかも手足が縛られていた。
「……ここはどこなんだ?俺はなんで縛られてんだ?」
竜は首を捻った。初めて会った時は人間もどきも縛られていたし、人間というのはそういう習慣でもあるんだろうか。
――うわ、嫌な種族だな。
顔をしかめる。とうてい理解できそうにない。しかし、竜は次にもっとありそうなことを思いついた。ご先祖様の誰かの記憶に操られて妙な行動をしたんじゃなかろうな――――ありそうだ。
「……ま、いっか」
外すのはいつでもできる。自分が縛られている訳を聞いてからでも遅くはない。人間と敵対したいわけでもないし、と考えた竜はそのままにしておくことに決めた。――しかし、暇である。
「おーい、もど……」
眠る少女を起こしてどっか行こうか、そう考えた竜の言葉は尻すぼみになって消える。
――コイツが起きたらまたなんやかやとあるんだろうなぁ。
退屈な平穏か危険たっぷりな刺激的生活か。竜は決して若くして安定を望むタイプではない。むしろ冒険心を持っているタイプだが。食欲にギラつく色違いの目を思い出し、竜は身を震わせた。
――起こすのは、やめておこう。そのうち嫌でも起きるだろうし。