第二話 前編
グルルゥ……
夜の山中、獰猛な唸り声が響く。満月の夜である。辺りの輪郭が浮かび上がるほどの光は恐怖を倍増させる役にしか立っていない。。
その中を二人の人間――少なくとも人型に見えるもの――が歩いていた。一人は赤と金のオッドアイに月光にきらめく金の髪を持つ少女。簡素な白いワンピースがよく似合っている。もう一人は少女と対照的に夜に溶ける黒づくめの少年。彼は瑠璃色の瞳に困惑したような光を浮かべていた。
グルルゥ……
もう一度、どこかで獣が唸る。瑠璃の瞳の困惑が深まった。
「なあ……お前、動物でも飼ってんの?」
「…………」
少女は無言で少年に顔を向け、また無言で前を見る。一瞬月明かりに照らし出された顔は、眉間に皺がより口が引き結ばれ――つまりは、とてもとても不機嫌だった。
グルルゥ……
獣が唸る。しかしよくよく辺りを見回せば、この空間はいかにも奇妙だった。夜の山中。しかし、先程から幾度も響く獣の声以外の生き物の全く気配がないのだ。
グルルゥ……
少年――に変化した竜は首を傾げた。確かに目の前の少女の姿をした人間もどきの腹から聞こえる気がする。――腹に動物でも隠し持ってんのか?
「なあ………つっ!?」
夜の暗闇に銀閃がひらめく。
ザンッ
竜は飛びすさって目の前に出来た溝に顔を引き攣らせる。明らかに当てるつもりだった。剣の軌跡の延長線上の木にあった倒れる音が連なり、地が跳ねる。
少女は不機嫌な顔のまま剣を鞘に収めた。全身から殺気を立ち上らせながら、呟く。
「……お腹減った」
「…………は?」
実に数時間ぶりの少女――ユーシアの声に、少年姿の竜は呆気に取られた。ユーシアはジロリと竜を睨みつけ、
「お腹減った!もーお腹減ったお腹減ったお腹減ったー!」
沈黙が嘘のように叫ぶ。その様子は小さな子供が菓子屋の前で駄々をこねるのと何も変わらない。
「お腹減ったお腹減ったお腹減ったー!」
グルルゥ……
どこか悲しげに唸る、少女の腹。左手にある剣を振り回すたびに身構える竜にも気づかず。
「なのになんでこの山には獲物がいないのよー!」
ユーシアの切実な叫びが遠く遠くでこだました。
そもそも、マリアが悪い。ユーシアの考えは一巡りした挙げ句に元に戻っていた。
「この山にご飯がないのもマリアのせいよっ!」
「そりゃないだろ。妹さん可哀相に……」
道々ことのあらましを聞かされた竜はマリアに同情した。もっとも、筋道立っているとはいえないユーシアの説明はあまりよくわからなかったが。
「ど・こ・が!可哀相なのよ!マリアは私が九々もできないって馬鹿にしたのよ!」
「……出来んのかよ?」
竜は胡散臭げにユーシアを見た。満月とはいえあたりは闇に包まれているが、夜目の効く二人には何の問題もない。よって、ユーシアに竜のその目つきはよく見えた。
「当たり前でしょ、私は馬鹿じゃないわよ!」
「へえー。じゃ、八×九?」
「はっく?」
何言ってるんだコイツ、という顔でユーシアは竜を見る。
「……やっぱ、馬鹿」
「失礼な!」
ユーシアは憤慨してずんずん歩いた。思考はどうしてもやっぱりお腹減った、と舞い戻る。しかし、ないものはないのだ。この辺りに動物はいない。ユーシアと竜以外は―――。
そう、ユーシアと竜以外は。その言葉を頭で繰り返す。ユーシアと竜以外は。
「――ねぇ」
なんで思い付かなかったんだろう、とユーシアは満面の笑顔で振り向いた。奇妙なほど嬉しげな声。
「ん、なんだ?」
「ちょっとさあ、元に戻ってよ」
「別にいいけど……どうしたんだ?」
ユーシアはうふふふふ、と浮かれて声を漏らす。赤と金の双眸は煌めいて――というより、ぎらついている。刹那、右手が動いた。
ザンッ!
本能的に後ろに跳ぶ竜に、ユーシアはちっと舌打ちした。
「ほぅら、早く……」
しかし口元には優しげな笑み。可憐に小首を傾げる、白いワンピース姿の美少女。
「大丈夫、ちょこっとだけだから」
「……なにが」
「ちょっとだけ……尻尾の先とか。脇腹ちょこっととか、ね?」
ジュルリ、ユーシアは鞘を持つ左手で口元を拭った。
「ま、さか……お前」
竜は震える指でユーシアを指す。まさか。まさか。
「ふふふ。煮るのと焼くのと蒸すのと、どれがいいかなぁ……」
「うわーー!」
それを聞くなり、食物連鎖の頂点に立っていたはずの竜は躊躇わずに背を向けて逃げ去った。
竜は今初めて鼠の心理というものを深く理解していた。今度鼠が襲われていたら必ず助けてやろうと心に誓う。
「うふふふふ……」
「ひっ!」
考えているうちに、距離が縮まったらしい。何だ、何なんだアイツは。古代に封印されたという邪神なのか――?
馬鹿な考えを頭を振って追い払う。しかし人間ってのはなんてモンを召喚するんだよ……!その召喚の原因が祖父――つまりは寝ぼけた自分であることを棚に上げ、竜は人間を責めた。というか明らかにその被害を被っているのが自分一竜であるのが気に食わない。責任とってアレをなんとかしろよ!そう思った竜の瞳に――――
――――ちらちらと木の隙間から除く火明かりが、見えた。
でこぼこの地面ものたくる木の根も生い茂った草木もユーシアの障害にはならない。闇夜も見通す目でもって、現在彼女が捕らえているのはただ一つ。今は少年の姿をした竜という名の食料のみ。白い喉がゴクリと唾を嚥下した。
「うふふふふ……」
肉が止まった。観念したのかな、という思考が食欲に支配された頭の片隅に浮かんで消える。
「うふふふふ……」
ちょっとした空き地になっているそこには、お誂え向きに火まであった。丸焼きが手っ取り早くていいだろう。
「うふふふふ……」
「うわぁ、待て待て待て!ほら飯だ飯!」
肉……いや、竜がパンを差し出した、というより押し付けた。
「ん………んぐんぐんぐ、ゴクン」
「ほら、まだまだあるぞ、食え!」
口にねじこんでくるパンは固くてパサついていた。はっきり言って美味しくない。ユーシアは未練たっぷりに口元にある黒い手袋つきの竜の手を見た。と、更に口にパンが突っ込まれる。
「んんんぐ、んんんむ………んぐんぐんぐ、ゴクン、ぷはんぐぅ」
息継ぎする間もない。ユーシアは涙目になりながら剣の柄で自分より少し上にある黒い頭を思い切り殴りつけた。
ゴンッ!
「……ってぇ!何すんだよ!」
「私を殺す気!?」
叫び声が重なり、二人はしばらく睨み合う。
「お前は俺を食う気だったろうが!」
「もう少しで窒息死しそうだった!」
瑠璃色の目と赤と金のオッドアイがバチバチと火花を散らす。
「俺は飯を食わせてやったろ!」
「別にちょっとでよかったのよ、あんなにでかいんだから!」
フイ、と二人は同時に顔を背けた。ユーシアは右に、竜は左に。――つまり同じ方向に顔を背けたわけで。横目でギリギリと睨み合う。
「真似しないでよ」
「そっちこそ真似すんなよ」
フン、とユーシアは鼻を鳴らして背を向けた。全く同時に竜も背を向ける。ユーシアは口を引き結んで竜の代わりにたき火を睨みつけた。
ゆらゆらゆら、赤と金と橙と……色を変えて、形を変えて、炎が揺れる。
ゆらゆらゆら……赤、朱、金、紅。移ろう色を瞳に写して、ユーシアはぼうっと見入っていた。
ふぅ……あふぁ。
欠伸をしかけて、ハッと我に返る。ブンブンと頭を振り、
ダメダメ、私は怒ってるんだから!
そう思うものの、お腹がくちくなれば次は瞼が重くなる。そうはさせじとたき火を睨むが。
ふわわぁ……。
単調で複雑な、揺らめく色が思考を覆う。
……なんで怒ってるんだったっけ?はふぅ……。
ん……と幼い仕草で瞼を擦り、顔を上げたユーシアの赤と金のオッドアイと、見知らぬ茶の目がたき火を挟んでかちあった。
がくん、と首を真横九十度に倒して、ユーシアはぼんやり考えた。
……知らない人、だよねぇ?うん、知らない人。
じぃっ……と観察する。茶色の髪に茶色の目の痩せぎすな男。中年の一歩手前の年齢に見えた。村の外の人間を見たのはこれで二度目である。一度目は竜の贄になってくれとかいうとてもとてもふざけた話にそれどころではなかったから、こうしてじっくり見るのは実質初めてである。
なんだか肌の色が青白い。蝋人形のような青白さに興味をそそられてユーシアはとっくり見た。村の人間にこんな肌の色の人間はいなかった。
なんか、全体的にぼんやりして薄いなぁ……。これが外の人間の特徴なのだろうか、村人がきらびやかな金銀、艶のある茶、吸い込まれそうな黒とどれもこれも美しい発色だったのに比べて艶もないし輝きもない。
「ねえ、ねえってば」
竜の袖をちょいちょい引っ張る。返ってきた声は不機嫌なものだった。
「なんだよ。謝る気なら」
「この人、何?」
「ああ?……ああ!」
低く唸って振り向いた竜は男を一拍見つめて――男は怯えたようにヒッと息を呑んだ――ポンッと手を打った。
「親切な人だ」
「親切な人?」
「ホラ、パンくれた」
「……あの、かったいパン!」
男はまたヒィッと息を呑んだ。ユーシアは不思議そうに男を見る。
「さっきからあの人ヒッヒッって言ってない?具合悪いのかなぁ」
「さあ?人間のことはよくわからん。もどきの方が詳しいと思うぞ」
「んー……おーい、大丈夫?」
男はまたヒィッと息を呑みながらガクガクと頷いた。
「大丈夫みたいだね。村の外の人間ってこんなもんなのかな」
ユーシアはがっかりした。何の面白みもない。
「どうだろな。こんなんじゃなかった気もするけど……思い出せん。ま、どうでもいいか」
「ん……ふわあぁ。眠」
「ふわぁ……そういえば俺寝てる最中だったのに誰かさんに起こされたんだよな」
竜はつられて欠伸しながらぼやくた。
「そりゃ災難。ごしゅーしょーさま……ふぁう。ん、私寝る!おやすみ!」
「いや、ごしゅーしょーさまってお前のせいなんだけどな……って、早!?」
ユーシアがじかに地面に寝転がり、就寝の言葉を言うのとほぼ同時に寝息を立てはじめて竜は驚愕した。
「んんむ、流石はもどき。人間じゃない」
一人ごちて木の根本に寝転がる。ほどなくしてたき火のそばから二人分の規則正しい寝息が聞こえ始めた。