第21話「揺れる記録、眠る声」
《大試練祭》から数日。学院は静けさを取り戻しつつあった。
だが誰も知らない場所で、ひとつの封印がわずかに揺れはじめる。
魔導記録室の奥に眠る“感情の残滓”が、
幻獣の眠りと少女の祈りを通して、静かに目を覚ます――。
朝の空気が、淡く冷えていた。
《大試練祭》の熱が過ぎて数日――学院は、かつての静けさを取り戻しつつあった。
けれど、どこか空気が違っていた。
目に見えない風の流れ、ふと耳に届く魔力のひずみ。
誰もが口にはしないが、何かが「静かに変わっている」ことだけは、肌で感じていた。
◇
訓練場の一角。
剣と氷槍が交差し、陽光の中で粒子が舞う。
「踏み込みが浅いわよ。いつもより力が抜けてる」
「……もう少し肩を下げた方がよかったかも」
リオは息を整えながら、セラの言葉を反芻する。
セラの指摘は鋭くて、でも冷たくはなかった。
それは、剣術ではなく“歩調”への助言のようにも感じられた。
リリィがその様子を遠くから見て、膝の上の筆記具をくるくると回しながら呟いた。
「このふたり、最近空気が似てきたよね。……なんだか、並んでるだけで絵になる感じ」
「黙って座ってて、リリィ」
「うんっ♡」
訓練場には穏やかな風が吹いていた。
ただ、その風の中に微かな“ざらつき”を感じ取ったのは、セラだけだった。
◇
医療塔の静かな一室。
布に包まれた幻獣ルゥナは、ほとんど動かない。
その背には、傷ついた魔力の炎がまだ灯っていた。
ミナはそっと、その火光に触れていた。
「ねえ、ルゥナ。今日はね、訓練場でリオがちょっと転んだよ」
返事はない。
けれど、ルゥナの灯りが、ほんの一度だけ震えた。
「……ふふ、笑ってる?」
ミナの笑みは、静かだった。
でも、その瞳の奥には深い葛藤が渦巻いていた。
支援魔術。
あの日、自分が振るった“魔力”は、果たして守りだったのか。
幻獣に傷を負わせるほどの激戦に、魔力は本当に“優しさ”になれていただろうか。
「……もう、あたしは戦わない。戦えない。 魔力は、あたしの祈りに使う。そう決めたの」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、
ただ布に包まれたルゥナの温度に、静かに染み込んでいった。
◇
魔導理論Ⅲの教室では、ノアとエリナが資料の整理を進めていた。
いつも通り、無駄な声のない空間。
けれど、どこか“妙”な気配が漂っていた。
「……エリナ。魔力、流れてるか?」
「うん……でも、ちょっとだけ変な感じ。胸が、冷えるような」
ノアは筆を置いて、視線を奥の棚へ向ける。
「例の記録室、今夜解析に入る。封印区画だ。気をつけろ」
エリナはゆっくりと頷き、目を閉じた。
その瞬間、彼女の魔力が一度だけ震え、
誰にも見えないはずの“感情の粒”が、空気の奥底で共鳴した。
◇
放課後――魔導記録室。
棚の奥、封印領域の前でノアは結晶槍を構えた。
触れるたび、壁がきしむ。
その音が、“歪み”であることに、彼はすぐ気づいた。
エリナはゆっくりと手を伸ばし、扉の表面に触れる。
そして、言った。
「……これ、泣いてる」
「何?」
「封印の奥。たぶん――誰かの“感情”が、閉じ込められてる」
ノアは黙って扉に魔力を流した。
中から、かすかな抵抗。
その奥にいる何かが、“拒絶”ではなく、“問いかけ”をしているような気配だった。
「痛みを……記録してる?」
その言葉が零れた瞬間、壁の奥で光が一度、軋んだ。
◇
夜。学院塔の最上階から、微かな魔力の揺れが検出された。
報告は、翌日の議題へ送られ――
その中に、ひとつだけ妙な表記があった。
“反応主は非式標。属性不明。感応魔法に反応――記憶干渉痕あり。”
それは、エリナの魔法が一瞬だけ封印と接触した証だった。
封印の中で眠る“罪”が、感情に触れられたことで、ほんの一度だけ息を吐いた。
◇
医療塔のミナは、眠るルゥナの背にもう一度手を添えていた。
その掌の魔力は、やさしく揺れていた。
火光が小さく応える。
「……待ってて。今は、ここにいるよ」
その夜の風は、誰にも気づかれないまま静かに吹き抜けていた。
けれど、学院の底に眠る“記録”は、確かに――目を覚ましはじめていた。