9.見え始める心
久しく空位だった竜の花嫁、それが披露される場とあって会場には異様な熱気が渦巻いていた。
それは、主役が退場してもなお続いている。
パーティーの熱気の届かない場所を求めるように、イザベラはドレスの重さなど感じさせない滑らかな動きで移動する。
動きとは裏腹に、彼女の顔には隠し切れない感情が浮き出ている。
――私は、選ばれなければならない。
イザベラの頭の中を巡るのは、それだけ。喉の奥からこみ上げるのは、嫉妬などと名前を付けるのも生ぬるいと思うほどに黒い感情。
エルフォード家は古くから王政に関わってきた公爵家であり、何不自由ない生活を約束されている。権力、富、名声。おおよそ自尊心を満たすためには充分すぎるものを持ちながらも、イザベラの両親はそれ以上を欲した。
それが、“竜の花嫁”の座。イザベラの両親をもってしてもその座を手に入れることは出来ず、しかし空位のまま。先祖の記録をたどって、求められるだろう年代を予測したイザベラの両親の行動は、的中した。
両親の期待を産まれる前から背負うことになったイザベラには、物心つく前から常に聞いていた母の教えがある。
『イザベラ、あなたはこの国の誇り。守護竜様の花嫁として、選ばれるのが当然なのです』
礼儀作法、古の知識、儀式の心得。
守護竜の花嫁としてふさわしくあるように、と育て上げられたイザベラにとって、母の教えが全てであり今の自身を形作る意味そのものだ。
――選ばれなかったら、どうなるの?
イザベラの問いに、答える者はいない。誰も答えられるはずがないだろう。選ばれないという事は、これまでのイザベラすべてを否定しているのと同義だから。
「あのような田舎くさい娘では、花嫁の器には程遠いと思いませんこと?」
だからイザベラは動いた。自分の行動が果たしてどのような影響を及ぼすのか、それを想像できない育て方をされてなどいない。けれど、イザベラにとっては“竜の花嫁”になることは何物にも代え難い存在価値である。
そんな胸中を知ってか知らずか、イザベラの前に座る壮年の男性は薄く笑う。
「私としても、君のような才気ある令嬢が選ばれなかったのは、惜しいと思っていた」
「これは、あくまで提案ですわ。プロンコール大臣。万が一に備えるのも、臣下の務めでございましょう?」
冷静さを強調するように、イザベラの声は平坦だ。けれど、その言葉を吐くのにどれだけの感情に蓋をしているのかをプロンコールは瞬時に読み取った。
お腹の前で組まれた手は、きつく握られているのだろう。手袋に幾重にも皺が出来ている。自分の半分も生きていない令嬢がそのような激情を見せるのだ、ほんの少し手助けする程度なら力を貸してやってもいいだろう。そう思ったプロンコールは薄く笑って口を開く。
「それで、私は君になにをしてやれるかな? エルフォード公爵令嬢?」
***
「んー! 今日もいい天気!」
あのパーティーの後、私の日常には少しだけ変化が訪れた。なんと、アズファルド様が話しかけてくれるようになったのだ。初めは戸惑ったけれど、おそらく同じことを思っていたのだろうアズファルド様の顔を見たら、そんなことどうでもよくなった。
花嫁といえど一定の距離を保とうとしていたはずなのに、どんな心境の変化があったかは分からない。でも、私にとっては嬉しい変化なのだ。調子に乗って距離を詰めようとしないように気を付けなければならないほどに浮かれてしまって、ライラは呆れていたけれど。
「何をしている」
「アズファルド様! 今は花壇の雑草抜きをしています」
「……それは、使用人の仕事だろう」
心底不思議そうな顔で私を見てくるのだから、思わず頷いてしまった。アズファルド様の服にはもちろん、一点の汚れなどない。対して私は作業に使ってもいい服を選んでいるし、雑草を抜いたときに飛んだ土が裾を汚している。
「もちろん、そうです。でも村にいる時にずっとやっていたからか、土に触れる感覚が忘れられなくて」
「そうか。……好きにしたらいい」
しばらく私の作業を見つめていたけれど、それ以上何も話すことなくアズファルド様は離宮の中に戻っていった。
あの夜に見た凍てつくような金の瞳は、日の下にいたこともあったのか少しだけ、柔らかい光を見せてくれるようになった、と思う。
好きにしたらいい、なんて言われる日が来るなんて。花嫁としてやって来た日から見たら、ずいぶんと距離は近くなった。嬉しいことなのに、どうしてもその先を望んでしまう。
別の日、夕食の時間に珍しく食堂に顔を出したのは、アズファルド様。朝食はタイミングが合えばご一緒する機会も少しずつ増えては来ていたけれど、夜に同じ席に着くことは初めてではないだろうか。
とはいえ、侍女や料理人たちの焦りも分かる。今日の夕食は、いつもとは違うメニューだからだ。
「アズファルド様、その……夕食をお召し上がりになる、んですよね」
「そのつもりがなければここには来ぬ。なんだ、私がいるのは不服か」
「いえ! そんなこと思うはずありません!」
いることが不服だなんて、あるはずがない。さてどう説明しようか、と口の中で言葉を転がしていると、アズファルド様の背後――私の正面にそろりと顔を出した料理人たちから揃って応援するようなジェスチャーを送られた。
そうだ、彼らにとってアズファルド様の言葉は絶対。私なら言えるという関係を築けたことは嬉しくもあるけれど、少しだけ複雑だと思わなくもない。
ただ、この場で何かを言えるとしたら私だけだろう。よし、と気合を入れてからその一言を口にした。
「今日の料理、スープは私が作ったものでして……」
「……お前が?」
そう。いつも夕食にアズファルド様が顔を出さないから大丈夫だろうと思ってお願いしたのが、たまたま今日だったのだ。
村にレシピを教わりに行ってくれた料理人には感謝しているしありがたいと思っていたけれど、それでもスープの味が違うと感じていた。もちろん、私がいつも食べていたものよりも格段においしい。
おいしいのに、違うと思ってしまう自分が申し訳なくて言えずにいたら、何かを察した料理長が厨房を貸してくれると言ってくれたのだ。
それが今日。レシピを覚えて味を再現して見せるから、と意気込んでくれた料理人たちの手によって、大鍋いっぱいのスープが出来上がっている。
他のメニューは用意があるそうだが、今日のスープはこれしかない。今から作るのでは、アズファルド様をお待たせしてしまうから、料理人たちも困っているのだ。
「ならば、それをもらおう」
「いいのですか?」
「今から作り出しては、待ちくたびれてしまう」
「ありがとうございます、アズファルド様!」
突き放すような言い方をするけれど、優しさがあるとはもう知っている。きっと、アズファルド様にもまだ、どうすることもできない感情があるのだろう。
姿を見る機会が増えた、こうして向かい合わせで話すことが出来るようになった。そして、食事を共にした回数はもう数えていない。
こうやって少しずつ、ほんの少しでもいい。アズファルド様の隣にいられるようになることが、今はただ嬉しい。
「お口に合いますか?」
感想は聞けずじまいだったけれど、完食されたスープが何よりの答えだろう。