4.花嫁となるために
離宮での生活が始まって、一週間ほどが経っただろうか。ここにやってきて次の日の夜に姿を見たきり、アズファルド様とは顔を合わせてもいない。
どうやら、向こうは気配というものを読んで、私を避けるためにその能力を活用しているらしい。というのも、一番長く勤めている侍女長はアズファルド様から直々に指示を受けているのだと、身の回りの世話をしてくれている侍女が教えてくれたからだ。
わざと私に聞こえるように、くすくすと笑う声を隠しもせず。さすがライラ様ね、と私の事は花嫁様としか言わないその口で、侍女長の名前を呼ぶのだ。
知識を詰め込み始めた私だって、それが非常識だとは理解できるのに。
「夕食は、運んでございます。追加が必要ならお申し付けくださいませ」
「……ありがとうございます。いただきます」
表面が堅くなったパン、微妙に冷えたスープ。村にいた時よりもいい食材だというのはすぐに分かったけれど、これじゃ作ってくれた人にも失礼なのに。厨房に行って料理人にお礼を言おうとしても、何かと理由をつけて行かせてもらえないから、きっと侍女たちはそんなことを思ってもいないんだろう。
この離宮の中なら自由にしてもいいと言われているのに、私は食堂と自室の往復しかしていない。アズファルド様と顔を合わせた広間にだってあの夜以来行っていないし、まだ離宮の中を全部覚えきれてもいない。
「うん、これじゃいけないよね、やっぱり。……ここにいるしか、ないんだから」
しんなりとしたチキンソテーを完食して、食器をワゴンに下げる。さあ、明日からどうやって動こうか。そんなことを考えながらベッドに潜ったからか、夢も見ないほどぐっすりとよく眠った。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
侍女にも、二通りのパターンがある。村育ちで知らない事ばかりの私を見下し適当な仕事をするタイプと、与えられた仕事に関してはきっちりこなすタイプ。今朝、私の身支度を手伝いに来てくれたのは数少ない後者だった。
なので、私から距離を詰めてみる。侍女との接し方を知らない無知な娘だと、そう笑っていたのはそちらなのだ。例えこれが問題のある態度なのだとしても、そんなこと知ったことか。そもそも、最初に主である私に、侍女あるまじき態度を取ったのはどちらなのだと問いつめたい。
「この窓から見える装飾って、どんな意味があるんですか?」
食堂に向かうときにすれ違う侍女には足を止めて目線の先を示して。これは、その侍女も分からなかったみたいで言葉を濁して逃げられた。
次のタイミングで聞いてみたらすらすらと答えられたのは、侍女の中で連絡が回ったのかそれとも知っていたからか。まだその判断が出来るほどの情報は、私にない。
窓の奥に見える装飾は、守護竜の加護に感謝を捧げるために作られたそうだ。この国に竜の意匠が多いのはそういうことだけど、体の色は銀で瞳は金。この色を違えたものを作ることは認められていない。私が竜のモチーフで何かを作ることがあったら、それは守ろうと思う。
「王都の流行りは何ですか?」
村での娯楽など、たかが知れていると言うのならばこの地での流行を聞き。こっちには、しばらくしたら現物が手元に届くという嬉しい誤算もあった。
小説に刺繍、さすがに追いきれなくなったので、この話題を振るのは止めようと早々に決めたけど。勉強のいい息抜きになったので、よしとしよう。
その日からとにかく、誰にでも話しかけることにした。何を言われようと、無視されようとも。王都の花の香りが漂う貴族じゃなくて、村の薬草の匂いしかしない娘が花嫁に選ばれて、この離宮に勤める皆はさぞかしがっかりしただろう。気持ちは分かるつもりだ。けれど、選ばれてしまったのだから仕方ない。
私は選ばれた理由を教えてもらえない、それなのにここにいることを強要されるのならば。
居心地は、自分でよくしていくしかない。
「あ、糸切れちゃった? ちょ、絡んでる……」
「……お貸しください」
「ありがとうございます、ライラさん。……すごく、きれいな結び方。さすがです、今度教えてくださいね」
焦ることはない。求めすぎもしない。挨拶と、簡単な言葉。それを積み重ねていくだけ。
どれだけ時間がかかっても構わない。大丈夫、こつこつと何かをやっていくことは嫌いではない。
そうやって動き出してから、思っていたよりも早く変化は訪れた。
「……申し訳ございません。花嫁様。どうぞ、つまずきませんようお気を付けくださいませ」
掃除をしていた侍女の一人が、廊下に水をこぼして注意を促す。それだけ見たら何の問題もない。問題なのは、その侍女が明らかにわざと水をこぼしたのだと、私の目から見ても明らかだったことだ。
表向きの丁寧な謝罪に込められているのは、小さな棘。ちくりと痛む胸に気づかないふりをして、微笑んで見せる。
「笑っていないで、片付けなさい」
すっと奥から出てきたライラさんに驚いたのは、私だけではない。その一言でざわついていた廊下がしん、と静まり返った。その空気を感じ取っていないはずはないのに、全く気にもしていない様子で近づいてきたライラさんは、深く腰を折った。
「申し訳ございません。リィナ様にお怪我はございませんでしょうか」
「え、はい。水か少しかかったくらいですし、これくらい」
「これくらい、ではございません。お召替えに参りましょう」
ざわり、と声があがったのは廊下の奥でこちらの様子を窺っていた他の侍女からだろう。
侍女長のライラさんは、仕草も丁寧でこちらに自分の感情を見せることはなかったけれど、一定の距離を保った接し方をする人だ。
それが今、目の前にいるライラさんは心配そうな声色で私の様子を確認し、怪我がないと分かれば安堵した表情を見せる。
他の目があるなかでの叱責、明らかに変わった私への接し方。侍女たちの空気も変わったのだと実感したのは、その日の夜。
スープが、温かった。ただそれだけ。だけど、その香りに嬉しくなって笑みが漏れてしまう。
「……ありがとう、いただきます」
*
何となく手に取った本に視線を落としたアズファルドは、ふと顔を上げる。
いつでも静かなこの離宮、わずかな空気の変化を感じたのは数日前から。侍女たちの足音から始まり、廊下に響く声の調子。そのどれもが、ほんの少しだけ柔らかくなっている。
思い当たる理由など、ひとつしかない。
“あの娘”が、冷たい空気に満ちていたこの場所に、馴染み始めているのだ。
愚かだと、そう思ったはずの心の奥にはうまく言葉に出来ない違和感が残る。
この違和感をそのままにしてはいけない、けれどどうしたら違和感の正体を突き止められるかが分からない。
わずかな苛立ちは、アズファルドの手元にインクの染みを作った。