3.銀の光と金の瞳
離宮に入ってからは、慌ただしく時が過ぎていった。息つく暇もない、というのはこういう状況なんだと知らなくても良かったことを身をもって体験してしまった。
その日の夜に侍女たちの挨拶が始まり、一度歩いただけでは覚えきれないくらいの広さがある離宮の案内で一日目を終えた。
次の日の朝、ふかふかのベッドの寝心地はとてもよかったのに、村と同じか少し遅いくらいに起こされた。
「おはようございます、花嫁様」
身支度の手伝いをするという侍女は、これから私がしなければいけない事を淡々と話している。
顔見知りになった騎士たちと少しは話せるかと思っていたのに、どうやら離宮の中は侍女の領分で、騎士は外の担当だから基本的に建物の中には入らないそうだ。
顔を覚えたのに残念だとは思ったけれど、新しく覚えなければならないことが次から次に出てきて、余裕がなくなった私には良かったのかもしれない。
「リィナ様。ご準備をさせていただきます」
「準備……ですか?」
「守護竜アズファルド様にお目通りするのです。失礼のないよう、身支度を整えなければなりません」
離宮の中で一番大きな広間、そこで私は守護竜アズファルド様に初めて姿を見せることになっている。
準備が終わったのは、日が完全に落ちて辺りがすっかりと闇に包まれてから。それでも、今日のうちに顔合わせを終わらせなければならない、と侍女長から念押しされた。
「だからといって、一人で放り出されるとは思わなかったけど」
夕食の準備を終えたら、食べた後に広間へ向かえばアズファルド様がお姿を見せてくれるはずです、なんて言いながら侍女たちは姿を消した。
王都の常識を知らない村娘が守護竜の花嫁になったのが面白くないというのは、私だって分かる。出来る事なら私だって選ばれた理由を教えて欲しいのだから。
「え、っと……こっちだったかな?」
記憶力は悪い方ではないと思っていたけれど、今日は一日で詰め込んだものが多すぎる。
悪意というほどではないが、私を見下すような言動を気にしないようにしていたから、余計に。
お世話をしてくれるのはとても助かったし、着替えだって一人ではできなかった。ずっと黙って聞いていたら、なにかにつけて一言余計な侍女だった。
気持ちは分からなくはないからそのまま気の済むまで話してもらったけれど、これが続くのだと思うといつか文句を言ってしまいそうだ。
「あ、よかった。合ってた」
誰もいない広間は、とても静か。この離宮には必要最低限の人員しか配置していないので、普段から静かだとは聞いたけれど、こんな物音ひとつしない夜は初めてだ。
木々のざわめき、虫や鳥の声。村ではいつも聞こえていた生活の音が、ここでは全く聞こえない。
空には月が輝き、石造りの床にはその光が淡く広がっている。静けさもあるからだろうか、この離宮にはどうしても冷たいという印象がぬぐえない。
カツ、と響いてしまう足音を必死で抑えるようにゆっくり歩き、部屋の中央に立つ。緊張と不安、いろんなものが混ざって私の胸は早鐘を打つ。私の鼓動は外に届いているのではないかと思うくらい、音のないこの空間は緊張に満ちている。
今すぐ逃げ出したい、だけど足は根を張ったようにこの場から動かない。
どれくらいの間、そうしていただろうか。少し目を閉じただけのようにも、長く待っていたかのようにも感じた時間。
空気が震えるのを感じた直後、窓から届いていた月の光が消える。はっとして窓の方に体を向けた瞬間、背後から私のものではない足音が響いた。ずしり、とおおよそ人とは思えない重さの音が。
光の届かない闇の奥から重苦しい風と共に、一体の竜が姿を現した。翼をたたむその動きに遅れて舞った埃に目を閉じた一瞬で、竜は人の姿へとかたちを変えていた。
銀の髪、夜を思わせる黒に身を包んで私を見下ろす金色の瞳。整った顔立ちのなか目立つ角を持つ男性は、いっそのこと彫刻と言われた方がしっくりくるほどの美しさを持って私の前に立つ。先ほどの足音の重量などまるで感じることのない細い体つき。間違っても私に対して友好的ではない、冷たい印象を見せるこの姿が、守護竜アズファルド様。
「……おまえが、花嫁か」
まるで品定めでもするような、低く感情の乗らない声。その金の瞳には私ではなく“花嫁”という役割しか映っていないように見える。。
なんと、答えればいいのだろう。あまりに強く、そして目の前にいるのに遠いこの存在に。
「名を」
「リィナ・シーリス、と申します」
「……覚えておく必要があるなら、そうしよう」
人に名前を聞いておきながら、自分は名乗らない。それが、守護竜。広大な王国アルセリオンを一人で守り、誰に媚びずとも生きていける、この国の頂点。
一歩、また一歩と近づいてくるけれど、お互いの顔が判別できるギリギリのところでぴたりと止まる。それはまるで、これ以上踏み込むことを許さないと言わんばかりに取られた距離。
「おまえに情をかける気はない。花嫁としての役目を果たせ。それ以上を求めるな」
そうして、彼は暗闇へと姿を消した。しんと静まり返った広間に、私の荒い息遣いが響く。
「情をかける気はない、かあ……」
力の抜けた体は、壁にもたれたことでずるずると座り込む。竜の姿でもぶつかることのないくらいに高い天井を見上げて、ふーっと長く息を吐く。
少しは期待をしていた。ずっと空席だった花嫁の座。遠く離れた村にまで王都から迎えにやってくるくらいなのだから、守護竜に待ち望まれていたのだと。
それがどうだ。明らかな線引きをされたうえに、役割以上を求めるなと釘を刺されるなんて。
とんだ顔合わせもあったものだ。こちらは王都に着いてすぐ、休むこともほとんどせずにずっと体を磨いてもらい化粧を施し、慣れないドレスを着込んでこの場に臨んだというのに。
「帰ろう」
村には帰れない。私が戻るのはこの離宮で与えられた自室だ。もしかして、という気持ちで振り返ってみたけれど、どれだけ目を凝らしても見えるのは月の光さえ届かない闇だけ。
一瞬見えた竜の姿、銀の体躯はとても美しかった。それが人の姿を取ったのだから一種の芸術のようにも見えてしまうのも仕方ないだろう。
実際、私の頭の中には鮮烈に刻まれた。月の光を分けてもらったかのような金の瞳に、目を奪われた。流れる銀髪は丁寧に紡いだ糸のように細く、そのひと房でさえお金を積む極上のものだ。
夜を集めたような黒い角だって、あの姿を彩る装飾品のよう。
優しく迎え入れてくれると思っていた口から紡がれた、予想外の拒絶の言葉に怖いと思ったのに、どうしてだろう。
「もっと、見たいと思うなんて」
本当に、どうかしている。