29.約束の季節
柔らかな風が、離宮の庭を優しく撫でるように吹き抜ける。遠くからは鳥のさえずりが聞こえて、陽だまり咲く花にはひらひらと白い蝶が舞っている。
そんな穏やかな離宮の庭を、私はゆっくりと歩く。気が付けば季節は巡り、もうどこに何があるのかを探して迷うようなこともなくなった。
手に持った小さな籠が、咲きそろった花々で埋められていく。これは、ドライフラワーに使う分だったら多すぎたかもしれない。芳香剤でも作ろうか、なんて考えながらもまたひとつ手にとっては香りを楽しんでから摘んでいく。
その中で、ひときわ目を引く花がある。
淡い銀と水色が混じったような不思議な色合いで、存在を主張する花。
「今年も、咲いてくれたね」
私が竜の花嫁としてこの離宮に来てからしばらく経った頃、庭師からの相談を受けて育て始めた花だ。なんでも、隣国デルマリスよりももっと遠く、それこそ竜の翼を借りないと行けないほど離れた国から届いた種を、物の試しとして買ったそうだ。
環境に応じて色を変えるという売り文句に惹かれたそうで、ここより他に適した場所など思いつかないからと片隅を貸してもらえないかと相談されたのは、もうずいぶん前。
どうやらこの地は根を張るのに十分だと思ってくれたらしく、植えた次の年から毎年、立派な花を開いてくれている。
あの時相談をしてきた庭師は子にその立場を譲り、今は隠居を始めた家の周りを花でいっぱいにすると豪語しているのだと言うから、この花から採れた種を送ろうと思う。そうしたら、花の名前を教えてくれるだろうか。
「……覚えているか? ここで、最初にお前と交わした会話を」
しゃがんで花に手を伸ばしていた私に、ふわりと覆いかぶさるように抱きしめてきたのは、アズファルド。
花に伸ばしたままの私の手に、自分の手を重ねたアズファルドのさらりとした髪が、私の首筋を撫でる。くすぐったくて肩を縮こまらせれば、楽しそうにくすくす笑う声が振動となって私の体に響く。
「忘れられないよ。お互い、緊張してたんだって今ならわかるけど」
懐かしい記憶、だけど忘れたくない大切な思い出。くるりと振り返ってみれば、いつものように整った顔立ちが目の前にあった。金色の瞳は穏やかで優しく細められていて、それだけでも初めての時とはまるで違うのだとすぐに分かる。
「懐かしい、と思えるようになったのはリィナのおかげだな」
そう言って笑うアズファルドに、私も笑顔を向けてから立ち上がる。
彼がここに来たのなら、きっとガゼボにお茶の用意もしてあるだろう。今日は外でお茶を楽しむのにはちょうどいい。
ついでに花の選別も一緒にお願いしよう。私よりもアズファルドの方が、香りにはうるさいのだから。
***
だんだんと空に茜色が混じる頃、風が運ぶ香りが少し変わってきた。これはもしかして一雨来るかもしれないな。そう思ってアズファルドを見れば、彼も同じことを思ったのか小さく頷いた。
どちらからというわけもなく茶器の片付けを始めて、大きなバスケットを持ってくれるのはアズファルド。そうして空いた片方の手は私と繋ぐ。
恥ずかしくて、触れることに戸惑っていたことがあったのかと思えるほど自然に、そうしているのが当たり前のように繋がれる手。そこから伝わる温もりが、私の心までも繋ぎとめてくれる。
「この先も、こんな風にくらしていけるといいなあ……」
「暮らしていこう。花嫁としてでも竜語の巫女としてでもない。ただひとり、愛するリィナとしてずっと隣にいてくれるのだろう?」
「ありがとう。花嫁も竜語の巫女も大事だけど、やっぱり私は私として、あなたの隣にいたいの」
あれから無事とは言えないけれど魔術を習得できた私は、エルセリア様の代名詞でもあった竜語の巫女を受け継いだ。とはいえ、アズファルドが竜語を話すのは、本当に私にだけしか伝えたくない言葉がある時だけ。今後のために翻訳をまとめようと思っても、その言葉のどれもが告白まがいの言葉だらけなので、あまりどころかほとんど進んでいないのが現状だ。
お願いしているのに話してくれないのだから、こればかりはアズファルドの期限に任せるしかないのだけれど。
「こんな穏やかな未来が来るなんて、あの頃の俺は想像もしていなかった。お前とでなければ、あり得なかった未来だ」
「アズファルドが寄り添ってくれたから、手に入れたんだよ」
そっと手に力を入れる。返ってくるのは力強さと温もり、それからすべすべした感触。魔術を習得してから私の中に流れる時間は、少しだけゆっくりになった。きっと村の皆も侍女たちも、私を置いて逝ってしまう。その日を想像すると怖くて泣きたくなる夜だってあるけれど、この温もりだけはずっと隣にいると言ってくれたから。だから、私はきっとその日を迎えても大丈夫だと思う。
全部を覚えていられるように、私は中庭の入り口で待っていてくれたライラとイザベラに、そっと手を振った。
「この花、何て名前なんだろう?」
「それは……」
夜になって、私が手の中で遊ばせているのは庭に咲いていた花。淡い銀と水色が混ざる色合いの花弁を持つ花は、私が見れるどの書物にも記載がない。遠い国の花だからこの地にあるのは珍しいというのは分かるんだけど、離宮の書物にも手掛かりがないとは思わなかった。
「ほら、少し前に引退した庭師がいたでしょ? 彼から最後の贈り物だって言われてね。
きちんと根付かせて花が咲いたら、名前を教えますって言ってたんだけど」
役を受け継いだ子に聞いても、自分は聞いてないしその花を見たこともないと言っていた。香りには好みがあるけど花の名前までは興味のないアズファルドだから、きっと知らないとは思う。けれど、もしかして何かの記憶の片隅にあったりしないだろうかとも思って問いかける。
「アズファルド、知ってる?」
「ああ」
「だよね、やっぱり知らな……え!?」
まさか知っているという答えが返ってくるなんて。私の口からは思っていた以上に大きな声が出た。
「お前が聞いてきたんだろう?」
「そうだけど、アズファルドが花の名前を憶えているとも思わなくて……」
「俺だって、美しいと思ったものは覚えている」
そうか。アズファルドはこの花が美しいと思ってくれているのか。それだけで嬉しくなって自然と笑みがこぼれる。
ところがアズファルドはその笑みの意味を勘違いしたようだ。むっと不満げに口を尖らせると、私の手からその花をひったくるようにして自分の手の中に移す。
「アズファルド?」
「……お前は、この花のほうがいいのか?」
不貞腐れているのだと分かりやすく私に背中を向けたアズファルドに、小さく笑う。笑い声は漏れていなかったはずなのに、竜の聴力はしっかりと聞き取っていたらしい。
そっと近づいてからその手に触れて、アズファルドの整った顔を私に向けさせる。
「花に浮気するほど、あなたの花嫁は移り気ではありませんよ」
「そうだったな。すまない、リィナ」
「花の名前を教えてくれたら、許します」
ちゅっと小さなリップ音を立てたけれど触れるだけの優しいキスをしたアズファルドが、私の手の中に花を戻す。
しおれることもなく、花は静かに花弁を揺らしている。
「正しい名前は、知らないんだ。ただ、その地の人々が竜の花と呼んでいたのは覚えている」
竜の花。確かに、アズファルドの竜の姿と同じ色合いをしているから、そう呼ばれていても不思議ではない。そこに水色が混ざっているというのがなんだか少しだけくすぐったくなるような名前なだけで。
「庭師に手紙を書くの。それで、答え合わせしてもらおうか」
「それがいい。これだけ美しく咲くのだ。名前を覚えておかねば花にも失礼だろう」
竜の花が離宮だけでなくこの国全体に広がって、いつしか親しみを込めて呼ばれるようになるのは、遠くない未来の話。
そしてその日も、私は離宮のアズファルドの隣で、笑っている。




