第09話 魔法の利権
あの襲撃から、数日が経った。
私は回復法術でイルネーロ領の医師たちの補助をしながら、魔法力が尽きたら実地で医術を学ぶ日々を続けていた。
あのあと救護所の隅に寝かされていた私が飛び起きた頃には、すでに結界から漏出した魔物の討伐は終わっていた。でも負傷者はさらに増えていて、私は法術無しで手伝える雑務に奔走した。
全ての負傷者が移送できる状態になるのを待って、ようやく公爵一行はテルツォ地区を離れて城館に戻ることになった。
(やっと、終わった……)
以前の身体を鍛えた周回では、野営を含む訓練にも参加していた。でも今回は鍛えた記憶だけは残っていても、実際の体力は全くついてきていない状態である。疲労困憊で医師たちに用意された乗合馬車の列に並んでいると、公爵家の侍従に声をかけられた。
「アンブロージオ子爵令嬢は、こちらへ」
「あ……はい」
何ごとかと付いて行くと、そこにはイルネーロ公爵の紋章が入った馬車が待っていた。
私も貴族とはいえ、あくまで下位貴族だ。さらにできるだけ着替えはしているとはいえ、何日もまともにお風呂に入れていない。そんな状況で豪華な座席に腰かけるのは気がひけてしまう。
私が馬車の乗り口の前でまごついていると、後ろから声がした。
「どうした、乗らないのか?」
「先生! それは、あの……」
私が先生と呼んだのは、イルネーロ公爵閣下その人だ。閣下に付き従って学ぶうち、いつしか私は敬意を込めて彼を『先生』と呼ぶようになっていた。
「ああ、踏み台を持ってきていなかったな。しばし待て」
どうやら私がためらう理由を誤解したらしい先生は、高い乗り口をさっと上がってこちらを向いた。
「ほら、手を」
そう言って車内に跪くと、大きな手が差し出される。だが私は、その手を取るのをためらった。慣れない水仕事でガサガサになった指先を、隠すように握り合わせる。
すると先生は困ったように差し出した手を引っ込めて、所在なさげに自らの頭を掻いた。
「配慮が足らずすまない。だが『加護なし』は触れても伝染したりしないから、安心しろ」
「なっ……そんなこと、誰が言ったのですか!?」
「夜会の場で、一時期よい噂の種になっていただろう?」
皮肉げに片頬を上げる先生は、きっとたくさん傷つけられてきたのだろう。私は泣きそうになりながら、必死に訴えた。
「あの……私は子爵の家の出なもので、あまり王族の方がお出ましになるような夜会に呼んでいただく機会はございませんでした。でも、もし聞いていたとしても、そんな下らない噂は信じません。先生のお手を取るのをためらったのは、この荒れきった手で触れるのが恥ずかしかったからで……」
「……なるほど。法術を使わせるだけでなく、雑用までさせた私の配慮が足らなかった。だが初めに洗礼を浴びせておけば、貴族階級のご令嬢など早々に逃げ出すと思っていたのだ」
「そんな……あのような状況に直面し何もしないでいるなんて、誰であっても無理ですし……」
それ以上に上手な返答が思い浮かばなくて、私は胸の前で握り合ったままの指先にさらに力を込めた。その様子を見た先生は、ふっと小さく息をつく。でもそれは否定を示すものではなくて、どこか肩の力が抜けたものだった。
「さあ、手を。早く帰って休もう」
再び差し出された手に、今度はためらいなく手を重ねる。私は彼をまっすぐに見上げて笑みを浮かべた。
「はい!」
向かい合って座ると、馬車はすぐに動き始めた。普通は馬車で辺境の荒道を走れば会話などできないほど揺さぶられるものだが、どうやらこの馬車には、しっかりとした緩衝装置が付けられているようだ。
内部の装飾は思っていたより簡素だったが、座り心地はこの上ない。柔らかな座面でほっと息をついていると、先生が口を開いた。
「先ほど君は『何もしないのは誰であっても無理』と言ったが、そんなことはない。たとえその力があろうとも、平民のために使ってやるなど惜しいと思うのが貴族というものだ」
「それは、辺境の民がこのような状況にあるなど全く知らないからで……」
「この現状を上の方まで全く知らないなどと、本当に思っているのか?」
「上の危機感が足りないのなら、もっと強く訴えてみては」
「そうすれば、責められるのは聖女だ。力が、資格が足りぬから、在位のうちに結界に綻びができるのだ、と」
「あ……」
現聖女であるルチア様は、本来は第一王子殿下である先生にとっては御祖母君にあたる。第一王子が『加護なし』であると断定されたとき、貴族達はこぞって『王の子が女神の加護たる魔法力を失ったのは、王家に平民の血を入れたせいだ』と非難したのだ。
「そもそも貴族共は、貧民など増えすぎないぐらいがちょうどよいと思っているしな」
そう言って、先生は鼻で笑って窓の外に目をやった。釣られて私も目を向けると、粗末な小屋としか形容できない建物が、ぽつぽつと立っている。王都の華やぎとは全く異なる光景を目にしているうちに、私は気がついた。
「それってまさか、術師が足りないのは目に見えているのに、この国でなぜか先生が扱うような医術が奨励されず、銃もご禁制となっている理由は……」
「そう、格差を保ち、魔法力を持つ者たち、つまり貴族の特権を守るためだ。回復法術も、攻撃魔術も、それを持たざる者に対して圧倒的優位に立てる存在だからな」
「そんな……!」
(こんな現状すら知らずに、私たち聖女候補は『万民を守るため』だなんて思っていたの!? でも、そうだ……私だって繰り返しの経験がなかったら、あの救護所の惨状を見た衝撃で逃げ出してしまっていたかもしれない……)
私がうなだれると、先生は静かに言った。
「理解したか。君は確か一年後の聖女選定までに、検屍術を学びたいのだったな。次に不審な遺体が出たら、検屍のための腑分けを見せてやる。それに耐えられたならば、医術の基礎と検屍術を徹底的に教えてやろう」




