第04話 気の合う人、合わない人
カップの中身が弧を描き、テーブル向かいの金彩のお皿に着地する。皿の中に黒いものがぷかりと浮いて、フランチェスカ嬢は悲鳴を上げた。
「きゃああああ! ちょっと、何するのよ!!」
(あら、大当たり)
なるほど、自分にとって悲鳴を上げるほど苦手なものだから、他人にも最高の嫌がらせになると思ったのか。でも残念ながら私たち下位貴族にとって、こんな虫に対処するなんて日常茶飯事なのだ。
「ああ、申し訳ございません! カップの中に虫が入っていたもので、恐怖のあまり手が滑ってしまいましたわ!」
「は!? 何を白々しい! 今の、わざとやったでしょう!?」
「えっ、かのカルカテルラ侯爵家のご令嬢が、わざと虫を入れたとおっしゃるのですか?」
「そ、そっちじゃないわよ! 言いがかりをつけないで!」
「なるほど、わたくしの手が滑ったのも、わざとではございませんのよ。まさかあの王家の系譜にも連なるカルカテルラ侯爵家が供するお茶の中にわざと虫が入るなんて管理不行き届き、ありえませんわよね。どうぞお気になさらないで、事故なのですもの。お互い様ですわ」
「アナタのような子爵家ごときが、お互い様なんかであるわけないでしょう! わたくしたち高位貴族と対等に同じ卓を囲めるなんて、本気で思っていたの!?」
「そうですね、囲めるとは思いませんわ。では、失礼いたします」
その言葉を好機とばかりに、私はさっと席を立つ。
「ちょっ、どこへ行くの!? まだお茶会は終わっていなくてよ! 子爵の娘の分際で、わたくしのお茶会を中座するなど許さない!」
「フランチェスカ様ご自身が、今、わたくしと同じ卓を囲めないとおっしゃったのではありませんか」
「んなっ……!」
「では、ごきげんよう」
三人が絶句しているうちに、私はさっさと退場した。
* * *
その日の夜。私は寝室に設置された祭壇の前にひざまずき、聖樹の苗木に夜の祈りを捧げていた。宿坊で私に割り当てられたのは、前室である応接室とそこからつながる奥の寝室という、二間続きの部屋だった。ここには個別の浴室はなく、入浴には一階にある浴場を利用するらしい。
さて、この苗木への『祈り』、ただの儀式ではない。聖女の魔法力を注ぎこみ、次代の聖樹をより大きく育てるための大切な作業だ。だがその『祈り』の間じゅう私の頭の中を占めていたのは、女神様への懺悔だった。
(女神アウラ様、今日はちょっと、やりすぎてしまったでしょうか……)
いくら聖女候補は対等な存在とされているとはいえ、あんなふうに上位の貴族を相手に明らかな喧嘩を売ってしまうなんて。以前の私なら考えすらしなかったと思うけど、こんな図太いことができるようになったのは一度本当の絶望を味わってきたせいだろうか。
前回は萎縮してしまって、何をされても我慢するしかなかった。ただ、震えながら黙って従うことしかできなかった。でも今回は言いたいことはぜんぶ言えたし、正直なところ、これから先も言えるだろう。
一度関係性ができてしまったら、後から覆すのは難しい。私は前向きに考えると、灯火を消して寝台にもぐりこんだ。
* * *
二度目の選定を始めてから、はや数日――私は実家から届いた焼菓子の袋を前に、考え込んでいた。蝋引きの薄紙とレース地で可愛らしく包装された小袋は、計五つ。貴婦人ながら菓子作りを趣味としている私の母は少々おせっかいで、さらに天然なところがある。
要約すると『お菓子を焼いたから、聖女候補の皆さんに配ってね』という感じの手紙を眺めて、私はため息をついた。前回は、せっかく善意で用意してくれたのだからという母への気遣いと、母のお菓子は絶品だから食べたら態度を軟化してもらえるかもという少しの期待で、私はこの小袋を携えてフランチェスカ嬢の部屋を訪ねた。
そしてなんと、フランチェスカ嬢は袋を受け取ってくれた――と思った、次の瞬間。彼女は袋を床に落とすと、鼻で笑った。
『アンブロージオ子爵は、夫人が自ら厨房に立たねばならないほど困窮しているのね』
今思えば、確かに料理は貴族らしからぬ趣味だ。実家ではいつもの光景だから麻痺していたけれど、そう反応されても仕方がないだろう。
だがその前回も公爵令嬢のアンジェリーネ様だけは、純粋に贈物を喜んでくれた。さらにはお茶に誘ってくれて、一緒にお菓子を楽しむ機会をくれたのだ。
(だけどそのお優しいアンジェリーネ様が、一人目の犠牲者になってしまうのよね……)
それを近くで阻止するためにも、前回以上に親しくなっておくに越したことはないだろう。私は菓子包を二つほど手に取ると、宿坊の隣にあるアンジェリーネ様の部屋を目指した。
アンジェリーネ様の部屋をノックすると、三十歳ぐらいの細身だが穏やかな風貌の侍女が扉を開けた。確か前回に聞いた話では、彼女は神殿から宛がわれた侍女ではなく、公爵家から付いて来た長年の侍女らしい。彼女に取次を頼むと、すぐにアンジェリーネ様ご本人が顔を出した。
「ごきげんようファウスティナ、どうなさったの?」
「ごっ、ごきげんようアンジェリーネ様! あの、実家から、お菓子がたくさん届いたのです。よろしければ今日のお茶の時間を、ご一緒させていただけませんか?」
「あら、素敵ね! ダフネ、すぐにお茶の用意をしてくれる?」
つい前のめりになりすぎて自ら誘ってしまったが、アンジェリーネ様は優しく笑って快諾してくれた。あの穏やかそうな侍女に焼菓子を渡して皿に並べてもらうと、真っ白なクロスで飾られたテーブルを囲む。
「まあ、このお菓子、まるでバラの花びらみたい」
キイチゴで赤く色付けし、花びらのようにごく薄焼きにした焼菓子――それをほっそりとした指先でつまんで、アンジェリーネ嬢は笑みを浮かべた。そのまま花びらを口に入れると、ぱりっと軽く音がする。しばらく後味を楽しんでから、彼女は驚いたように言った。
「まあ、口の中でほろりと溶けてしまったわ。それに、とっても美味しい!」
「喜んでいただけて嬉しいです」
彼女は二枚目の花びらを手に取ると、優雅に口もとに近づけた。そこでふと手を止めて、唇を開く。
「それにしても花びらを食べるって、まるで……『我ら二人、生まれし場所は違えども』」
彼女は目を細めると、小さく、だが歌手のように澄んだ声音で、叙事詩の一節を口ずさむ。私は思わず胸元で小さく拍手すると、勢い込んで声を上げた。
「すごい、とっても美しいです……! アンジェリーネ様って、詩の暗唱もお上手でいらっしゃるのですね!」
「それは……あの、うっかりしてしまって、どうか忘れてくださらないかしら。流行詩などはしたないから口にするなと、教師から常々言われておりますの……」
だが彼女は気まずそうに、どこか視線を泳がせながら小声で言った。彼女のような大貴族のご令嬢にとって、大衆向けの流行詩ひとつ口ずさむのも許されないのだろうか。
でも今ここにいるのは、私たち二人だけ。何人か侍女もいるけれど、職務の上で耳にした会話には秘匿の義務がある。私は意を決すると、手を口許に当てながら声をひそめて言った。
「それ、双騎士物語の『薔薇園の誓い』の一節ですよね。一つの薔薇の花びらを、二人の騎士が互いに食んで誓いとする……このお菓子、その場面があまりにも印象的で、母に再現したいとねだって作ってもらったものですの。気づいてもらえて、嬉しいです!」
私が満面の笑みを浮かべると、彼女はどこかほっとしたような、気が抜けたような顔をする。
「そう、だったの……」
「はい。だからアンジェリーネ様の暗唱を聴けて感動いたしましたわ! 特にわたくし、氷雪の騎士様が本当に好きで……!」
「実は、わたくしは、炎雷の騎士様が……」
アンジェリーネ様はそう言って、微かに頬を染めてうつむいた。
「なんてこと……! では先ほどの場面、二人で再現してみませんか?」
「再現?」
訝しげな顔をするアンジェリーネ様に、私は悪だくみを持ちかける顔で微笑んだ。
「そうです。あの場面、お互いに花びらを食べさせ合いながら……って、詩の一文を改めて口語で言い直しますと、何やらこう、すごい情景ですけれど……ちょっとだけ、やってみませんか?」
「……やりましょう」
真剣な顔でうなずいたアンジェリーネ様とそれぞれ花びらを摘まむと、お互いの口許に差し出し合いながら言った。
『我ら二人、生まれし場所は違えども』
『永遠の友誼を結ばんと、ここに誓おう』
交互に台詞を言い終えて、花びら……の形をした焼き菓子に、ぱくっと同時に食らいつく。
「「~~~~~~!!!!!」」
私たちは一瞬顔を見合わせてから、大笑いするのをこらえるように、ジタジタと口許を抑えて身もだえした。お作法としてはかなりギリギリの線、むしろ失格だろう。神殿から付けられた侍女たちの目が少しだけ気にはなったが、もしアッティリオ祭司長の耳に入って怒られたら怒られたで、そのときだ。
「……なにかしら。ふふっ、現実でやってみるとものすっごくくだらなかったけど、こんなに楽しいのは久しぶりだわ……!」
とうとう膝上に置いていた手巾をつかんで口許を抑えながら、アンジェリーネ様が息も絶え絶えに言った。
「本当に、もう、本当に……」
語彙力がどこかへ吹き飛んで行ったらしき私も、辛うじてそれだけ返す。
一度こうなってしまっては、令嬢らしい気取った会話なんてしていられない。私たちはお互いの好きな登場人物や場面について、時間を忘れて語り合った。
――あの悲劇は、全て夢だったんじゃないか……そう思うほど楽しい時間を過ごしていると、アンジェリーネ様がふと、顔を上げた。
「まあ、もうこんな時間! お祈りの時間に遅れてしまうところだったわ」
「も、申し訳ございません。すぐにお暇いたします!」
私が慌てて席を立つと、アンジェリーネ嬢は心から残念そうに言った。
「いいえ、こちらこそごめんなさい。貴女との会話があまりにも楽しくて、長くひきとめすぎてしまったわね」
「そんな……」
アンジェリーネ様は立ち上がって私の前に進むと、手を取って微笑んだ。
「今日は訪ねて来てくれてありがとう。ふふ、たくさんお話ができて、とっても嬉しかったわ」
「アンジェリーネ様……」
「また、一緒にお茶しましょうね」
「はい!」
やりなおしたおかげで、アンジェリーネ様の新たな一面を知ることができた。このまま無事に皆で生き残り、さらに彼女が聖女になってくれたなら、どれほど素晴らしいことだろう。
(今度こそ……アンジェリーネ様のことは私が絶対に守る!)
それから私は、できるだけ多くの自由時間をアンジェリーネ様と過ごす時間にあてた。彼女には相変わらず上品ながら意外に気さくな一面があって、私たちはあっという間に親睦を深めていった。




