第29話 慟哭、そして光
懺悔室のときのように多くの衛兵を動かして、警戒されたらおしまいだ。だから私と先生以外には、この場に用意した護衛は信頼できる一人だけ――その護衛が伝令に走るのを横目で見つつ、私は慎重に言った。
「アンジェリーネ様ではないというのなら、右上の奥歯を見せなさい」
「ほら」
首筋に刃を突き付けられたまま、彼女は薄く笑って口をあんぐりと開けた。
今日の先生は珍しく短銃ではなく、こちらも堪能だという軍刀を使っている。それは銃、つまり彼女が一度も見たことがないだろう武器では、脅しにならないためだ。
刃を避けて顎をつかみ、口の中を覗き込む。するとその部分の歯は、欠損した状態のままだった。金歯は、すでに外していたのだろう。
「では、聖痕は……!」
襟首をつかみ、左胸の上部を覗き込む。そこには、本来聖痕があるはずだった。しかしその場所は、焼きごてが押し当てられたように醜く焼け爛れている。
「焼け死んだ友人の屍体を無情にも切り裂いたくせに、今さらこの程度の火傷で驚いたのか?」
一瞬動きを止めた私に、ジャンナは嘲るように言う。しかし私はすぐに気を取り直し、懐から小瓶を取り出すと、中の液体をジャンナの顔に浴びせかけた。
「ぎゃっ!」
潰れたような悲鳴を上げ、ジャンナは身を縮こめる。私は先生に刃を引いてもらうと、彼女のフードを強引に剥ぎ取り、蒸留酒で濡れた顔をごしごしと布で拭った。
すると、肌に描かれていた赤い痣が消え、白い素肌が露わになる。
「……やはり、アンジェリーネ様ではありませんか!」
私が自分の被るフードを跳ね上げると、樹皮の煮汁で染めた髪が露わになった。私は今回マリネッタ嬢と誤認してもらうために使ったが、これは元は巷の役者たちが使う技法だ。肌や髪を赤く染め、役に扮するために使う染料の一種らしい。
「髪色もこれと同じ染料で赤茶に染めた上で、わざと毛先を鋸引くなどして粗く刈り、毛先を傷めて見せたってところかしら」
すっかり白さを取り戻した面に、碧玉の瞳が怒りで爛々と燃えていた。なぜ、もっとよく確認しなかったのだろう。この瞳を、間違えるはずがないのに……!
私は無意識下で魔法に頼りすぎていた。だから痣を描いて偽装するという単純な発想が、とっさに浮かばなかったのだ。
しかし先生はその可能性を指摘し、ジャンナを探す傍らでアンジェリーネが公爵家に引き取られる前の身元を調査した。すると、ジャンナがいた見世物小屋と、アンジェリーネがいた旅役者の一座は、同じ興行主のもとにあったことが判明したのだ。
二人は、昔からの顔見知りだったのだろう。それが、公爵令嬢と下働きの立場で再会したとき、一体どのようなやりとりがあったのか――。
「ジャンナの遺体の索条痕が、普通の絞殺ではなく縊殺、つまり首吊りの形になっていたのも、貴女と入れ替わっていたと考えたならば説明がつくわ」
奥部の取り出し口からジャンナが頭を出した瞬間を狙い、上から長い紐を引っ掛ける。そして、両端を肩に担いで首を吊り上げるようにして絞めたのだろう。一度意識を落としてしまえば、穴から引きずり出して着替えをさせるのも容易だったに違いない。
しかし一連の凶行は、未明の頃に行われた。下働きといえど、通常は仕事を行う時間帯ではない。そんな時間にジャンナが部屋を訪ねた理由は、やはり二人が何度も隠れて会っていたからではないだろうか。
「アンジェリーネ様、いえ、アンジェリーネ。もう絶対に、逃さない……!」
「だからそんな奴、いないって言ったろ。あたしの名はリーネ。アンジェリーネなんて、ご大層な名前じゃない!」
「ならばリーネ、貴女はなぜこんなことをしたの!? しかも聖痕の方は、本物の火傷痕じゃない……」
アレッサンドラ嬢とは違い無意識ながらずっと魔法力を保持していたせいか、確かアンジェリーネは問題なく法術を使えていたはずだ。だから、焼いた直後に傷をふさぐことはできただろう。でも、自分で自分に焼きごてを押し当てるなんて――どれほどの恐怖と、どれほどの苦痛に耐えたのだろうか。
「そんなもの、こんな聖痕なんて捨てて自由になるためさ」
リーネは、その内にこもる汚泥を吐き捨てるように言った。
「自由になるため? そんなことのために、友人を殺したの……? ジャンナは、昔馴染みだったんでしょう!?」
「あいつは、賤民だった過去をバラすと私を脅したんだ。といってもあたしは別に聖女になんてなれなくてよかったし、もうとっくに社交界に私の過去は知れ渡ってたよ。でも痩せぎすで気の毒だったから、何度か食事を分けてやった。なのにあたしに感謝する素振りはちっともなくて、恨みごとを吐いては不自由なあたしの立場を嘲笑うアイツに腹が立った」
「たったの、それだけで……」
愕然とする私に、リーネはせせら笑った。
「ハッ、『たったの』だって? ぬくぬくと平和に育ったご令嬢なんかに、何が分かる! 昔からあたしは顔が良いからズルいと言って敵視していたあいつには、ウソついて男をけしかけられたりとか、何度も何度も危ない目にあわされた。だから、借りを返してもらっただけさ」
「ならば、自由になれたところで終わればいいじゃない! なぜ、他の候補者たちを殺したの……?」
「それはなぁ、ド派手に殺して、この聖女選定なんてバカげた儀式をぶち壊してやるためさ! 他の候補者たちだって、自分が強い立場になったとたん、弱みのある立場のあたしに嫌がらせを始めた。自分ばかりが被害者ぶって、自分が加害者になっていることにも気づかない。あんな奴ら消費したところで、なんとも思わないね」
「でも聖女がいなければ、この国は守りを失って、魔物との戦乱に巻き込まれてしまうのよ。貴女にだって、家族や友人がいるでしょう? 大事な人たちも、みんな不幸になってしまうの!」
必死に訴えかける私に、リーネは笑みを消した。
「……座長はクソみたいな奴だった。それでも優しい母さんと、あたしなんかと一緒になろうと言ってくれる恋人がいたんだ。一座には友達もいた。でも突然出てきて父親を名乗るお貴族サマに、みんなみんな殺された。あたしの過去を消し去って、ご立派なご令嬢に仕立て上げるなんかのために!」
リーネは悲痛な叫びを上げたかと思うと、一転して高らかに哄笑した。
「結局どんなに隠そうとしても噂は広がるもんなのに、バカなこった!!」
平民聖女を嫌う貴血派に属していた公爵は、半分に平民の血が流れる娘の存在を、初めは認めることはなかった。だがリーネの話によると、聖女を輩出した家となる旨みを棄てられないほどに、ジェンティレスキ公爵家は困窮していたらしい。
「――公爵なんて大そうな肩書があったって、もはや体面を保つために借財を繰り返すだけの無様なハリボテだった。最後の望みに必死だったが、こうなったらもう、破滅するしかない!」
公爵は娘を鞭で打たせると、その傷痕を消したくば聖女になれと言った。聖術であれば、傷痕という皮膚の欠損をも補うことができる。でも、アンジェリーネは聖術を使えるようになっても、あえて傷痕を消さなかった。――あの日の憎しみを、忘れないために。
「そんな、ならば聖女になればよかったじゃない。そうすれば公爵の非道を白日のもとに晒し、糾弾することもできたのに!」
「……高慢なお貴族どもが、そんなことで味方になってくれるとでも? 特に貴血派なんて、『作法ができない下民は鞭打たれて当然』と思って終わりさ。だから、あたしは自由になりたかった。最後の望みを絶たれて落ちぶれた父親を、嘲笑いながら殺しに行くことだけが、唯一の楽しみだったのに!」
「そんな……」
私が言葉を失っていると、リーネは鼻で笑った。
「……それにしても、あんたは青の喪服なんて着てカッコつけてるくせに、ちょっと同情を引けば追及をやめちまう……そんなマヌケな『お人よし』だとばかり思ってたんだがな。まさかここまで追い詰められるなんて、ちょっと油断しすぎたか」
その言葉を聞いて、私は肩を落とした。
「私のことを『お人よし』だと思ってくれていたのなら、なぜ私に罪を着せようとしたの? 私は、お友達になれたと思っていたのに……。アンジェリーネ様、あのとき一緒に楽しい時をすごしたのは、ぜんぶ嘘だったのですか……?」
「……それはね、ファウスティナ」
彼女は急に声色を変えると、すっと背筋を伸ばす。そしてあの懐かしい公爵令嬢の仮面を貼り付け、優雅に微笑んだ。
「貴女がとっても善良だったから」
「え? 善良だからって、なんで……」
とっさに意図をくみ取れず、私は眉をひそめた。何かの、聞き間違いだろうか。私が反応に困っていると、彼女は薄笑みを浮かべたまま続けた。
「貴女が楽しげに家族の話しをするたびに、心を歪ませる必要なんて全くない、とっても幸せな人生を、これまでずっと送って来たのでしょうねって思ったら――ぜんぶ、壊してあげたくなっちゃった」
「なっ……!」
「だから、貴女だけは殺すつもりはなかったの。貴女は大きな罪を背負って生きて、わたくしみたいに全ての悪人を恨んで、善人を妬んで、不幸になればいいと思ったわ。だってわたくしたち、対等なお友だちなのでしょう? なら、ぜんぶ『お揃い』にしなきゃ」
にっこりと笑う彼女に、ぞっと背筋が凍りつく。震えを抑え込むように、私は胸元に留めたあの貝彫刻のブローチを、ぎゅっと強く握りしめた。
「お揃いって、そんな……」
「でも、もうおしまいね。もう、聖女なんていらない。こんな国、みな滅びてしまえばいい!!」
刹那、彼女の手が私へと伸びる。だけどあまりに聞いた話の衝撃が大きくて、反応が一歩遅れた。袖口の中に光る刃――気づいた瞬間、それは私の胸に深々と突き立てられていた。
縫い留められた心臓が、その場で身震いを繰り返す。
胸が、灼けつくように、熱い――。
「ファウスティナ!!」
先生の、悲痛な声がする。崩れゆく身体が、しっかりと抱き留められた。
彼女の手に握りしめられたままの短刀が、私の胸から抜けてゆく。白銀の刀身を追いかけるように、聖痕から真っ赤な血がほとばしった。
「ごめんね……すぐに私も『お揃い』にするから……」
かすみゆく視界の中、アンジェリーネは返す刃を自らの胸に突き立てた。ゆっくりと崩れ落ちる彼女に白い雪が舞い落ちては、あたたかな血だまりにとけてゆく。
再びぎこちなく動き出した心臓がひとつ拍を打つたびに、どくりと鮮血があふれ出す。それを押しとどめるように、先生の大きな手が私を抱きしめた。
「ファウスティナ、逝くな! なぜだ、なぜこんなときに、私には加護がない!?」
あふれる血を止めようと必死に押さえつつ、先生が叫んだ。
「愛している。だから、どうか、私を置いて逝かないでくれ……!」
私も、いなくなってもずっと愛していると伝えて、最期に抱きしめ返してあげたかった。でも、急に血を失ったせいだろうか。視界はかすれ、声は出ず、指先一つ動かすことができない。
(こんなところで、終わりを迎えてしまうの……?)
ざあっと、世界が黒になだれ落ちてゆく。
――どこかで「ピシリ」と、亀裂の入る音がした。




