第28話 我らが怨みの声を聞け
『全ての聖女を失い、この国は亡びる』
朝日を浴びる礼拝堂の大扉に、それは真っ赤な塗料で大きく殴り書きされていた。
一瞬の、衛兵の交代の隙をついた出来事だったらしい。
これは、薄々感じていたけれど……根底にあるものは、何よりも強い怨嗟だ。
黒幕などいない。
彼女自身の、強い怨みの衝動によるものだ。
塗料を落とすべく掃除を始めた使用人たちを見て、私は礼拝堂の前を後にした。食欲はあまりないけれど「調査を続けるならばしっかり食べる」と、先生と約束している。
重い足取りで宿坊の一階にある食堂に入るなり、マリネッタ嬢が駆け寄って来た。
「ファウスティナ、助けて……!」
「もちろん!」
何ごとかを聞く前に、私は力強くうなずいた。するとマリネッタは少しだけ泣きそうな顔をして、それでも顔をひきしめ直し、口を開く。
「ごめんなさい。これまで嫌なことを言ってしまったのは、本当にごめんなさい! 私は、聖女になんてなれなくていい。だからあなたが聖女になったとき、どうか住み込みで補佐をさせてもらえない……?」
「……何か、事情があるのよね?」
マリネッタはこくりとうなずくと、堰を切ったように話を始めた。
男爵家の長女であるマリネッタには嫡男である弟がいたが、弟は魔法力が漏出し続ける体質で、産まれてからずっと不調を抱えていた。しかも治療にはお金がかかる上、小さな所領では長らく不作が続いていた。だから貴族といえど、ずっと不自由な暮らしを送っていたらしい。
「――父様は領地に、母様は弟ばかりにかかりっきりで、私はずっと良い子でいるしかなかった。でも、仕方がないと思っていたの。私は、お姉さんだから……」
じっと我慢していたマリネッタのもとに、成人年齢に達したとたん縁談が舞い込んできた。彼女の両親は大いに喜び、『これまでずっと苦労させてきたけれど、これでもう、苦労しなくてもよくなるからね』と言った。
「でもその相手と会ってみると、父様よりも年上だった。舐めるように値踏みする視線の恐ろしさは、今でも忘れられないわ……」
マリネッタが嫁げば、その男からの借財が帳消しになる上に、実家には毎月の援助が届くのだという。『もう苦労しなくてもいい』のはマリネッタではなく、マリネッタを差し出した家族だったのだ。
「でも正式な婚約が決まる直前にね、聖痕が現れたの。両親は狂喜したわ。もしも私が聖女になれば、成金の援助なんかよりも何倍も多いお手当が、貴族にとっての名誉という何よりのオマケつきで手に入るから」
そうマリネッタは自嘲気味に笑ってみせると、一転して必死な顔をして言った。
「でも私は、あの家族に利益をあげるための聖女になんてなりたくない。だから貴女が聖女になって、そして私を聖女の補佐官に任命して、神殿に住まわせてほしい。あの家に、帰りたくないの……!」
私はとうとう泣き出したマリネッタの背を撫でて、彼女の席に座らせる。私も椅子を近くに引き寄せて座ると、給仕に香草茶を淹れるように頼んでから、マリネッタの手を取って言った。
「マリネッタ、絶対に二人で生き残りましょう。だから作戦を立てるためにも、私が知らないことを全て教えて欲しいの。……アレッサンドラ様やフランチェスカ様は、なぜ危ないと分かっていて、一人で行ってしまったの……?」
「そ、それは……」
マリネッタは少しだけ迷ってから、「ここだけの話にしてね」と、声をひそめて話を始めた。
「アレッサンドラ様はね、聖痕が現れてから聖女候補に相応しい量の魔法力に目覚めたのだけど、なぜか魔術も法術も全く使えないままだったの。それが祭司長にバレたら聖女補佐官に任命してもらえない、と、ずっと悩んでいたわ」
なんでも聖樹の苗木に魔法力そのものを注ぐことはできたけど、術の構成を上手く組み上げることができなかったらしい。通常であれば、術の構成は幼いうちから自然と体得してゆくものだ。しかし長年加護なしとして過ごしてきたアレッサンドラ嬢は、突然やれと言われても感覚をつかむのが難しかったのだろう。
「だから本当はダメなんだけど、フランチェスカ様にコツを習って、部屋でこっそり練習もしていたの。でもどうしてもうまく発動できなくて、ずっと悩んでた。いくら魔法力があっても術が使えないまま家に帰されたら、またバカにされるって……」
「そんな……」
そんな状況下で祭司長に告げ口すると脅されたら、危険だと分かっていても一人で話をつけに行ってしまうかもしれない――。
私は言葉を失ったが、マリネッタの話は続いた。
「フランチェスカ様の方はね、特に弱みや秘密はなかったの。でもアレッサンドラ様のことでひどく怒っていたから、自分の手で決着をつけたいとずっと言っていたわ。それに、その……下手人は、アンジェリーネ様だったのでしょう? なおのこと、挑発されたら黙っていられなかったんだと思う……」
フランチェスカ嬢には以前から、アンジェリーネ嬢のことを義妹と混同して見ている節があった。彼女の逆鱗に触れて二人きりでの決闘に持ち込むのは、ごく簡単なことだったのかもしれない。
「そうだったの……教えてくれてありがとう。マリネッタ、もし貴女にも何かあったら、隠さずに全て教えてね。何があっても、私は絶対に貴女の味方だから」
こくこくと、マリネッタは泣きながら何度も何度もうなずいた。
* * *
ちらちらと雪が降る中で――マリネッタが愛用する白い外套が、小走りで庭園を横切った。その片手には、手紙のような紙切れが強く握りしめられている。そのときフードが風にあおられて、赤毛が白い外套に鮮やかに散った。慌ててフードをかぶり直すと、人目をはばかるよう目深にぐっと引き下げる。
やがて美しく整備された池のほとりにたどり着くと、白いフードが不安げにあたりを見回した。結局なにも見つけられずに広い池に目をやると、寒風に耐えるように小さくしゃがみこむ。
背後に、足音を殺して近づく気配が生まれた。だが魔術の構成が進んでいる様子はないから、直接手を下すつもりだろうか。私は身を固くして、その瞬間を待った。
「動くな」
低い男の声がして、私の顔のすぐ横に銀色の切先がすうっと伸びる。だがその刃が真に狙っているのは、私の背後にかがんでいた者の首――。
刀身に気をつけながら振り向くと、私を冷たい池に今にも突き落とそうとしていた腕を、がっしりとつかむ。
「もう逃がさないわよ。ジャンナ、いいえ……アンジェリーネ!」
握る手にいっそうの力を込める私に、アンジェリーネはせせら笑った。
「誰だそれ。アンジェリーネなんて名前の奴、どこにも存在しないのに」




