第27話 愛される対価
ようやく外でのやりとりを終えて、フランチェスカ嬢の遺体を部屋に運び込む。そして胸にぽっかりと開いた赤い穴を、私は丁寧に縫い閉じ始めた。挫滅……つまり切られたのではなく潰されたに近い傷口を、白い肌で封じるように内へ内へと縫い閉じる。
小さく綴じ終えたらぬるま湯で丁寧に血をぬぐい、一点の汚れもない白いドレスを着せた。うつろに開いていた目と唇を優しく閉じて、蒼白の頬に、ほのかなバラ色を乗せてゆく。本格的な硬直が始まる前に処置を終えることができて、彼女はすんなりと狭い棺にその身を横たえた。
私は術衣を脱ぎ去ると、棺のふちににもたれるように手をかける。そして、その眠るように穏やかな顔を、ぼんやりと眺めた。
次はマリネッタ嬢なのだと、あの枝が使われるのは最後なのだとばかり思い込んでいた。だからこの結果は、やはり私の考えが足りなかったせいだ。
――早くジャンナを……ううん、アンジェリーネを、見つけなければ。
私は懐から、二つのブローチを取り出した。お揃いで作られたそれは片方だけが炎に炙られ、まだらに黒ずんでいる。
二つをぎゅっと握り込み、私は唇を強く噛みしめた。
――だまされた。
ねぇ、なんで?
信じてたのに……!
最初の時も、二回目以降の周回も、今回だって、彼女とは仲良くなっていたはずなのに。なぜ、私に罪を被せたのだろう。一緒にすごした日々は楽しいものだったとばかり思っていたのは……私だけだったのだろうか。
(悪いことを言った覚えはないけれど、知らないうちに、あのひと月にも満たないうちに、それほど憎まれるようなことを、傷つけるようなことを、彼女に言ってしまったの……?)
とうとう迎えが来たフランチェスカ嬢の棺を見送って、私は床に崩れ落ちた。
早く術後の身体を清めに行かねばならないのに、足に力が入らない。ようやく下手人まで辿り着けたのに、私の考えが足りないせいで、フランチェスカ嬢まで死なせてしまった。
実は初めてジャンナに会ったときから、雰囲気は全然違うのに、なぜかアンジェリーネ様に似ていると感じていた。なのにそうじゃないと思い込みたくて、少しの誤魔化しで追及の手をゆるめ、何が何でもフードを剥ぎ取って確認するということをしなかった。
「私が甘かったせいで、アレッサンドラ嬢に続き、フランチェスカ嬢まで死なせてしまった。私のせいで……!」
床に座りこんだまま、喉を引き裂くように、掠れきった声で叫ぶ。だが止まらぬ震えを抑え込むように、不意に、後ろから抱きしめられた。
「君は悪くない。悪いのは全て、手を下した者だ。君のせいじゃない」
耳元で、低く言い含めるように、優しい声が響く。
「君のせいじゃない……」
押し込めていた涙と共に、温かなものがあふれた。震えが、少しずつおさまってゆく。
ようやく深く息を吐くことを思い出すと、私はぽつりと問うた。
「なぜ私なんかに、こんなにも優しくしてくださるのですか……?」
「……これほどまでに一生懸命な者を見て、何も手助けせずにいられるほど私は冷徹な人間ではない」
「そうでした。先生は、皆にお優しい方です……」
そう言いつつ、私は少しだけ落胆していた。どんな答えを望んでいたのかと自嘲しつつ、そっと彼の腕をほどこうと手をかける。
だがそれを拒むかのように、抱きしめる力が増した。それは少しだけ苦しく感じるほど強く、でもなぜか切なくて、私はあらがう手を止める。
「違う。君が私を優しいと感じるのは、それは君が私を優しくさせているからだ。だからこそ……惹かれずには、いられない」
「先生……」
ふと、腕が離れた。思わず見上げた私と至近距離で視線が絡んだかと思えば、顎を取られ、唇の先がかすかに触れる。だがそれは、すぐに逃げるように離れた。
伝わった熱は、ほんの僅か。だけど私の唇に、確かなぬくもりが宿る。淋しくなって目で追うと、彼は愕然とした顔で、自らの口許を手で覆った。
「すまない、危機的状況下にあって心細い君に、つけ入るような真似をした。君は今、私に頼らざるを得ない状況だ。それを分かっていて、私は自分の優位な立場を利用した。私は、卑劣だ」
「そんな、待ってください! それでも私は嬉しかったのに……心が通じ合えたと、思ったのに……!」
「それも含めて、人間の持つ正常な心の動き。超自我の防衛機制による錯覚にすぎない。一度、忘れよう。全ての問題が解決し対等な立場となってから、考え直すべきだ。でなければ……この先、平穏な日常を取り戻した君の気持ちが変わっても、私は手放すことを受け入れられなくなってしまう」
この人は、相変わらずとても回りくどい喋り方をする。自身に起こる全ての情動を第三者のように一歩離れて分析し、理論で武装することで、自らの感情を、心を、守ろうとしているのだろうか。
「そんなの、絶対に変わりません。信じてくれたから、助けてくれたから好きになるって、そんなに不自然なことですか……? 貴方が私を信じてくれたのは、貴方の人間性ゆえのもの。貴方だって、だから惹かれんだって、言ってくれたじゃないですか!」
だが彼は、拒絶するように目を伏せた。
なぜ、私は信じてもらえないのだろう。――いや、違う。この人は、自分を信じることができないのだ。
「どうか、私を受け入れてください……」
涙をたたえた瞳で見つめたが、彼の燈火色の瞳がこちらへ向けられることはない。その事実が悲しくなって、私は彼の名を呼んだ。
「フィデンツィオ様!」
瞬間、彼は驚いたようにこちらを見ると、すぐに思い詰めたような、今にも泣き出しそうな顔をする。そして、再び私をきつく抱きしめた。
「……分かった。今だけ傍にいて、全力で君を、君の心を守ろう。だが全てが終わったら、私のことは気にせず離れてくれて構わない」
「離れたりなんか、絶対にしません。私は、そんな恩知らずではありません!」
「そうだ。君はただ、恩を感じているにすぎない。だが不要になったなら、いつでも離れてくれて構わない」
なぜこの人は、愛には利益という対価を与え続ける必要があるのだと、思い込んでいるのだろう。
――この世界には無償の愛だって、いくらでも存在しているのに。
だがそのとき、私はかつて見た光景を思い出した。それは立派な第二王子に誇らしげな笑みを向ける、『王妃』の姿――。
王妃にとって、第一王子もまた、同じ血を分けた実の息子のはず。だが第一王子の『加護なし』が確定したとき、王妃は自ら率先して息子の王族籍からの追放へと動いたのだという。まるで自らの汚点を、なかったことにするかのように。
「今だけだ……」
彼はそう、自分に言い聞かせるように言う。
だがその腕は、いっそう強く私を抱きしめた。




