第23話 つかの間の安息
どの周回でも、フランチェスカ嬢の遺体から魔紋が検出される事件は最後に起こった。つまり枝を使うのは私に全ての罪を着せるための仕掛けなのだから、今回も最後の一人になってから使うと考えてよいだろう。だから下手人の選択を未知のルートへ分岐させないために、聖樹の枝で魔紋が残ることは、あえて公表しないことにした。
そしてマリネッタ嬢のこれまでの死因は、単独ならばいつも庭園の池での溺死だ。だから「池に誘導されるような出来事があれば、絶対に行かずにすぐに教えてね」と、マリネッタ嬢には伝えてある。
とはいえ彼女に全く隙がないと感じたら、私が殺された周回のように、とっさに殺害方法や順番を変える可能性はあるだろう。
気の張る日々が三日ほど続いたところで、先生によるめぼしい使用人たちの面通しが全て終わった。しかし結局、あのアンジェリーネ様の遺体の口をこじ開けてまで中を覗きこんでいた女は見つからなかったらしい。
「次は調査の対象をその他の使用人まで広げる……と言いたいところだが、そもそも、先入観による大きな思い違いをしていた可能性がある」
「思い違い、ですか?」
応接室で話を聞きつつお茶を飲んでいた私は、カップを持つ手を止めて目をみはった。
「ああ。あの侍女を、これまでは下手人と同一人物だと考えて探していた。だが聖樹の枝で魔紋が残ることに気づける者は、魔紋が見える術師、それも聖樹に触れられるほど神殿の中枢に近い人物に限られている。ならばあの侍女は、他の理由で口内を覗いていた可能性が高い」
「でも下手人でもないのに、遺体の口内をわざわざ覗く理由って……ちょっと思い付かないのですが。その特性を知っている黒幕が指示をしたのではありませんか?」
検屍の結果、口内の状態には特に引っかかるような異状はみられなかった。だから覗き込んでいた理由は、例えば犯人を示す証拠などが口内に隠されていて、あの侍女はそれを持ち去ったのではないかと考えていたのだ。
そう説明して首をかしげる私に対し、先生は話を続けた。
「普通はそう考えるだろう。だが下手人ではなかったと仮定して考え直せば、公爵令嬢の口内に何かがあると知りえた人物こそが疑わしい。たとえば側付きの者など、被害者の世話をする立場の者だ」
「それって……そうか、侍女は侍女でも、アンジェリーネ様付きの……!」
「ああ。それも公爵家から付けられた長年の侍女で、騒動の直後に退職した者がいただろう?」
「ダフネ……」
愕然とする私を、どうやら落ち着かせようとしてくれているのか……先生は、穏やかに言った。
「そこで行方を調査させたところ、元侍女のダフネは今も王都の下町に住んでいることが判明した。確認に行こうと思うが、君も同行するか?」
「まだ選定の儀の途中なのに、聖女候補が大神殿から出てもよいのですか?」
「正当な理由をもって許可を得たならば、神殿から外出することは可能だ。朝夕の苗木への祈りを怠らないことが条件だから近場に限られるが、前例はいくつかある」
「ならばぜひ、同行させてください!」
* * *
私たちは下町になじむ服装に身を包むと、腕にパンを入れた籠を下げ、朝のお祈りを終えて帰る人々に紛れて大神殿を出た。久々に立つ王都の大通りは、平和な空気に満ちている。今回の神殿入りはたったのふた月足らずのことなんだけど、もうずいぶんと来ていないように感じるのは何故だろう。
つい物珍しく辺りの様子を見回していると、先生の声が聞こえた。
「こっちだ」
「はっ、はい!」
しばらく歩くと、活気のある広場に出た。真冬にもかかわらず、大小さまざまな露店が広場を取り囲んでいる。先生のすぐ後を追うように歩いていると、ふと陳列台に並ぶ可愛らしい銀線細工のアクセサリーが目に入った。
この露店の並ぶ広場では、ついこの間まで友人たちと買い物を楽しんでいた。懐かしさと、逆にすっかり遠くへ来てしまったという物寂しさ、そんな相反する気分がせめぎ合う。私は首を振って顔を上げると、少しだけ離れてこちらを振り向いた先生を小走りで追った。
「申し訳ありません、遅れてしまって」
「いや、予定までまだ時間がある。少し寄り道をしても構わないだろうか」
私がうなずくと、先生は露店の一つに足を向けた。
「この頃また、あまり食事を取れていないらしいな。まあ神殿で出される味気ない作法にばかり気を遣う食事では、食欲が減退しても仕方ない。食欲がないときは食べる環境を変えることが一番だ」
この露店は王都でも人気の、串焼き料理を売っている屋台だ。寒空に響くじゅうじゅうという音と共に、香ばしい煙につられた人々で賑わっている。もっとも屋台といってもその規模は大きく、広場の一角に屋根付きのテーブル席がいくつも展開されていた。
「どれがいい?」
そう問われて、私は台に並ぶ大皿の上を見た。それぞれの皿には串に刺された食材が、種類ごとに分けて置かれている。私はつい、昔食べておいしかった赤身肉の串に目を向けた。でもそれが焼けるところはまだ見たくないような気がして、魚介の方へ目を向ける。
「私はイワシをお願いします」
すると先生は硬貨を数枚取り出して、店主に注文を告げた。店主は威勢よく応えると、端に休ませてあった大ぶりのイワシの串を仕上げの炭にかけ、ヤリイカに刷毛で魚醤を塗りつける。
「先生はイカ、ですか?」
「ああ、王都のイカは旨いぞ。イルネーロ領は港が遠いから、こちらに来ると食べたくなる」
間もなく魚醤にこんがりとした焼き目がつき始めると、漂う香りに私は思わず小さく喉を鳴らした。そういえば、今朝は果物だけで朝食を終えてしまったのだ。
「へい、お待ちどーさん」
下町なまりの店主から串を受け取ると、私たちは簡素な木の椅子に腰を下ろした。口の中で小さく食前の祈りを唱えると、ひれとウロコを取り、粗塩が振られただけのイワシに、遠慮がちにかぶりつく。炭火で焼かれた皮がパリッとはじけ、ほのかに甘みのある脂が舌を包んだ。
思わずあつあつの身を頬張れば、じんわり広がる風味と共に、幸福感が押し寄せる。だが間もなく大きな部分を食べつくしてしまった私は、残っている骨近くの部位を綺麗に食べることに苦戦しはじめた。
ちらりと横に座る先生に目をやると、先生は無言で、でもとても美味しそうにイカを食べていた。そういえばイカには骨がないから、魚よりも随分と食べやすそうだ。いっそ私も、イカ串にすればよかったかもしれない。
ついじっと見てしまっていたことに気づかれたのか、先生は不意にこちらへ目を向けた。
「欲しいなら、もう一本買うか?」
まだホカホカと温かそうなイカは、こんがりとした魚醤の良い香りを漂わせている。私はこっそり唾を飲み込むと、未練をたち切るように首を振った。
「いえ、二本は食べ切れそうにないので……」
「ならば、これを味見するといい。こちら側はまだ口をつけていない」
言いつつ隣から覗き込むように串を差し出されて、私は思わず口を開いた。
「いただきます」
そのまま、ぱくりとかじりつく。肉厚の身は想像していた以上にフワフワで、私は思わず相好を崩した。親や家庭教師に知られたら大目玉モノだけど、実は友人たちと一緒に、こっそり屋台で食事をしたことがある。こうして分け合って食べたことを思い出し、私は懐かしさに目を細めた。
「やわらかくて、とっても美味しいです!」
「そうか、ならばもうひと口やろう」
微かな笑みを浮かべる先生を見るとなんだか嬉しくなって、私はつい、もうひと口もらった。
(でも、そういえば……自分は口をつけていないところをもらったけれど、先生はこの先も全部食べるはず。だとしたら、私の……)
しばしどぎまぎと目をさまよわせてから……ようやくちらっと隣の様子を伺うと、彼は何食わぬ顔で綺麗に食べ終えた後だった。
(全く、意識されていないのね……)
私は少しだけガッカリしつつ、自分の串に視線を戻した。それにしても串焼きの魚を綺麗に食べるのって、とても大変だ。かといって真ん中だけ食べて終わりでは、イワシに申し訳ない。
せめて、髪はまとめて来るんだった……。難儀して耳の上にかき上げながら食べていると、「すぐ戻る」とだけ言い残し、先生は席を立った
令嬢が大口を開けて食べる姿を見られるのは恥ずかしいだろうと、今さら配慮してくれたのだろうか。でも座席があるとはいえ、屋台で一人で食事するのは少しだけ心細く感じる。
しかし先生は、本当にすぐに戻ってきた。その手にはレースよりも繊細な銀線細工で作られた、少し丸みをおびた百合……いや、これは灯花だろうか。小さな銀の花を束ねた、美しい髪留めを持っている。さっき私が気を取られていたことに気づいていたのだろうか。
「すまない、女性にとって串焼きは食べ難いものだと失念していた。よければ、これで髪を留めてはどうだろうか」
「あの、お恥ずかしながら、指に塩がついてしまっていて……片手では難しいので、留めていただけますか?」
「あ、ああ」
とまどいつつも長い指先が髪をすくい、ぎこちなく髪留めを挿す。
「……これでいいか?」
「ありがとうございます、ずいぶんと食べやすくなりました」
私が顔を綻ばせると、先生も微かに笑みを返してくれた。
「そうか……店主に白湯をもらってきた。食べ終えたら、これで指先を洗うといい」
「はい。ありがとうございます」
実はあまり上品に食べられそうになかった部分は、先生がいないうちに急いで食べておいたのだ。だから間もなくきれいに食べ終えて、私は指先をぬるい湯の器で清めた。
ハンカチで水気をぬぐいつつ、不意に吹いた風に身を震わせる。外套の下はかなり着込んで来たけれど、風が吹くとむき出しの頬と指先が、少し寒い。
「すまない、冷えたな」
「いいえ、私が食べるのに手間取ってしまって……すみません」
「いや……そうだな、手土産に焼き栗でも買っていくか」
なぜ焼き栗なのかと思ったら、包みで手を温めるのにちょうどいい。私は温かな包みを手中におさめると、再び先生について歩き始めた。
「あの、お気づかいありがとうございます。とっても温かいです」
傍らを歩く人を見あげて、笑みを向ける。度重なる試練の中で、ここまで自分を見失わないでいられたのは、この人がいてくれたおかげだろう。
「本当に、感謝してもしきれなくて……」
だが続く言葉を遮るように、彼はこちらに目を向けることなく言った。
「その必要はない。試すようなことをして、悪かった」
「試す……?」
「いや……何でもない」
それきり彼は無言で、少しだけ歩みを速めた。




