第21話 折れた枝の価値
初めに感じたのは、苗木が受けた痛みに対する、同情と悲しみだった。ちょうど夜の祈りの時間だったから、ひざまずいて聖女の力を注ぎこむ。
実をいうと、私はあまり祈りには熱心ではなかった。皆が死ぬ運命を変えることこそが目的で、全てが終わればむしろ嫌な思い出しかない大聖樹の守り手になど、なりたくなかったのだ。だが毎日水をやるように力を注いだ苗木の痛ましい姿を見ると、心が沈む。
私はいつもの倍の時間をかけた祈りを終えると、いつの間にか自分の背丈よりも大きく育っていた苗木を見上げた。幹も太くごつごつとして、苗木と呼ぶのはもうとっくに無理のあった大きさだろうか。
最初はずいぶんと大きな鉢だと思ったけれど、今ではこの大きさの木の根が全て収まっているなんて、不思議に感じる。
(常識でははかれない神秘の存在だと思っていたけれど、枝は折れるのは不思議ね……)
私は足下に目を落とし、折り取られた枝の一本を手に取った。断面には手荒く折り取られたのだろうささくれた部分と、手斧や鉈、もしくは鋭利な攻撃魔術で刈られたような滑らかな部分が様々だ。
太い枝は私の前腕に近い太さがあるから、よほど強い悪意をもって、刃物が振り下ろされたのか……。
(こんなこと、一体誰が……)
そのとき、頭の中を疑念が一つよぎった。
(ううん、違う。一体なんのために、こんなことをする必要があったの?)
これまでの周回では、てっきりフランチェスカ嬢たちに嫌がらせで折られたのだと考えていた。だが先ほど話した様子では、こんな聖樹の枝を折るような暴挙に出ることは、きっとない。
(もしかして『これ以上余計なことをすれば、次はお前がこうなる』という警告かしら。なにより、どうやってこの部屋に入ったの? リトレの穴は、不在時も塞いでおいたはずなのに!)
枝を折られた衝撃が強くて気づくのが遅れたけれど、この部屋は、ちっとも安全ではなかったということになる。
想像するとゾッとして、私は反射的に後ろを振り向いた。そこには、この部屋の奥部の扉が、ひっそりと立っている。
私は勇気を奮い立たせると、近くにいた護衛の女性騎士と侍女のサビーナの二人に声をかけてから、奥部につながる扉を開けた。
だが――そこは夕食前に利用したままの、何の異変もない小部屋のままだった。唯一部屋を出る前と変わっているのは清掃が完了している点だけど、それはサビーナに頼んでおいたことだから、不思議ではない。
取り出し口を塞ぐために置いた重石は、石壁造りなどに使われる厚みのある石板だ。壁の向こうに向けた面は平らで指を掛ける場所もなく、気軽に動かせるものではない。
とはいえ引き戸は開くから、通路の向こうからでも石板の上部を力まかせに押せば、押し倒して除けることが可能だ。しかしその方法で侵入したならば、脱出した際に向こう側からまた重い石板を元通りの位置にぴったり立て直すなんて、できないだろう。
「じゃあ一体、犯人はどこから侵入したの……?」
思わず部屋の中を見渡すと、サビーナが青い顔をしてガタガタと震えていた。
「大丈夫!? もしや、何か心当たりが……」
「い、いえ、まさか聖樹の苗木を折るような、女神をも畏れぬ者がいるなど恐ろしくて……。しかもそんな異端者がこの部屋に入り込んでいたのかと思うと、怖くて……本当に、申し訳ございません」
「いいえ、無理はないわ。私も怖いもの……」
(もし寝ている間に寝室へ入り込まれたら、あの苗木のように手足を折られるのは、私……)
考えれば考えるほど怖くなってきて、私はすぐに上階にいる先生へ報告に向かった。他の部屋を用意してくれと頼むならば、本当はアッティリオ祭司長に直接報告すべきところなのだろう。でも私は、あの祭司長に頼むのは、どうにも不安がぬぐえなかった。
* * *
「分かった。今夜から君もこの部屋に泊まるといい。すぐに支度させよう」
そう言って先生がうなずいたので、私は思わず、うわずった声を上げた。
「え、この部屋に、ですか!?」
「ああ。この三階が王族のための宿坊だからと畏縮する必要はない。私のような半端者も利用できる程度のものだからな。ただ、神殿騎士が護衛を牛耳る二階より、この三階は私の私兵を入れているぶん警備が手厚い」
(そういう意味じゃなくて……!)
もちろん『この部屋』とは言っても、ひと部屋ではない。ただ内扉が付いていて、私的空間内で行き来することができるだけだ。もちろん侍女や侍従、護衛騎士たちに囲まれることになるのだから、意識をする隙もないだろうけど。
とにかく、儀式を取り仕切る祭司長に無断で部屋を移動することはできないだろう。私は先生に連れられて、祭司長の執務室へと向かった。
「部屋を移動してもいいですか?」とお伺いを立てるのではなく、「移動したから対応せよ」と、当然のように決定事項を伝える先生に対し――アッティリオ祭司長は、あからさまに不快そうな顔をした。
「そもそも聖女候補の一人を弟子などと呼んで贔屓が過ぎると思ったが、この女神の家たる大神殿で、堂々と寝所へ連れ込もうなどと……やはり、ファウスティナ嬢は閣下の愛人でしたか」
吐き捨てるように、祭司長の口からあまりにも品のない言葉が出て、私は赤面して押し黙る。だが祭司長の嫌味を、先生は鼻で笑い飛ばした。
「聖女候補の寝所にまで賊の侵入を許し、あまつさえ聖樹の枝を折られるなど、前代未聞のこと。神殿騎士たちは一体何をやっていた? 管理不全にもほどがあるだろう」
ぐうの音も出なくなったようで、祭司長は引き結んだ口を震わせる。だが先生は、追い打ちをかけるように言った。
「とはいえ『一人を贔屓するのはよくない』という、そなたの意見も正しいな。残り二名の聖女候補も三階で引き取ってやろうか?」
「そんなもの、不要です。ファウスティナ嬢の護衛は全て解除し、あとの二名に振り分けますからな!」
私は二階へ戻ると、フランチェスカ嬢とマリネッタ嬢の両名に、聖樹の枝を折られたことを伝えた。念のため二人も三階へ来ないかと伝えたが、フランチェスカ嬢は「不要よ」と首を振った。もっともアッティリオ祭司長が威信をかけているのか、二階も行き交う騎士の数が明らかに増えている。
私は諦めて三階に戻り、割り当てられた客間で就寝の準備を終えると……白亜の壁に、そっと手を触れた。壁に隔てられてはいるけれど、何かあれば先生がすぐに来てくれる――そう思えていなければ、きっと一晩中恐怖に震えていただろう。
自分が用意した護衛騎士や神殿に付けられた侍女たちとは、実は二階に置いてきた聖樹の護りを口実にして、少々距離を置いていた。もしかしたら、その中に犯人を手引きした者がいるかもしれない……。
……そこでようやく疑心暗鬼になりすぎている自分に気がついて、私はため息をついた。就寝まではまだ少し時間があるし、どうせ考えごとをするなら事態を前進させることを考えた方がよさそうだ。
私はテーブルにひと抱え以上ある布包みを置くと、結び目をといた。
中から出てきたのは、折れた聖樹の枝を、念のため全て拾い集めたものだった。もしこのうちの滑らかな断面が、風や氷の刃で刈り取ったものだとしたら……そういえば聖樹は生きているから、損壊した部分に魔紋が残っているかもしれない。
私は枝に手をかざすと、丹念に魔法力の痕跡を探り始めた。だが魔紋はひとつも見つからず、分かったのは、枝にはまだ私が注いだ力が満ちているということだけだ。
聖樹には力を注いだ聖女の力が宿るという話は聖女候補が受ける座学で聞いた話だけれど、折れた先にも宿ったままなのは、新しい発見ではないだろうか。
(普通なら、誰も聖樹を折ろうなんて罰当たりなこと、夢にも思わないものね……)
もしこのまま魔法力が定着するというのなら、特定の魔術や法術を込めて保存することができるかもしれない。
(それも聖女の力なんだから、いっそ魔除けにはならないかな。先生に、何か贈り物ができるといいんだけど……)
先生は何でも持っているし何でも知っているから、なかなかお礼をする機会がない。でも聖樹の枝ならば珍しいし、話の種ぐらいにはなるかもしれない。
私は道具箱から小刀を取り出すと、枝を並べたテーブルの前に椅子を寄せ、腰を下ろした。腑分けで使う小刀の扱いに慣れるため、木彫などもたまに練習している。
のは、いいんだけど……。
「この長細い材料で作れるとしたら……耳かき?」
しかし魔法力が宿っていても、全く意味がなさそうだ。
苦笑しつつ、さらに細長いものを探す。そもそも男性への贈り物なんて、実用品がいいらしいぐらいの情報しかない。
何かヒントにならないかと、しばらく視線をさまよわせ……私はふと、自分の手に持っている小刀に目をとめた。そういえば父様が木製の紙切小刀を、よく手紙の開封に使っていた。それなら大きさ的にも、ちょうどよさそうだ。
私は枝に刃をあてると、慎重に削り始めた。




