第20話 忍び寄る
マリネッタ嬢の部屋から戻ると、私は糸が切れたように寝台に倒れ込んだ。薄く開いた視界はゆらゆらとして、なのに頭は、締め付けるような痛みを増している。
原因は、明らかだった。アンジェリーネ様を見送ってから、食事があまり喉を通らなくなっている。特に肉に薄刃を入れて口に運ぶのが、どうにも苦痛を感じてしまうのだ。さらに今日は夜明け前から騒動の連続で、思えば少量のお茶しか口にしていない。
夕食まであと少し時間があるけれど、その前に何かお腹に入れた方がいいだろうか。せめて、水分はとらなければ……。でも侍女を呼ぶことすら億劫でぼんやりしていると、前室につながる扉が開き、見慣れた侍女――サビーナが、顔を出した。
「お休みのところ失礼いたします。イルネーロ公爵閣下がいらしておりますが、ファウスティナ様はもうお休みであると、お伝えいたしましょうか?」
「大丈夫よ、入っていただいて。それと、お茶の用意を」
「かしこまりました」
私は気力を絞って身を起こすと、下ろしたままだった髪を手櫛で整え、スカートについたシワをはらった。仕上げに鏡台を覗いてみると、唇の色が真っ白になっている。私は急ぎ紅を手に取ると、ほんのり唇になじませた。
(うん、これなら心配させないかな……)
私は背筋を伸ばして扉を開くと、優雅に淑女の礼を取った。
「お待たせいたしまして、大変申し訳ございません」
「いや、突然訪問してすまなかった。侍女たちへの面通しが、ようやく全て終わったと伝えに来た」
「それで、結果は……!」
「話を始める前に、まずは座るといい」
私はうなずいて先生の向かいにある椅子に腰かけると、勢いこんで言った。
「いかがでしたか!?」
「結論から言うと、あのとき顔を見た侍女はいなかった」
聞いたとたんに落胆して、私は肩を落とした。
「そんな……では、一体どこへ行ったのでしょう……」
「その件だが、聖女選定の儀が始まる直前に、侍女からお仕着せを紛失したという届出があったらしい。だからあの者が侍女ではない疑いが強まったから、次は可能性の高い使用人たちから順に確認を行う予定だ」
「はい」
「そこで君に頼みたいのは……」
話を聞いているうちに再び霞がかってきていた頭でうなずくと、先生が訝しげに言った。
「聞こえているか?」
「す、すみません!」
「やはり……様子を見に来て正解だったな」
先生はため息交じりに小声で言うと、私に目線をまっすぐに合わせて口を開いた。
「このごろ君の顔色が良くないと思っていたが、配膳の量を大幅に減らすよう給仕係に命じていたらしいな。そんなことでは下手人を追い詰めるどころか、君の方が先に参ってしまう」
「申し訳ございません、なんだか、食欲がなくて……」
「今は、無理にでも通常時と同じ量を食べろ。それでも食べられないのなら、もうこの件の調査からは手を引いて休むべきだ。後は気にしなくていい」
「それは大丈夫です。回復法術さえあれば、たとえ飢えても命だけは失うことはありませんから」
私は初回に受けた磔刑のことを思い出し、自らに皮肉をこめて笑った。パンのひとかけら、水の一滴すら口にしなくても、生きて、魔法力を生成することだけはできると実証したのだ。
「……法術で無理に命だけを繋ぎとめたところで、それは生ける屍だ。そもそも栄養不足の脳が、まともに働くわけがない」
「それは……」
「そもそも聖女候補を二名も死なせてしまったにもかかわらず、何食わぬ顔で儀式を続けている神殿という組織自体が狂い果てているのだ。もう、君一人だけが苦しむ必要はない。あとは全て私に任せて、君は帝国に亡命しろ」
そうだ、初めから先生に任せておけば、こんなふうに二人を死なせてしまうことはなかったのかもしれない。でも、私は……。
「逃げるなんて、嫌です。どうか私に、最後までやらせてください……!」
しかし先生は、その言葉に今まで以上に頑なになった様子で首を横に振った。
「そのようなただの意地で無茶をすれば、君は遠からず死ぬ。これ以上、黙って見ていることなど出来ない。調査は打ち切りだ。これが最後の、君が生き伸びる機会なのだろう? ならば、むざむざ殺されるのを待つ必要はない。こんな呪われた場所、今すぐ去るべきだ」
「もしそれで聖女のなり手が誰もいなくなってしまったら、大結界はどうなるのですか!?」
「そんなもの、消えてしまえばいい。そもそも、国防の要をたった一人の女性に背負わせる、『聖女』という制度自体が間違っているのだ。この国は、変革すべきときを迎えただけだ」
「それはもっとものことです。でも急な変革には痛みを伴う。私の家族や友人は、この国に住んでいる。なにより大結界が消えて一番初めに苦しむのは、イルネーロ領ではありませんか!」
「その通り。だから来るべき全ての事態を想定し、大結界が消滅した際の対策と、訓練を重ねている」
確かに、イルネーロ領では驚くほどさまざまな事態を想定し、対応の仕組みが確立されていた。だが魔の森との境を守る結界が一気に消滅すれば、どんな状況になるかは分からない。もちろん周辺領主や王家も動くだろうけれど、イルネーロ領は守るべき対象ではなく、あくまでも盾として消費されるはず。
きっと、先生もそれはよく分かっている。
その上で、私に逃げろと言ってくれている。
でも――。
「私は、大切な人達が苦しむと分かっていて、何もしないでいることなんてできません。私は、諦めたくない……!」
短い間だったけど、イルネーロ領にも多くの知り合いができた。女神アウラは、私を苦しめるために試練を課しているんじゃない。皆を救う、チャンスをくれたのだ。
「だが私は、君が苦しむと分かっていて、何もしないでいることなどできない。すぐに脱出を手配する。君はここで大人しくしていろ。心配するな、帝国には私に医術を教えてくれた師もいる。そこで新しい名と人生を得て、自由に生きろ」
そう言って先生は首を振ると、テーブルに片手をついて立ち上がる。
「そんな、待ってください! わたしは、絶対に行かな……っ!」
追いかけるよう椅子から立ち上がった瞬間、視界が真っ白になった。ぐらぐらと頭が揺れたかと思うと、浮遊感に包まれる。
(倒れる……!)
だが――なぜか覚悟していた衝撃はなく、私はしばし白い世界でふわふわとしていた。「飲めるか?」そう遠く聞こえた気がして、わずかに唇を開く。すると甘いものが流れ込んできて、私はこくりと喉を鳴らした。
――間もなく。冷え切っていた指先に、じんわりと熱が戻り始めた。浮遊感が、徐々に治まってゆく。ふと気づいて目を開けると、いつの間にか長椅子に横たえられていた。
「あの……私……」
目線をめぐらせると、傍らの椅子に腰かけていた先生が、ほっとしたように深いため息をついた。
「熱はないようだから、単に血中の栄養が足りぬのだろう。ひとまず栄養剤は飲ませたが、そこに粥と菓子も用意させてある。ゆっくりよく噛んで食べるといい」
「栄養剤……?」
テーブルの上に目をやると、見たことのある小瓶があった。確かあれは、酷い栄養失調の者に飲ませるためのものだろう。さっきの甘い記憶は、あの栄養剤だったのか。
さらに視線を動かすと、まだ湯気を立てているパン粥の皿の横に、赤い宝石のような菓子が山盛りにされていた。あれは確か、栄養豊富なマルメロの果汁を煮詰めたものだっただろうか。
「こんなに? これを、全部ですか!?」
「ああ、全部だ」
「た、食べきれないです……むぐっ」
抗議をしようと開いた口に、あまずっぱい宝石が一個、文句を押し戻すように詰め込まれた。
「菓子の方は一度に全部でなくともいいから、必ず朝昼晩と少しずつ口にしろ。あとは夕食もしっかり食べて、今日は早く寝るように。護衛を増やしておいたから、安心して眠るといい。でなければ、今すぐここから連れ去るからな」
私は慌てて菓子を咀嚼すると、声を上げた。
「わ、わかりました! 全部食べますから、だから、もう少しだけ時間をください!」
先生はため息をつくと、テーブルから皿を持ち上げる。
「ならば、有言実行せよ」
「はっ、はい!」
私は椅子にしっかり座り直すと、厚みのある木製の深皿を受け取った。軽く煮込まれて柔らかなパンを、木の匙ですくって持ち上げる。ほんのり甘い、ミルクの匂い。
(あたたかい……)
奥に隠れた優しい旨味は、野菜の出汁だろうか。ひと口匙を運ぶたび、身体の中に温かな火が灯る。
最後まで食べ終えると、私はずっと傍らにいてくれた先生を見た。もちろん二人きりではなくて、いつもの侍女や侍従が静かに出入りしているけれど――。
「なぜ、ここまで親切にしてくださるのですか……?」
「……どうやら忘れているようだが、私は医師だ。屍体となる前に救う方法があるならば、力を尽くさぬ理由はない。とはいえ患者の意思は尊重しなければ、治るものも治らないからな」
「すっかりお世話になってしまって、本当に申し訳ございません。このご恩は、必ずお返しいたします」
「ああ、必ず返してもらおう。だから、自棄になって命を無駄にするな」
「……はい」
「夕食まで、まだ少し時間がある。ひと眠りするといい」
私は素直にうなずくと、安心して目を閉じた――。
――だが。
その日の夕食を終え、膨らんだ胃をさすりながら部屋へ帰ると――私が育てていた聖樹の苗木が、その枝が、何本も手ひどく折り取られ……床上に、散乱していた。




