第18話 明けない夜の鐘
夜明けの前に目が覚めて、私は寝台の上で何度も寝返りを打っていた。もう少し眠らなければと思うのに、この頃どうにも眠りの浅い日々が続いている。
そこへ鐘が大きく鳴り響き、私は飛び起きた。この音は、夜明けを示す時鐘ではない。拍節の速い、警鐘だ。
だが激しく打ち鳴らされる鐘は、ごく短い時間で鳴り止んだ。
(一体、何があったの!?)
神殿内のあちこちでざわめきが起こり、廊下から慌てたような人々の声と足音が聞こえる。私は急ぎ寝間着の上に長衣を羽織ると、自室の扉を開けた。すると同じく廊下に出ていたフランチェスカ嬢とマリネッタ嬢が、不安げな顔をこちらへ向ける。
「ねぇ、アレッサンドラはまだ?」
フランチェスカ嬢は青い顔をして問うと、すぐさまアレッサンドラ嬢の部屋の扉を叩いた。
「アレッサンドラ、返事をして!」
だが扉が開くことはなく――間もなく廊下を走って現れた神殿騎士から、アレッサンドラ嬢が礼拝堂前の石畳の上で、血を流して倒れていたと伝えられたのだった。
* * *
「オッタヴィアーニ伯爵令嬢アレッサンドラは、鐘楼から転落するという痛ましい事故により亡くなった」
残る三名の聖女候補と、そして国王陛下から正式に調査を委任されている先生を集めて、アッティリオ祭司長はそう陰気に告げた。
なんでも鐘楼の様子を確認しにいった時鐘係の神官が、新雪に覆われた屋上に、鐘楼まで続く片道だけの足跡が残っていたと証言したらしい。さらに鐘楼の内部に、アレッサンドラ嬢の肩掛けが落ちているのを発見したとのことだった。
さらにその足跡は、地に倒れ伏したアレッサンドラ嬢が履いていた靴と、形がぴったり一致した。その他に足跡どころか雪の乱れ一つなく、それも鐘楼の入り口まで行ったっきりで、戻る方の足跡はない。
「このように、アレッサンドラ嬢は街を眺めようとして鐘楼へと向かい、誤って足を滑らせたと考えられる」
「しかし実際に転落したと思われるのは、夜明けの鐘が鳴る前です。まだ暗い街をわざわざ眺めようなんて、考えるでしょうか?」
私が疑問を呈すると、アッティリオ祭司長は面倒くさそうにため息をついた。
「この大神殿の屋上から見る王都の夜明けの景色は格別に美しいと、もっぱらの評判だ。だから一度見に行ってみたいと考えて、だが周囲の暗さで足場を見誤ってしまったとしても、不思議ではない」
「しかし今は真冬、それも一日で最も寒い夜明け前に出歩こうなんて、普通であれば考えません……!」
それでも食い下がる私に、祭司長はとうとう苛立つように声を上げた。
「しかし実際に、足跡は一人ぶん、それも片道だけしか残っていないのだ!」
「片道だけ……そうだ、下手人はアレッサンドラ嬢を突き落とした後、同じ足跡の上をうしろ向きに歩いて戻ったという可能性は考えられませんか!?」
「それも不可能だ。新雪の上の足跡は、アレッサンドラ嬢の遺体が履いていた靴ときっちり一致した上に、足跡が乱れた形跡は無かった。もし下手人がいてアレッサンドラ嬢を突き落としたとして、落下してしまった靴を履いて戻ることはできないだろう」
貴族の靴は履く人の足型だけでなく身体つきにまで合わせるように調整し、職人が一つ一つ丁寧に手作りするものだ。だからかかとの位置や爪先の形まで足跡が完全に一致する靴は、同時に二つ並べて造りでもしない限り、存在しない。
「ではあの、激しい鐘の音は……」
「それも、アレッサンドラ嬢が足を滑らせた際に、とっさに鐘の引き綱をつかんだ故に乱れ打ちとなったと考えたならば、辻褄が合う」
「しかし断定する前に、せめて検屍だけはさせてくださいませ。検屍をすれば、事故か、自死か、事件か、特定できる可能性があるのです!」
「でたらめを言うな! 転落した原因が違ったところで、死んだ原因はどれも同じ『落下の衝撃』にすぎないだろう。遺体を見たところで、違いが分かろうはずがない! 全く、これ以上余計なことをするな。ジェンティレスキ公爵令嬢が焼死した件も、やはりただの失火による事故だったのだ!」
「な……まさか事故として処理し、事件を隠蔽しようというのですか!?」
私は驚愕の声を上げたが、祭司長はせせら笑いながら言った。
「令嬢たちが亡くなったのは、どちらもとても痛ましく、とても不幸な事故だった。だから下手人など、そもそも存在しない。初めから起こっておらぬ事件を捏造しようなど、儀式の妨害は大罪であるぞ?」
「そんな! 検屍の結果、確かに死亡から数時間が経った後に焼かれたのだと、ご説明差し上げたではございませんか!」
「あちらは、確か首吊りの痕跡があったと言っておったな。では公爵令嬢は自ら首を吊った後、何らかの火の不始末を残していて、そこから失火したのやもしれぬ。だがそもそも検屍だなどという怪しげな行為自体、真偽のほどが疑わしいものだ」
「検屍は、正当なる技術です。まさか、アッティリオ祭司長は責任逃れをしようとしているのではございませんか!?」
「なんと人聞きの悪い。そういうアンブロージオ子爵令嬢。候補者が減った今、できの悪いそなたにも、聖女となる好機が巡ってきたのではないかね? つまり、そなたには動機があるということだな。事故ではなかったなどと、なんと恐ろしい!」
「なっ!!」
私が絶句すると、それまで壁に背を預けて腕組みし、黙って成り行きを見守っていた先生が口を開いた。
「……アッティリオ祭司長、そなたは最年少にして次期大神官候補に名が挙がっているそうではないか。不祥事は、避けたいのだろう?」
「だからなんだと言うのです。今回の件とは関係ございませんが」
鼻で笑う祭司長に、先生は冷たい目を向けた。
「聖女が決まる前に候補者を二人も事故で失ってしまったなどと、儀式を取り仕切るそなたの責任が問われることは免れまい。だがまあ、下手人が不明のまま終わるよりは、幾分ましと考えたのか」
「閣下が何と言われようと、事実は覆りませぬ」
「そうだな。ならば国王陛下にアッティリオ祭司長の安全管理の不備を報告し、儀式の責任者より罷免するよう奏上しよう」
「私を、脅すおつもりか!?」
「そなたが何と言おうと、事実は覆らぬ。そうだろう?」
先生が薄く笑って見せると、祭司長は悔しげに歯噛みをして言った。
「貴方は一体、私に何を要求しようというのですか!?」
「別に、私はここで起こったことを、ただありのまま陛下に報告するだけだ。だが仮に、これが事故ではなく事件であったなら、悪いのは儀式を管理するそなたではなく、罪を犯した者となるだろう」
「……っ、そういうことですか。分かりました。いくらでも心ゆくまで、遺体を冒涜なさればいい!」
「それは一体、どういう意図で言っている? 遺体を冒涜せよなどと、とても祭司長の言葉とは思えぬが……報告書へ含めておこう」
「なっ、お待ち下さい、それは聞き間違いでございます!」
「なるほど。悪いが、もう一度言ってくれ」
冷ややかに言う先生に、祭司長は苦虫をかみつぶしたような顔をしながら、なんとか声を絞り出したようだった。
「どうか、アレッサンドラ嬢の検屍を……実施していただきたく……」
「仕方ないな。アッティリオ祭司長の要請により、特別に検屍を行うとしよう。準備せよ」
「……かしこまりました」
とうとう祭司長は観念したようにため息をつくと、黙って部屋を出て行った。




