第17話 幼き頃の祈りの果てに
アッティリオ祭司長の執務室を後にすると、私は傍らを歩く先生に、あえて弾む声をかけた。
「何から何まで助けていただいて、本当にありがとうございます。結局のところ、私一人があがいたところで、何も変えることはできませんでした」
「……権威を振りかざす者は権威に弱い。ただ、その習性を利用したまでのことだ。私は何もしていない」
「そんな! アンジェリーネ様の身に起こったことを知ることができたのも、先生が迅速に国王陛下より調査の許しを得てくださったおかげです。先生は、陛下から格別の信頼を賜っていらっしゃるのですね」
私は笑みを浮かべて見上げたが、先生の瞳は行く手を真っ直ぐに見すえたままだった。
「信頼、か……陛下が目をかけてくださるのは、単に自らを否定したくないためだ。『平民の血を引くゆえに加護を失った』という私の否定に加担すれば、むしろ私よりも平民の血が濃い自らの否定につながる。だから陛下は、私の活躍を望んでいる。平民の血を引く者、つまり自らを否定する者たちを、見返してやるために」
皮肉げに、微かに口角が上がる。心なしか、歩く速度も早まっただろうか。私は遅れまいと足を動かしつつも、彼の横顔を見つめたまま口を開いた。
「本当に、それだけでしょうか。あの時、第一王子殿下の留学を決めたのは……国王陛下でいらしたのではございませんか?」
「ああ。厄介払いと大国への恭順の証、まさに一石二鳥の策だ」
「私は、そうではないと思います。まだ幼い息子を魔法を重視しない帝国へ送り出したのは、国内にはびこる偏見としがらみから逃がし、誹謗に負けない実力と自信を身に付けて欲しかったからではないでしょうか。だから純粋に息子の活躍を喜び、そのために力を貸している側面だって、きっとあるはずです」
話しながら歩くうち、宿坊のある棟へとつながる渡り廊下に差し掛かった。廊下の屋根から下がる無数のつららが、昼下がりの陽光できらきらと輝いている。ふと気づけば、彼はいつの間にか歩みを止めていた。
「……そうであれば、よかったのだがな」
こちらを見ようとしないまま、ぽつりと声が発される。その頑なな横顔へ、私は心からの笑みを向けた。
「そうです。少なくとも、私は今の貴方がいてくれたから……こうして、救われています」
先生は一瞬泣きそうな目をこちらへ向けたかと思うと、すぐに眉をひそめて顔を逸らす。彼の目線の先で、つららから雫がぽたりと落ちた。
(何か、良くないことを言ってしまったのかな……)
返事のないまま、しばしの時が経ち……。私の不安がふくらみ始めたころ、先生はようやく、目線を外したまま言った。
「少し、時間はあるか。付き合って欲しい場所がある」
* * *
聖樹の根元をいだくように、左右両翼に広がる大神殿――巨大な礼拝堂は、その中心に堂々とそびえ立っていた。正面の大扉をさらに上へと見上げると、屋根の上に立つ鐘楼が見える。そこでは夜明けと日暮れの一日二回に鐘が鳴らされ、王都の民に一日の区切りを知らせていた。
だがこの立派な礼拝堂は、常に開放されているわけではない。広く民の参拝が許されるのは、特別な行事のある日だけだ。だから今日も大扉はしっかりと閉ざされていたので、私たちは衛兵に声をかけると、大扉の脇にある小さな扉を開けた。
礼拝堂の中に入るなり、私は思わず女神像へと駆け寄った。女神像の台座には、相変わらずひび割れたままの宝玉が、四つ嵌め込まれている。
「先生は以前、なぜ今回が最後だと分かるのかとおっしゃいましたね。どうぞこれを見てください。やり直すたびに、宝玉が一つずつひび割れていったのです。そして、とうとう全ての宝玉が割れてしまいました……」
私の話を聞いた先生は、しばし無言で宝玉の表面を指先でたどる。ややあって私の方へ向き直ると、静かに言った。
「……私には、割れているようには見えない。むしろ、傷一つないように見える」
「そんな!」
言われてみれば確かに、女神像の台座の宝玉なんて大事な物が割れて見えたなら、神官が気づいて騒ぎになっていてもおかしくない。それが私にしか割れているように見えないなんて……これでは、私が嘘をついていると思われても仕方ないじゃないか。
(もし先生にまで否定されてしまったら、私は……!)
震える両の指先を、ぎゅっと握り合わせる。
「恐らく、再演している聖女にのみ見えるのだろうな」
だが聞こえてきた声は、恐れていた声色ではなかった。
「虚言ではないと、信じて、くださるのですか……?」
「もし仮に虚言だったとしても、何か理由があってのことだろうと思える程度には、君は信用に値する人間だ。違うか?」
「ありがとうございます……」
やっぱり回りくどい言い方だけれど、今はその言葉が何よりの救いだろう。涙をこらえて顔を上げると、先生は微かに笑みを返した。
「行こう。こちらだ」
女神像を後にして、先生は堂内の右奥へと向かった。そこには巨大な礼拝堂を含む建物の、二階部分につながる階段がある。二階は吹き抜けの礼拝所をぐるりと囲むような廊下になっていて、ゆっくりと祈りを捧げるための個室の瞑想室が並んでいた。もっともその中は柔らかな絨毯が敷かれ快適にすごせる内装になっていて、参拝を名目として集まった貴婦人たちの密かな社交場になっているらしい。
だが先生は瞑想室のある方へ向かうことはなく、さらに上へと向かう梯子に手をかけた。
「数段程度だが、上れそうか?」
「はい、大丈夫です」
その言葉にうなずき返すと、先生は先に梯子を上った。レースの下穿きで膨らむスカートの裾を抑えつつ、私も梯子に手をかける。なんとか三段ほど上がったところで、上から伸ばされた手にぐっと引き上げられた。
小さな尖塔に覆われた穴から這い出すと、そこはちょっとした屋上広場になっていた。目の前には巨大な聖樹がそびえ立ち、見上げれば繁る枝葉がよく見える。
ここは、大聖樹の様子を見るために作られた場所なのだろうか。周囲は白い石の手すりで囲まれて、広めの物見台のようになっている。聖樹と反対の方へ振り返ると、その端には鐘楼が立っていた。
夜の間に降ったのだろうか。屋根のない場所には、一面に白い雪が降り積もっている。夜明けの鐘を撞きに来た神官が行き来したのだろう足跡だけが、新雪に点々と残っていた。
こんな巨大な木が中央にあれば周囲は一面の日陰になるはずだが、なぜか聖樹から影が落ちることはないし、雪や雨もさえぎられることなく地上へ平等に降り注ぐ。実体があって触れることもできるのに、なんとも不思議な存在だ。
先生の後をついてサクサクと雪を踏み、神秘の存在である聖樹に近づいてゆく。生命の樹とも呼ばれるそれは以前よりひとまわりほど痩せていて、葉は紅く色づいていた。
白く大きな百合に似た灯花も、今ではかろうじて小さな光を灯しているだけだ。でも……。
「やっぱり、きれい……」
私がみとれていると、先生が静かに口を開いた。
「かつて私は祖母に会うという名目で大神殿を訪れるたび、この場所で聖樹を眺めていた。どうか僕にも、あなたの加護をお与えください……と。結局、私に加護が発現することはなかった。ここへ来たのは、随分と久しぶりだ」
幼い少年が樹を見上げて祈る姿が見えた気がして、私の視界が潤んだ。初めは皆、利発な第一王子へと期待の眼差しを向けていただろう。だがそれは、徐々に失望へと色を変えてゆく――それはまだ幼い彼にとって、どれほど辛いことだったのか。
言葉に詰まっていると、先生は困ったように微笑んだ。
「泣くな。心配しなくとも、もう大丈夫だ」
「ご、ごめんなさい……」
「いや、すまない。君は私の存在に救われたと言ったが、私は君の存在に救われた。ただそれだけ、伝えたかった」
とうとうこぼれ落ちた涙を、遠慮がちに、だが温かな指先が拭う。
「すっかり冷えてしまったな。そろそろ中へ戻ろう」
私はかろうじてうなずくと、聖樹の前を後にした――。
――閉ざされた礼拝堂の前に、アレッサンドラ嬢が血を流して倒れているところが発見されたのは……その、翌朝のことだった。




