第15話 それぞれの過去
しばらくして私は気を取り直すと、次に犠牲になる可能性の高いアレッサンドラ嬢の部屋へと向かった。あの後少し冷静になった私は侍女を通して正式に訪問を打診し直し、承諾の返事をもらっている。
応対に出てきた侍女の話によると、頼んだ通りフランチェスカ嬢とマリネッタ嬢も同席してくれているらしい。
部屋に入ると三人が囲むテーブルには、ひとつだけ空席が残っている。私が挨拶をすると、この部屋の主であるアレッサンドラ嬢が静かに言った。
「どうぞ、お座りになって」
侍女が引いた椅子に、落ち着いて腰かける。すると刺すような視線が私へと集まった。その視線の主は、フランチェスカ嬢だけではない。物静かなアレッサンドラ嬢、そしていつもオドオドと二人の顔色をうかがってばかりのマリネッタ嬢すらも、黙って冷ややかな目をこちらへ向けている。
私はもう一度フランチェスカ嬢に向かい、先ほど突然声を掛けたことを詫びた。彼女の怒りは変わらなかったが、今は早く状況を伝えた方がいいだろう。私はアンジェリーネ様の悲劇に関する疑念、そして使用人の使う各種の通用口に気をつけるよう、三人に切々と訴えた。
だがフランチェスカ嬢の反応は、思わしいものではなかった。
「フン、下民が下民に殺されるなんて、魔法力の総量は多くとも使いこなせていなかったということかしら」
「どういうことですか? もしや以前聞いた平民とは、私のことではなくてアンジェリーネ様の……」
私が驚愕の目を向けると、フランチェスカ嬢は得意げに教えてくれた。
「その通り。あの女は、ジェンティレスキ公爵が旅芸人の女に産ませた娘よ。初めは何も知らされず、一座と共に各地を興行して周っていたらしいわ。でも聖痕が現れたから、公爵が慌てて引き取って仕込んだのよ。それがたったの一年ぽっちで完全に貴女を騙せるほど役を作り上げたのだから、大した女優だわ」
「そうだったのですね……」
「あなた、あれほどアンジェリーネ様と仲良さそうにしていたのに、なにも知らなかったのねぇ。愛人、それも薄汚い賤民の娘が、最後に公爵家の令嬢として過ごせて幸せだったんじゃない?」
「そんな、ひどい……!」
「それ以上は分不相応ってことよ。それにしても、あなた騙されていたのだから、少しくらい怒ってもいいのではなくて?」
うっすらと嘲笑を浮かべたフランチェスカ嬢へ、私は怒りを込めた目を向けた。
「なぜ怒らねばならないのですか?」
「下賤の出のくせに、正統な貴族であるあなたを散々下に見てかしずかせていたでしょう。腹が立たないの?」
「別に、かしずいてなどおりませんし、腹が立ちもいたしません。出自がどうであれ、アンジェリーネ様はわたくしの大切な、対等な友人であったことに、変わりはございません!」
「ふん、内心ではどう思っているのやら。それで、話というのはそれだけ?」
「はい。どうか充分にお気をつけて……と、それだけです」
「そんなもの、使用人ごときが襲ってきたところで、このわたくしが真の魔術で返り討ちにしてあげるわ!」
そう言い放つと、フランチェスカ嬢は椅子から立ち上がる。
「それでは、ごきげんよう」
「待っ」「ごきげんよう、フランチェスカ様」
引き留めようとした私の言葉を遮るように、アレッサンドラ嬢が声を上げた。この部屋の主であるアレッサンドラ嬢が退席を認めたのだから、私はもう口を出すことができない。
(ならばせめて、アレッサンドラ嬢だけでも……!)
私は向かいに座るアレッサンドラ嬢へ向き直ると、重ねて危険な状況を伝え、気をつけるように説得した。だが――。
「先ほど、フランチェスカ様がおっしゃっていたでしょう。わたくしたちは誉れ高き貴族、術師なのよ。贋物の公爵令嬢などとは違うの。下民ごときに、後れを取るわけがない」
いつも無口な印象のアレッサンドラ嬢までもが、珍しく饒舌になって嘲笑う。私はその事実が信じられなくて、疑問をぶつけた。
「貴女たちはなぜそれほど、死んだ人のことを悪く言えるのですか? アンジェリーネ様のこと、何も知らないくせに……!」
「何も知らないのは、貴女の方よ」
まるで、もうこらえきれないと言うかのように――アレッサンドラ嬢は皮肉げな笑みを浮かべると、滔々と語り始めた。
「フランチェスカ様は十年前にお母様を亡くされて、カルカテルラ侯爵はすぐに後妻を迎えたわ。かつて高級娼婦だった後妻には、フランチェスカ様と半年違いの妹がいるの。もちろん、妹は侯爵の実子よ」
「そんな……一夫一妻を守るべしという、女神の教えに背く行いじゃない!」
「そんなこと、しょせん表向きの話。そこまでは跡継ぎが必要な貴族には、よくあることよ。でもね、フランチェスカ様は……それ以来、何度も同じ古びたドレスで夜会に参加している姿をお見かけしたわ。そのたびに恥ずかしそうにして、会場の隅に隠れるようにしていらっしゃるの。でも彼女の妹は夜ごとに異なる豪華なドレスを着て、広間の真ん中で見せつけるように踊っていたわ」
「そんな差別を、なぜ侯爵は許していたの!?」
「子に無関心な父親なんて、いくらでも居てよ。でも聖女候補に選ばれて、体面の上で無視できなくなったのでしょう。フランチェスカ様のお召し物は見違えるようになった。もう誰も、彼女のドレスを嘲笑ったりしない。彼女は、自らの名誉を取り戻したのよ」
「フランチェスカ様に、そんなご事情があったなんて……でもアンジェリーネ様も庶子のお生まれであったとしても、そんなフランチェスカ様のご家族とは全く違う、ひかえめでお優しい方だったわ。なぜ混同して蔑まれる必要があるの!?」
「そんなこと、決まっているでしょう?」
いつも物静かな印象しかないアレッサンドラ嬢が、さも面白そうに顔を歪め、クスクスと笑う。
「どういう意味かしら……」
私が少しの苛立ちを込めて問うと、彼女はニヤリと笑って応えた。
「だってわたくしたち、人間だもの」
「人間だからって、そんな理不尽な偏見はないわ! それにフランチェスカ様の過去は、あくまでフランチェスカ様のものでしょう。アレッサンドラ様には関係ないではありませんか!」
「ファウスティナ……貴女、今までよほど幸せに生きて来たのね。きっと周囲から愛されて、平凡で善良な、つまらない人生を送ってきたのだわ」
「そうだったら、なんだというのですか……」
私がこみ上げる怒りをこらえながら言うと、アレッサンドラ嬢は薄笑みを浮かべたまま言った。
「……わたくしはね、『加護なし』だったのよ。オッタヴィアーニ伯爵家始まって以来の恥さらし。一族の汚点だったわ。だからできるだけ目立たぬように、加護なしが露見してしまわぬように、地味に地味に、悪い方にも目立てぬようにと育てられた。でも聖女候補に選ばれたのは、いつも両親が優秀だと自慢していた姉ではなくて、この不出来で地味なわたくしだった!」
「なっ……」
「わたくしに聖痕が現れた時のあいつらの顔ったら、ほんと、いい気味だったわ!」
アレッサンドラ嬢は高らかに言うと、心から可笑しげに笑い始めた。
「でもね、とても残念だけれど、わたくしは理由あって聖女になれないの。だからフランチェスカ様を推戴し、彼女が聖女となった暁には、わたくしたちは栄えある聖女補佐官の地位をもらって神殿に置いていただくことになっているわ。ねぇ、マリネッタ」
アレッサンドラ嬢の目線を追って、私もマリネッタ嬢へと目を向ける。すると彼女はアレッサンドラ嬢の言葉にうなずき返してから、私に強い眼差しを向けた。
「私は、聖女になんてなりたくない。でもあの家にだけは、絶対に帰りたくない。だから、貴女に聖女の座は渡さないわ」
二人の視線に射貫かれて、私はたじろいだ。この二人が、これほどまでに強い意思を持ってフランチェスカ嬢に付き従っていたとは、思いもよらなかったのだ。
「私だって、別に聖女になりたいわけではないわ。むしろ、なりたくないと思ってる。ただ、貴女たちに死なないで欲しいだけ。それだけなのよ……」
だから、ようやく絞り出せたというだけの私の言葉が、二人に響くわけがない。アレッサンドラ嬢は鼻で笑うと、冷たく言った。
「あら、全てに絶望して、屈辱にまみれて……これまで死にたいと思ったことなんて、何度もあったわ。でも、そのたびにわたくしたちは踏みとどまって生きてきた。生きて、あの者たちを見返すために、ようやくここまで来れたのよ。貴女なんかに心配されなくても、絶対に殺されてなどやるものですか……!」
アレッサンドラ嬢の言葉を聞きながら、マリネッタ嬢も悲しみと悔しさがないまぜとなったように、顔をゆがめた。だがそれはこの場の誰かへ向けた表情ではなくて、遠いどこかへ思いをはせているようだった。
この様子では、マリネッタ嬢にも深い事情があるのだろう。そう考えて、私は哀しくなってうつむいた。彼女たちとは、これまで何度も一緒の時を過ごした。それなのに、皆がこれほどまでに重い過去を抱えてここへ来ていたなんて、全く気づかなかったのだ。
私はもう一度だけ、二人に気をつけるよう念を押すと――失意のまま、アレッサンドラ嬢の部屋を後にした。




