第14話 痣(あざ)と痕(あと)
翌日、午前の座学を終えた昼食後――。
私は日課の聖樹に力を注ぎ終えて、疲れた息を吐いた。たとえ候補の一人が不審な死を遂げても、選定の儀は続く。この国には、聖女が絶対に必要なのだ。
「ファウスティナ様、ご実家よりお菓子が届いているようです。よろしければお茶をご用意いたしましょうか」
ため息に気づいたのだろう、神殿から付けられた侍女のサビーナに、そっと声をかけられた。
「お願いするわ」
しばらくして用意されたお茶の横には、あの紅い花びらを模した焼菓子が白い器に並んでいた。かつてこの焼菓子を一緒に楽しんでくれた人は、もういない。
命に重みをつけるのはよくないけれど、一番守りたかった人を、むざむざ死なせてしまうなんて――。
「なんで、私はこんなにダメなの……」
声に出して呟くと、摘んでいた花びらがぱりりと割れた。だがこうなってしまった今、せめて残りの三人には、無事に家に帰ってもらいたい。これまでの周では嫌がらせをされたり、ひどく嘲笑されたりもしたけれど――まだこの世界線では、起こっていないことなのだ。
(やっぱり……今分かっていることを、三人にも伝えておこう。同じ聖女候補である仲間を失った衝撃が残っている今なら、気をつけて欲しいという言葉はきっと響くはず……!)
私は決心してカップの中身を飲み干すと、善は急げとばかりに自室の扉を開けた。外に出ると、まさにフランチェスカ嬢が廊下を歩いてゆく背中が見える。
「フランチェスカ様!」
私が声をかけると、彼女はすぐに振り向いた。だがその瞬間、彼女の広いスカートの裾が、すれ違うように横を歩いていた女の持つ水桶に触れた。ふんわりと見せるために木製の骨を仕込んだスカートが、水桶の持ち手に引っかかる。
たまらず反動で桶が揺れ、フランチェスカ嬢のスカートに中の水がかかった。運悪く拭き掃除でもしていたのだろうか、真っ白な絹地が灰色にくすむ。
「ちょっと、ドレスが汚れてしまったではないの! 新調したばかりのものなのに、お前の首一つで贖えると思っているの!?」
怒りに顔を染めるフランチェスカ嬢に向かい、下働きらしき女は固い石の床に額をこすり付けて平伏した。
「も、申し訳ございません! なにとぞ、どうぞお許しを……!」
深くかぶったフードから覗く毛先は赤茶けて、擦り切れたようにパサパサだ。さらに老人のような低くしわがれた声をしているけれど……地についた手は滑らかなようだから、私と同じぐらいの年頃だろうか。
「許せですって? そもそも、お前のような下女が貴族と同じ廊下をゆくなどと、無礼極まりない!」
「それがあの、あたしは鳥のフンが廊下に落ちてるから掃除しろって、えらい人から命じられただけで……そしたら、戻るとこがわかんなくなっちまって……」
「なっ、よりにもよって、そんな汚い水を掛けたの!? どうやら、罰が必要なようね……!」
フランチェスカ嬢が、下働きの少女に手をかざす。魔術の構成が進んでいる気配がして、私は慌てて声を上げつつ駆け寄った。
「フランチェスカ様、お待ちください! 神殿内での攻撃魔術の使用は禁じられております!」
彼女は振り向くと、フンとひとつ鼻で笑った。
「あらファウスティナ様、貴女はすでに使ったようだけど、許されたそうじゃない?」
「それは、消火というやむを得ぬ事情があったからです!」
「ならばわたくしにも、身の程をわきまえぬ下女のしつけという、やむにやまれぬ事情があるわよ?」
「そんなもの、言いがかりではございませんか! そもそもわたくしが突然声をかけたせいで、貴女のドレスが桶にぶつかったのです。責めるのでしたら、どうぞわたくしになさってください!」
「あら、もう慈悲深き聖女さま気取りなのかしら。残念だけれど、今最も苗木が大きく育っているのは、明らかにわたくしなの。聖女に必要なのは、あなたのような偽善じゃない。聖樹を青々と育てるための、強大なる魔法力を持つことこそが聖女の証! 下働きなんかに媚びを売って無駄なあがきを、せいぜい頑張ることね!」
高笑いを上げつつ、フランチェスカ嬢は再びこちらへ背を向けた。そのまま同じ廊下の並びにある、彼女の部屋の扉を開く。がちゃんと音を立てて扉が閉じると、私はまだ地に伏せていた少女に顔を向けた。
「もう大丈夫よ。立てる?」
「はい……」
その返答は顔を伏せたまま、なんとも歯切れが悪い。具合が悪いのかと近づくと、私はその麻色のフードに見覚えがあることを思い出した。
「あなた……もしかして、この間リトレへ回収に来てくれた人?」
「いえ……」
彼女は曖昧に答えると、のっそりと身を起こした。だが顔は見られたくないのか、はたまた貴族相手に畏縮しているだけか、フードの下で俯いたままだ。
……そうだ、この痩せ細った少女なら、あの小さな壺の交換口からでも、部屋の中へ出入りができるはず。侍女の制服こそ着ていないけれど、裏方で暮らしているならば手に入れる機会なんていくらでもあるはずだ。
私は不意をつき、フードの中を覗き込んだ。そこに隠れていた顔は、煤汚れで黒ずんでいただけではない。その肌のほとんどが、火傷をしたかのように赤いまだらに変色していた。対する唇はカサカサにひび割れて色がなく、ひと目で栄養状態が良くないことが見て取れる。
「やめろっ、見るな……!」
声を上げると共に、彼女は勢いよく顔を背けた。
(あれは……火傷痕!? まさか、この人は火災の現場にいたんじゃ……!)
「待って、その傷痕を治してあげるから、よく見せて!」
「違う、これはキズなんかじゃねえっ」
「大丈夫だから、任せて」
私は彼女の腕をつかんで引き留めると、急いで回復法術の構成を組み上げた。
「修復!」
通常の回復法術では、どんなに高位のものであれ、欠損に相当する傷痕を治すことはできない。しかし女神の恩寵を受けた聖痕の乙女は対象に命の灯が残ってさえいれば、欠損を補う修復すら可能となる。
これは、先代聖女から受ける座学の中で学んだ、聖痕の乙女たちにのみ使える聖術だ。だから最終的に聖女にならなくても、元聖痕の乙女たちは貴族社会で尊重されている。だが……。
「え……痕が消えない!? 痕も、修復対象になるはずなのに……!」
「だから言ったろ、こいつぁキズの痕なんかじゃねぇ。正真正銘、生まれつきのアザなんだ」
吐き捨てるように言った彼女に、私はうなだれた。
「まさか、本当に痣だったなんて……」
「ハッ、一体なにに疑われてたんだか。こいつのおかげで、あたしは生まれてからずっと不幸だった。生まれてすぐ見世物に売られて、今もこんなクソみてぇな仕事にしかありつけない、呪いの印さ……!」
顔を隠すようにフードを引き下げる彼女に、私は頭を下げた。
「ごめんなさい、配慮が足りなかったわ……。もう無理に見ようとしたりしない。その上で不躾なのだけど、あなたはアンジェリーナ様の部屋にも陶器の交換に行っていたのよね。そのとき、何か不審な人や物を見ていない?」
あの侍女のお仕着せを着た女にこれほど大きな生まれつきの痣があったなら、きっと先生は言及していたはず。つまり、この人とあの侍女とは別人の可能性が高い。ならばこの人には、貴族には知り難い、裏の情報を得るための協力者になってもらえないだろうか。
「最近リトレの担当を代わったことがあるとか、本来は裏の通路を使わないはずの上級使用人の姿を見かけたとか、何でも気付いたことがあれば……」
「なんだよ、キズを治してやるなんて言って、恩を着せて情報を引き出したかっただけか。そもそも古いキズなんて、背中にいっぱいあるんだよ。それを今さら直したところで、あたしの人生はなんにも変わらない」
「背中……?」
彼女はニヤリと笑うと、自らの上着の背をはぐった。
「なっ」
そこには、無数の鞭打ち痕らしき古傷が広がっていた。怪我としては、一応完治しているのだろう。だが白い肉の盛り上がりが、無数の蛇のように背中を這い回っている。
「あの、よければ治療を……!」
「これは、あたしの恨みの証。消してもらう必要なんてない。恩を着せられなくて残念だったな」
彼女に鼻で笑われて、私は肩を落とした。勘違いで疑って傷つけて、さらに利用しようとしていたのは、図星だったのだ。
「ごめんなさい……その通りよ。でも私はどうしても、友人を殺した者を突き止めたいの……」
「ふん、否定はしねぇのか。聖女候補サマはバカ正直でいらっしゃることで。おあいにくさま、何も見た覚えはないね」
「そう……あの、あなたの名前を教えてもらっても良いかしら。次からは対価を用意するから、裏方の情報が欲しいの」
自分の立場上、使用人たちの領域である裏方に入り込んで調査することはできない。だから、なんとか協力してもらえないだろうか。
「いやだね。と言ったところで、どうせあたしの意思なんて関係なく調べるんだろ。……あたしはジャンナ。あんたらおキレイな聖女サマ方の奥部を代わりに掃除してやってる、ジャンナだよ!」
「そうね、いつもありがとうジャンナ。何か気づいたときには、何でも連絡してね」
そう言って少し困り顔で笑いかけた私から逃げるように、ジャンナは階下の世界に姿を消した――。




