第13話 貴族には見えない通路
薬草による燻蒸と湯浴みを終えた私は、自室のソファーでぼんやりと検案書を眺めていた。気づけば検死は三時間にもおよび、後半は気力だけで立っていたらしい。でも、そろそろ着替えて、先生にお礼を言いに行かなければ。重たい身を起こそうとしていると、侍女が来訪者を告げた。
「イルネーロ公爵閣下がお越しです」
「入っていただいて」
私は急いでソファーから立ち上がり、部屋の入口へと向かう。侍女に扉を大きく開かせて先生を出迎えると、深く淑女の礼を取った。
「先ほどはご助力いただき、ありがとうございました。こちらから御礼に参るべきところ、大変失礼いたしました」
「いや……休んでいるところだったか。すまない、また明日出直そう」
いちおう長衣を羽織ってきたのだが、その下が寝間着だったせいだろうか。わずかに視線を外して踵を返そうとする先生を、私は慌てて引き留めた。
「待ってください! 今検案書を見返していたところ、少し気になる点があったのです。ご意見を伺ってよろしいでしょうか」
「ああ、構わない」
「ありがとうございます、お願いします」
私は侍女にお茶の淹れなおしを頼むと、先生をテーブルに案内した。
* * *
「――てっきり、被害者は油をかけて火をつけられたから、悲鳴を上げながら焼死したのだとばかり思っていました。しかし実際は縊死、それも死後数時間が経っていた可能性が高いなんて……」
私は先生と向かい合って座ると、検案書の記載を指先でたどりながら言った。ここに書かれている内容は、どれも今まで考えていた流れとは異なる事実を示している。
「順当に考えるのなら、火災は死因と死亡時刻の偽装に使われたのだろうな。縊殺で見られる特徴が、見事に熱傷で上書きされていた」
「やはり、悲鳴は下手人による偽装だったということでしょうか。つまり下手人は、女。先ほどの不審な侍女が……!」
遺体の口をこじ開けていた、侍女のお仕着せを着た女――その姿を思い出しながら、私は声を上げた。
私は先生の背後にいたから、侍女の顔をまともに見ることはできていない。だが侍女の顔を目撃したのだという先生は、残念そうに首を横に振った。
「正確な死亡時刻を算出できない以上、断定は危険だ。何より今分かっている状況だけでは、死亡時刻を偽装することに合理的な理由がない。どのみち下手人はその場にいたのだから、存在証明の工作にもなりえない」
「しかしながら使用人であれば、あの部屋から扉を使わず脱出することができたのです」
「どういうことだ?」
「こちらへ」
聖女候補に与えられた部屋は、二間続きになっている。一部屋は手前の応接室、もう一部屋は奥の寝室だ。私は寝室に入ると、なぜか付いてこない先生の方へ振り向いた。
「あの、こちらへどうぞ」
「……いくら私に全く興味がなかろうと、仮にも男を夜分に寝室に招き入れるのはいかがかと思うが」
わずかに眉をひそめた先生に、私は慌てた。
「あっ、不調法な行いを申し訳ございません! でもどうしても、早くこの部屋の奥の構造を見ていただきたいのです。扉は開けたままで、侍女も同席させるようにしますから!」
「……手短に頼む」
夜会などで恋人と仲睦まじい姿をしばしば目撃されていたらしいデメトリオ殿下と違って、兄の方はずいぶんと潔癖であるようだ。もしかしたら弟の行いを知っているがゆえの、反動なのかもしれないけれど――。
「はい、こちらです!」
私は侍女を呼ぶと、寝室のさらに奥にある、装飾のひかえめな扉を開けた。そこはごく小さな部屋になっていて、木の蓋の置かれた椅子が一つ置かれている。蓋の下の座面には穴が開いていて、さらにその下には、砂が敷かれた大きめの陶器の壺が一つ。
ここは、『奥部』と呼ばれている。今でも庶民たちの大半は、寝室の中にそのまま壺を置いて用を足しているらしい。だが貴族の間では、近ごろ急速にこの小部屋の普及が進んでいた。
「ここの構造に、何かあるのか?」
「この壁の下部にある、木の枠に囲まれた部分……よく見ると、四隅の塗装が剥げているでしょう? じつはこの部分、小さな引き戸になっているんです」
壁の下部には金彩の彫刻がほどこされているのだが、その下方に額縁に囲まれたようになっている、無装飾の部分がある。そこは壁の上部と同じ薄緑色の塗料が塗られていたが、四隅に擦れたような跡ができていた。
「この引き戸には取っ手がついていないので、こちら側から開けることはできません。ですが向こう側からは開けられるようになっているのです」
「なぜ、こんなところに仕掛けがある! 聖女候補の部屋に侵入可能な入り口があるなど、神殿は把握しているのか!?」
こんなふうに先生が驚いた声を上げるなんて、私も初めて見ることだった。どうやら博識の先生でも、ここの仕組みは知らなかったらしい。でも、無理はない。これはあえて貴族には見えないように、配慮して作られている部分だからだ。
「この引き戸、向こうは裏方の使用人通路に繋がっているのです。ここの引き戸を開けて穴に手を差し入れ、壺を交換しているんですよ」
いくら美しい陶器で作られているとはいえ、貴族用の廊下をおまるを持った下働きが歩くようなことはない。貴族用の廊下を使えるのは使用人の中でも侍女や侍従といった上級使用人だけで、下働きを行う下級使用人たちは、表に姿を見せることすら禁じられているのだ。
だから聖女候補たちの部屋にも、必ず掃除などの目的で下級使用人が出入りする方法があると考えていた。初めは、探してもなかなか見つからなかったのだが――。
(実はリトレに籠ったまま考え事をしていたら、回収に来た人と鉢合わせて気づいた……なんて、先生には絶対に言えないけれど。下級使用人の存在は極力貴族が認識せずに済むように建物が作られているから、この件で探すまで気にしたことすらなかったのよね……)
リトレを便利に使いつつ、それがどうやって清潔に保たれているのかなんて、これまで考えたこともなかったのだ。
「この取り出し口、例えば先生の肩幅では通り抜けできないと思います。ですが私ぐらいの体格であれば、服装次第でなんとか通り抜けることができるはずです。だから子どもや女性など小柄で、それも使用人通路を使っても目立たない立場の者が下手人なのではないかと考えます」
「……今のところ、反証は見つからないな。ただ通いの使用人を含めると、大神殿では八百名を超える人間が働いている。そのうち、神官が二割程度。上級使用人はその倍といったところか。うち侍女だけに絞っても、百名を下らんだろう」
「そんなに……」
「もっとも、大神殿に勤める使用人ならば、たとえ下働きだろうと身元の確認は行っているはずだ。雇用時に持参した紹介状は全て保管されているだろうから、人をやって調べさせておく。ひとまず在室中は必ずリトレの取り出し口を重たい物で塞ぎ、護衛騎士を傍から離すな」
「承知いたしました」
私は丁寧に礼を述べて先生を送り出すと、「今日はもう眠るように」という言葉に従い、寝台にもぐりこんだ。とたんに、全身がずっしりと重みを帯びる。
そういえば今日は明け方から、本当に様々なことがあった。つい技術の習得ばかりに目が向いて、先生とは元から持つ地位や発言力が違うと忘れてしまっていたことは、大失敗だったけれど――。
(助けに、来てくれた……)
思わず安堵の涙が滲んで、私は寝間着の袖で目元を拭った。
もちろん、安心も、油断も、まだ絶対にしてはならないことだ。
でも、もう一人じゃない。
(必ず、突き止める。必ず――)
私は目を閉じると、明日に備えてゆっくりと呼吸を整えた――。




