第12話 友の
急いで遺体の状況を確認すると、口が無理やり大きくこじ開けられた状態になっていた。先ほどの女は、どうやら口内を覗き込んでいたらしい。
「なぜ、侵入者に気づかなかった!」
先生の一喝に、扉の前で警戒していた二名の神殿騎士たちが首をすくめた。
「いや、あのように焼けただれた死体など気味が悪くて、あまり部屋の中のことは……」
「さすがは、平和ボケした貴族の子弟からなる神殿騎士団だな。祭司長に『神殿内に入れる私兵を増やすが文句を言うな』と、報告しておけ」
そう言うと、神殿騎士たちは我先にと部屋の外へ退散した。彼らは騎士の訓練を受けているはずなのに……よほど、無残な遺体を見ていたくなかったのだろうか。
「……まあいい、急ぎ遺体の状況を確認する」
「はい!」
遺体の横には、こちらも作業に適した高さの台が用意され、検屍に必要な器具が一通り並べられている。私は髪をきっちり結い上げて術衣に身を包むと、遺体に向き直った。
手を胸の前に上げて聖印を切り、故人に向かい術前の祈りを捧げる。だが……。
(これが最後なのに……助けられなかった)
これまでにも、何度も同じような遺体に向き合った。だがそれは痛ましく思えども、あくまでも初めて顔を見る人だったのだ。
やり直しを繰り返すうち、アンジェリーネ様と過ごした日々は、交わした笑みは、数えきれないほどになっていた。だが美しく微笑んでいた彼女は今、無残な姿で目の前に横たわっている。
艶やかな金の巻き毛を全て失い、痛ましくも赤く爛れた頭部――その凄絶な光景を隠すように、せばめた視界がうるんだ。
しばしの間、動けないでいると……百合によく似た灯花の刺繍が小さく入った白い手巾が、目の前に差し出された。
「今回は私が引き受けよう。君は立ち会わずともよいが、どうしても友人の傍にいたいというのなら、そこで検案書を書くといい」
「はい……いえ、いいえ、やらせてください!」
一瞬うなずきかけて、私は強く首を横に振った。借りた手巾で目元を拭い、顔を上げる。
「無理をする必要はない。友人の死を看取るのは、ただでさえ辛いことだろう。今は私がいるのだから、遠慮なく頼るといい」
(そうか、先生は、友を殺した者を見つけたいという私の話を覚えていてくれて、だから今ここに来てくれたんだ。私が、辛い思いをするだろうと予想して……)
私は再び涙があふれそうになり、下唇を噛んだ。嗚咽を飲み込み、しっかりと首を振る。
「もう、大丈夫です」
「……そうか。では私は検案書を書きつつ、補助を行う」
「はい。お願いいたします」
私は面紗の下で一つ深呼吸をすると、改めて遺体に目を向けた。
まずは、全体の状況検分から。皮膚や衣服に残ったべたつきを拭い、室内灯に使われていた灯油と比較する。
『改めまして、わたくしはアンジェリーネというの。仲良くしてね』
「やはり灯油をかけて、そこへ火を移したのですね……」
生きながら炎に焼かれるなど、どれほどの痛みと恐怖だっただろう。私は悲しみに眉をひそめたが、先生は冷静に言った。
「ああ。だが焼死と断定するのは早計だ。検分を続けよう」
「はい」
まず燃え残った装飾品を外し、次に慎重に衣服を切り開くと、全体の外皮の状態を確認する。
『ふふ、このドレスとっても気に入っているの。褒めてもらえてうれしいわ』
「毛髪焼失。四肢末端残存。炭化の地図状分布。外見での個人識別は難しい状況ですが、特徴の識別までは可能な状態です。熱傷性循環不全死の可能性があります」
「口内は?」
「こじ開けられたことで口輪筋に破損が見られますが……歯列に欠損は見られず、歯列の間から少し突き出ていた舌先に煤の付着が認められるほか、異常ありません」
「では次、気道の生活反応を調べる」
「はい」
特に頭部の損傷が激しいから、頭から火をつけられたのだろうか。美しかった金の巻き毛は、僅かな炭を残すだけだった。大きく見開かれた白眼には、赤黒いモノがこびりついている。碧玉のようだった瞳は熱ですっかり色を失い、白灰色に濁りきっていた。
あの美しく透き通った瞳が私を映すことは、二度とない。
『あら、ありがとう。わたくしも貴女のすみれ色の瞳、とってもきれいで大好きよ』
冷たく光る刃先を、赤く爛れた喉元へと向ける。ぷつり、と、肌は一瞬だけ抵抗して、跳ね返るように薄刃を飲み込んだ。
『ふふっ、現実でやってみるとものすっごくくだらなかったけれど、こんなに楽しいのは久しぶりだわ……!』
――瞬間。私は薄刃を手離すと、たまらず身をひるがえす。寝台の傍らに用意していた空っぽの銀の水盤が、ぐわんと音を立てて地面に転がった。
背中を、脇腹を、冷たい汗が流れ落ちてゆく。私は耳に鳴り続く音から逃げるように、小さく蹲った。
(つい昨日まで同じお茶を飲み、共に食事し、楽しくおしゃべりを交わしていた。それなのに……!)
急激に冷たくなった指先をぎゅっと握りこみ、カタカタと小さく震えていると……背中に、そっと手が添えられた。温かな手のひらが、冷え切った背を優しく撫でる。
「無理をするな。大切な友だったのだろう。これは、無理をしなくていいことだ」
「でも、私がやらなきゃだめなんです。私が、守ることができなかったから……。私が、仇をうたなければ……」
私がブツブツと自分に言い聞かせていると、銀の杯が差し出された。
「これを口に含むといい」
受け取ると中はほんのりと生姜の香る冷水で、すっと悪心が治まってゆく。
「ありがとうございます。……もう、大丈夫です」
「そうか。だが代わって欲しければいつでも頼れ」
そう言ってもらえるだけで、心細さがいくらか和らぐようだった。私はうなずくと、気を取り直して再びアンジェリーネ様の傍らに立った。
――アンジェリーネ様、どうか、私に力を貸してください。
『その深青色のドレス……本当に、とても素敵。貴女には、周囲に屈せず自分をつらぬく力があるのね。ふふ、少しだけ、うらやましいわ……』
あのとき、なぜ彼女は、どこか泣きそうな顔で笑ったのだろう。もう二度と、聞くことはできないけれど……。
――この道を選んだのは、私自身だ。
私はひとつ深く呼吸をすると、再び気道へと縦に薄刃を入れた。
震えそうになる手に力を込めて耐え、まっすぐに切る。できた創に鈎をひっかけ左右に開くと、拡大鏡を取って内部状態に目をこらした。
「煤の吸引……なし。粘膜の浮腫、水疱の形成、なし! 先生、これって……!」
「気道に損傷がないならば、死後に焼かれた可能性が高いな。……粘膜の腐食は?」
「腐食なし、特別な臭気もなし……」
私は鑷子で平たい豆のような銀塊を摘まむと、粘膜を撫でる。しばらく待って取り上げても、その白銀の輝きは特に鈍っていなかった。
「銀の黒変もなし、です」
「なるほど。死因は熱傷でなく、かといって砒霜などの毒物でもない、か」
先生は検案書に素早く書き付けてから、顔を上げた。
「では検証を続ける。外傷がないか、炭化していない部位を中心に外皮を確認しよう」
「はい」
今回は表皮のほとんどが炭化していた前回とは違い、背面側の肩より下には、炎による損傷のあまりない部位が残っている。横に向かせるよう慎重に身体を倒すと、かつては美しいドレスに覆われていた大腿の裏に、暗い赤紫色の斑点が広がっていた。
私がうち一つに薄刃を入れると、先生は不思議そうに言った。
「切開しても固い凝血がみられない、か……ならば皮下出血ではなく死斑と考えられるが、押しても退色が全く見られない。完全に固定化されているな。火災から何時間が経過した?」
「八時間ほどです」
「八か……ならば、死後数時間が経過してから火災にあった可能性がある」
「数時間も!? 確かに、私も本人と思われる悲鳴を聞いたのですが……」
「皮膚も熱による損壊を受けているから、正確な死亡時刻の推定は難しいな。筋肉の硬直も熱の影響を受けている。が、焼死で起こるほどの収縮が見られない。そもそも生きながら頭部を焼かれたのであれば、目を守るため瞼を固く閉じているはずだ。死後の硬直が始まった後に焼かれた可能性がある。……検分を続けよう」
しかし表皮をくまなく探しても、他に大きな問題は見られなかった。刺し傷も、見えにくい頭蓋骨の陥没を始めとした打撲傷も、特に見当たらない。鼻孔の中など、外から見えにくい穴の奥へ隠された刺創などもない。
その後も結局、特に変わった所見は得られないままで……。落胆しながら、それでも切り開いた喉を丁寧に合わせて縫い閉じ始めたところで、私は不審な痕に気がついた。
「これは……もしかして策条痕?」
策条痕とは、紐などで首を絞めた際にできる痕のことだ。頭部周りは火災の熱傷による赤みが激しく気づくのが遅れたが、よくよく見直してみると、顎の下から両耳の後ろにかけて、火傷とは異なる青黒い線状の変色が微かに残っている。
「この痕の形なら、縊り殺された可能性があるな。顔面の変色も、結膜の溢血点も、熱で損傷しているゆえ断定はできないが……眼球の突出と歯の間から舌先が覗くという特徴は現れている」
「え、縊殺って……つまり首吊りですよね? 他人の手による絞殺ではなく、自死だったということですか!?」
「いや、そうとは限らない。紐の両端をそれぞれ両手に持って絞めれば絞殺だ。だが後ろから首に紐を掛け、背負うようにして絞め上げれば、縊殺の痕跡になる。首吊りによる自死を偽装する際に使われる手法だ」
「遺体を焼いてわざわざ索条痕を消そうとしているので、自死を偽装しようとしたとは考えにくいのですが……。まさか、アンジェリーネ様が自死した事実を隠すために遺体を焼き、殺されたように見せかけた、ということでしょうか……?」
「自死の偽装を目的とする以外にも、縊殺となる理由ならいくつか考えられる。まず『非力な者が抵抗する相手を腕力だけで絞め落とすのは難しいから、体重をかけて絞められる方法を選んだ』という可能性が一点。他には『その時の現場の状況が、絞殺より縊殺が適していた』という可能性などが考えられる」
「なるほど……」
さらに謎が深まってしまったが、そういえば前周では爆発的延焼が起こり、首まわりの皮膚も完全に炭化していた。だから今周で疑問点を見つけることができたのは、大きな進展と言えるだろう。
私は開いた身体を綺麗に縫い閉じ終えると、用意されていた棺に納めた。硬直した四肢を優しくゆるめて伸ばし入れ、覆うように旅立ちの白く美しいドレスをかける。仕上げにレース編みのヘッドドレスで、朱に染まる額を覆った。
『うふふ、こうしてお友だちとお揃いの品をあつらえることに、ずっと憧れていたの。ありがとう』
彼女の遺品の中から、あのお揃いのブローチを取り出してレースに包むと……私はこっそりと自分の懐に入れた。このお揃いで作ったブローチだけは公爵家には返さず、私が形見としてもらう権利があるだろう。
再び深い祈りを捧げると、私は友のなきがらを、厚く弔ってくれるだろう神官たちのもとへと送り出した――。




