第10話 死花の香り
翌日、領下で最も大きな街で、不審な遺体が発見された。あまりにも早い出来事に私は驚いたが、下町では日常茶飯事なのだという。しかも私が気づいていなかっただけで、それは王都の下町でも同じ状態とのことだった。
台の上の布をはぐると、そこにはまだ子どもと呼んで差し支えない年齢の、男性の遺体があった。見開かれたままの目は充血して赤く、緑褐色の網目のような模様が、青白い肌に浮かび上がっている。
「死後、数日……いや、二日といったところか。このところ暖かい日が続いていたからな」
術衣と面紗に身を包んだ私は、先生の淡々とした声を紙に書き写した。これまで何枚も読ませてもらった検案書を、検分の様子を見ながら自分なりに書いてみろと言われたのだ。
「この網目状の変色は血管に沿って起こるもので、腐敗網という。季節によって異なるが、死後数日で現れる」
だがまともに聞いていられたのは、そこまでだった。遺体に薄刃が入ったとたん、脳を揺さぶるような強烈な臭気が鼻を突き、ぐらぐらと視界が揺れる。平衡感覚を崩してたたらを踏むと、私は膝に手をつき、崩れそうになる身体を支えた。
面紗を抑えてどうにか息を整え顔を上げると、いつの間にか目の前に先生が立っていた。どうやら検屍の続きは、助手で入っていた医師が引き継いで行っているらしい。
「すみません、ご迷惑を……」
「いや、無理もない。君の目的は知らないが、やはりこんなもの、ご令嬢が無理に身につける必要はない」
「不甲斐なくて、本当に申し訳ございません。でもここでがんばらなきゃ、もう、次の機会はないんです……!」
私が必死に言い縋ると、先生は面紗の向こうでわずかに眉をひそめた。
「その言い方、事情を聴いて欲しいのか? 聞かれたくないのかと思っていたが」
「も、申し訳ございません。本音を言うと、私は誰かに話を聞いて欲しいのです。ただ、嘘つきだと思われるのが、怖いのです……」
「なぜ、そう思うと勝手に断定する?」
「それは……私がもうすでに四回、同じ聖女選定の儀を繰り返してきたのだ、と言ったら?」
私は恐々とその燈色の瞳を見上げたが、彼は驚くでも否定するでもなく、ただ静かに言った。
「正しい判断を下すには、情報が足りない。詳しい話を聞かせてくれるか?」
「偽言だと笑わずに聞いて……下さるのですか?」
「だから情報が足りないと言っただろう」
「あ……ありがとう、ございます。ではこの検屍が終わりましたら、どうか聞いてくださいますか?」
初めて見えた希望に力を得た気分で、私はようやく少しだけ微笑んだ。釣られたように、先生の目が面紗の向こうで僅かに細められたようだった。
「君は、なかなか強情だな。……検屍の立ち合いに慣れるコツは、検案書の作成に集中することだ。感情の切り分けと客観視ができれば、いくらか恐怖が和らぐだろう」
「はい!」
* * *
ようやく初めての検分に立ち合い終えた私は、身体に着いた邪気を数種の香草を燻蒸した煙で存分に清めてから、香草の匂いを浴場で丹念に洗い落とした。
着替えを終えて屋敷の中庭に招かれると、卓上にはすでにお茶の用意ができていた。そこは自然の風情を残した小さな庭で、薄紅色で丸みをおびた古種のバラが咲き乱れている。
ほんのり甘く、だが清らかな香りを胸いっぱいに吸い込んでいると、白い椅子が引かれた。
「座るといい」
礼を言って席につくと、私はこれまで心の中に溜まっていた澱を流し出すように語り始めた。
準備もなにもしないで思いつくままに喋り続けたから、きっとすごく聞きづらかったことだろう。でも先生は何も言わずに、耳を傾け続けた。
「――なるほど、聖女の再演か」
最後まで聞き終えて、そう先生はぽつりと言った。
「再演? 何か、ご存知なのですか!?」
「幼い頃、祖母が私に語って聞かせた物語の中にあった話だ。たった一人で何度も悲劇を繰り返し、終には全てを救った聖女がいたのだという。もっとも当の聖女以外は認識できないことだから、これはあくまで民衆を安心させるためのおとぎ話だと言われているが」
「そういえば、先代聖女は先生の祖母上様でしたね……そのお話自体は存じておりましたが、まさか再演という名が付けられていたなど驚きました。初めての『やりなおし』のとき、大神官様に事情をお話してみたのです。すると『いくら聖女になりたいからと、見え透いた嘘をつくな』と言われ、信じてもらえませんでした……」
「……仮に私が頭の固い大神官でも、先ほどの君の必死な姿を見れば、信じざるをえなかっただろう」
「信じて、くれるんですか……?」
「少なくとも、真剣であることは伝わっている。それを頭ごなしに否定する必要はない」
なぜか回りくどい言い方をしているけれど、これは信じてくれているのだろう。
(初めて、信じてもらえた……)
「ありがとう、ございます……」
これまでずっと、底知れぬ孤独を感じていた。家族からも、友人からも、自分だけが時の流れから切り離され、全ての責を負わされる。
(でもこの人は、信じてくれた……)
ほんのわずかでも、分かってくれる人がいる。そう思うと、ひと粒の涙がこぼれた。
「ここまで、一人で背負って戦い続けていたのか。……よく、頑張ったな」
その声音の優しさに、逆に涙があふれだす。
「本当は、死なせる前に守りたいのです。でも、もしもまた守ることができなかったなら、次こそは絶対に下手人を逃がさない……!」
とうとう子どものようにしゃくり上げながら、私は泣き続けた。そんな私を慰めるでも、励ますでもなく、ただ先生は、黙ってそばにいてくれた。
こんなにも優しい人のことを『人の心がない屍体愛好家』などと、一体誰が呼び始めたのだろう。実際には医術の発展のために、領民たちはすすんで献体を提供すらしていたというのに。
(人の噂なんて、本当にあてにならないのね……)
会ったこともない誰かの印象など、いくらでも悪意や偏見で捻じ曲げられる。今はただ、この人に望みを託して良かった――心から、そう思えた。
以来、私は夢中で検屍術を学び続けた。
そしてあっという間に、五度目の冬が始まった――。




