第01話 聖樹の養分
大神殿の中央にある礼拝堂――その最奥だけは白大理石の壁ではなく、建物よりも巨大な聖樹が剥き出しの樹皮を見せていた。ところどころに淡い光を宿す樹皮を背に、真っ白な女神像が立っている。その額に輝く宝玉だけは血のように赤く、同じ色に染まった大祭壇を見下ろしていた。
壇上には豊かな黒髪の乙女が一人、贄のように横たえられている。白いドレスはおびただしい鮮血に染まり、胸に突き立てられた氷柱が、天窓の光を受けてきらきらと輝いていた。
その光景を遠い入口から見た途端、私は足を竦ませた。駆け寄らなくても、瞬時に状況を理解した。いや、理解させられてしまったのだ。
身体の奥から、喉を割かんばかりの悲鳴がほとばしる。慌てたように駆けつける多くの足音を聞きながら、私は逃げるように駆け出した。
――また、聖女候補が殺された。五人集められた候補のうち、もう四人が殺された。仕掛けているのは魔物の王か、隣国の王かは分からないけれど……次に殺されるのは、私だ!!
* * *
このサントリュクス聖王国は、自然の多い風光明媚な国である。昔ながらの魔法を重んじ、最新鋭の軍備などは持たない小国だが、魔の森と、そして好戦的な隣国に挟まれながらも、長らく独立を保っていた。
そんな危ういが幸せな国の成立は、国土の全てを覆う結界を張る大聖樹と、その聖樹を育てるために力を注ぐ聖女の存在の賜物だろう。だが当代の聖女ルチアが力を失いつつあるようで、聖樹の葉が紅く色づき、はらはらと地に舞い落ち始めた。そして次世代の聖女候補として、五人の乙女の左胸に赤い聖痕が現れたのだった。
私、ファウスティナもそのうちの一人。大神殿に集められ、真の聖女となるに相応しい一人を決めるため、聖女選定の儀に参加していた。
でももう、残っているのは私ただ一人だけ。
私以外の四人は――みな、惨殺されてしまったのだ!
私は二部屋からなる自室に駆け戻って鍵を掛けると、前室の居間を駆け抜け、奥の寝室で上掛けを身体に巻き付けるようにしてうずくまった。
先ほど倒れていたフランチェスカ嬢は侯爵家のご令嬢だけど、とても負けん気の強い性格で、優れた攻撃魔術の使い手でもあるはずだ。それなのに、とうとう犠牲になってしまった。
(聖女候補を次々と殺すなんて、まさか、大結界の破壊を狙っているの!?……いやだ、怖い、死にたくない。誰か、助けて!)
心の中で叫んだ、そのとき。大きな音と共に、前室に複数の足音がなだれ込んだ。間もなく寝室の扉も蹴破られ、数名の神殿騎士が押し入ってくる。
(助けに……いや、この様子は違う。まさか神殿騎士たちが、聖女候補殺しの犯人だったの!?)
涙でぐしゃぐしゃになりながら驚く私の手首を、騎士の一人がぎりりとつかみ上げながら言った。
「アンブロージオ子爵令嬢ファウスティナ。聖女候補殺害の容疑で捕縛する!」
「えっ、わたしが!? なんで……」
「フランチェスカ嬢のご遺体の傷口から、お前の魔紋が検出された。これまで巧妙に隠しおおせてきたようだが、これで最後だと油断したか!」
「魔紋だなんて、そんな、何かの間違いです! 私はこの神殿に来てから、初日の宣誓通り、一度も攻撃魔術は使っていません!」
「だが証拠は残っている。言い逃れはできんぞ!」
この国の貴族はみな攻撃魔術や回復法術を使うための魔法力を持っていて、その使い手であることが貴族の地位と権力の証となっている。とはいえ、魔術と言っても任意に地水火風の自然現象を発生させられるというだけで、そのダメージは物理現象による損傷と変わりない。
だが唯一の特徴として、攻撃魔術により損壊した傷口には、術者固有の魔紋が残るのだ。そしてあのフランチェスカ様の遺体の傷口には、私の魔紋が残っていたという。
「でも、本当に私じゃないの! どうか、誰か、信じて――!」
* * *
「出ろ。お前を処断するときが来た」
――九日後。四肢に縄をかけられた私は、礼拝堂に集う神官たちの前に引きずり出された。力の入らぬ足がもつれ、冷たい床に倒れ込む。だが私に向けられた視線は、かつてと正反対のものだった。
「聖女になりたいからと他の候補たちを皆殺しにするなど、前代未聞のことだぞ!?」
「虫も殺さぬような大人しい顔をして、なんと恐ろしい……」
忌々しいものを見る目を向け、神官たちは口々に責めたてる。私はなんとか彼らを見上げると、息も絶え絶えに訴えた。
「違います、違うんです、わたしじゃない……」
それを聞いた神官の一人が、激高したように叫んだ。
「動かぬ証拠を前にして、まだ自身の罪を認めぬか! このような危険な者、なぜすぐに処刑してしまわぬのだ。今すぐこやつを処刑して、選定のやり直しを……!」
だが老齢の大神官は、疲れたようなため息をつく。
「馬鹿者。残る候補はファウスティナただ一人。だが今のところ、新たに聖痕が現れた娘の報告はない。ここでファウスティナを殺したところで、次代の聖女候補が現れる保障はないのだ。それはすなわち、聖女の空席……大結界の消滅を意味する。本来であれば代替品となるはずの候補たちが、今は一人として残っておらぬのだ」
「待ってください、それこそがこの女の狙いでしょう! 誉れ高き聖女の座を、むざむざこんな神をも畏れぬ悪女にくれてやるというのですか!?」
その問いに答えたのは、大神官のしわがれた声ではない。若く自信に満ちたものだった。
「ああ、その通りだ。だが渡すのは、その役目のみ、だが」
地下牢の中は薄暗く、もう何日もほとんど湯ばかりの麦粥しか啜っていない。だから天窓から差し込むまばゆい光で、私の目は眩んで、ほとんど見えていなかった。だがそれでも、この声にはよく聞き覚えがある。
声のする方へなんとか目を向けると、一人の男がこちらへ近づくところだった。
その身を包むのは、神官たちが着る薄灰色の法衣ではない。金茶の髪に鮮やかな青いビロードの長上衣に身を包んだ男は、這いつくばる私のすぐ横に立ち止まった。
「これは、デメトリオ王太子殿下! しかしこのような大罪人を聖女の座に据えようなどと……!」
「私に良い考えがある。お望み通り、聖樹の世話をさせてやろうではないか!」
* * *
――あれから、どれほどの時が経ったのだろう。
私は祭壇の奥で、女神像に背を向けるように立っていた。正確には、倒れぬように白い像に磔にされていた。
希代の悪女と共に縛り付けられてなお穏やかな顔の女神は、一体何を考えているのだろうか。いや、しょせんこの女神はただの偶像で、冷たい石くれの塊にすぎないのだ。
私を縛り付ける緑の戒めは、大聖樹から伸びるしなやかな樹根の一部だった、それは肌へと幾重にも絡みつき、ドクドクと微かに脈打っている。
『こんなこともあろうかと、過去の伝承をよぉく紐解かせておいたのだ。しょせんは聖女など、聖樹にとってはただの肥料にすぎん。こうして自由に力を吸わせてやれば、むしろ聖樹も嬉々としているではないか!』
聖樹の養分となった私は表向き処刑されたことになり、すでに生きた人間の扱いを受けてはいなかった。食事どころか水さえも与えられず、一日一度かけられる回復法術だけが、私の命を辛うじて現世につないでいた。
(ころして、どうか、コロシテ――)
あの日以来ただの一度も潤うことのない喉から、声が出ることはない。カサカサに乾いた唇が、わずかに震えるのみだった。視界を覆うように伸びきった前髪は、かつては平凡な薄茶色をしていたはずである。だがいつしか、全て真っ白になっていた。
コツコツと廊下を歩く足音に気がついて、私はまぶたをピクリと動かした。よく紫水晶に例えてもらう瞳は、自分の身体の中では一番気に入っている部位だった。だがそれも今は乾燥しきって、焦点を合わせるのも億劫なほどになっている。
やがて足音は人影となり、礼拝堂の中へと入り込んだ。
現れたのは、変わらず豪奢な服を着て、常に顎を少し上げて歩く癖を持つ青年だった。この国の第二王子であり、王太子でもあるデメトリオ――。
「昨日無事、マルチェリーナの聖女認定と、婚姻の儀を終えたよ。貴族といえど小役人の娘ごときが、聖女となって王妃の位に立つことを夢見たのだろうが……思い通りにならず、残念だったな」
目前に立ち止まるなりそう言い放つと、彼はこらえ切れないといった様子でニンマリと口の端を吊り上げた。
この国の初代王が女神と交わした約定で、聖女に選定された娘は適齢の王、または王の子と婚姻を結び、共に国と大聖樹を守ると定められていた。現聖女ルチア様は珍しく平民の生まれだったが、この約定にのっとり、先代国王の妃となった。そして現在は国母、つまり現国王の母親でもある。
本来、王族と婚姻を結ぶことが許されるのは高位貴族の中でも名門の令嬢か、他国の王族ぐらいだ。だが聖女だけは別格で、次代の聖女も身分を問わず、この王太子デメトリオと婚姻を結んで未来の王妃となるはずだった。
「だがお前が凶行に及んでくれたおかげで、お前のような下賤の存在ではなく生まれながらに高貴なマルチェリーナと結ばれることができたのだ。感謝しなくてはな!」
そう言って、王太子は面白そうにクツクツと喉を鳴らした。
本来、魔法力は貴族の証であり、歴代聖女たちは貴族の中から生まれていた。だが現聖女、かつ先王妃のルチア様は、神の恩寵を受けた平民だった。
民衆は彼女を『平民聖女』と呼んで熱狂したが、厳格な身分制度と特権を守りたい貴族の多くは、平民が王妃となることに強い危機感と反感を抱いた。そのため権門の出である現王妃――つまり母親の手によって、デメトリオ王子には強い選民思想が植え付けられたのだ。
そして次代の聖女との婚約が予定されているにも関わらず、王太子は公然と、歴史ある家の公爵令嬢マルチェリーナと浮名を流しはじめた。現王妃を始めとした『貴血派』を名乗る高位貴族たちは、それを咎めるどころか正式な婚約者同然に扱っていたのだという。
最後の聖女候補であるファウスティナが殺人鬼の汚名と共に磔刑に処された今、当然のようにデメトリオはマルチェリーナと婚姻を結んだのだ。
「やはり女神アウラは、高貴なる存在を愛すのだ。全ては私の願う通りになった!」
(それって、まさか、全ては殿下が仕組んだということ……!?)
愕然としつつもどうにか力を振り絞り、私はか細く声を出す。ずっと気になっていたことだが、神官たちは教えてくれなかったのだ。
「わたしの……かぞ……」
「驚いたな、まだ喋るだけの力が残っているのか。回復法術の使用頻度を下げた方がよさそうだ」
「かぞく……は……」
「フン、お前の家族ならば、とっくに処刑したぞ」
「う……そ……」
「娘がそんなことをするはずないと、見苦しくも最期まで無様にわめいていた。娘を聖女にして成り上がらんとした、さもしい者たちの末路だ」
王太子はそう言ってひとしきり声を上げて笑うと、礼拝堂を出て行った。
乾ききった瞳から、一筋の涙が落ちる。その雫を呑もうとするかのように、聖樹の根がするりと頬を撫でた。
私はこれまで、ずっと地獄の責め苦を耐え抜いてきた。それもこれも、家族と、そして罪なき人々を守るための大結界を維持するためだった。だからこそ、神官たちは処刑の事実を私に隠していたのだろう。
(薄々、そうじゃないかと思ってた。でも本当に希望を断たれてしまったら、もう、耐えられない――)
私は最期の力を振り絞ると、乾いた舌先をぶつりと噛み切った。瞬間、痛みに畏縮した舌が、喉の奥へと吸い込まれてゆく。
息をするのも苦しい地獄も、息ができずに苦しい地獄も、そう、変わりはない。
(やっと、楽に……)
――どこかで「ピシリ」と、亀裂の入る音がした。




