田中の葬式~童貞をこじらせた男の末路~
晴れ渡った空に一筋の飛行機雲。穏やかな風が吹き、梅の花は満開を迎えていた。春の到来を予感させる心地よい暖かな日。そんな絶好の葬式日和の午後、田中の葬儀がしめやかに執り行われていた。順々に焼香をしていく親族はみな悲痛な面持ちで、とても愛情深く育てられていたことがうかがえる。しかしながら、参列者はまばらで生前の交遊関係を表しているようだった。
田中は、童貞をこじらせてこの世を去った。享年二十一歳、あまりにも早い死だった。
あれは2ヶ月ほど前の事だ。季節は冬を迎えて寒さが厳しくなり始めたころ、俺は田中と二人で夜の街に繰り出していた。二軒目を探しながらふらふらと歩いていたが、いくつか入った店はどこも満席だとかでどうにも店が決まらなかった。そうして気付くと飲み屋街の突き当りにある、お色気ストリートの入り口にたどり着いてしまった。
そこは大人のテーマパークが軒を連ねる魅惑の伏魔殿。飲み屋街よりもずっと静かで、ずっと近寄りがたい場所。ピンク色の看板の下では、ちょっと怖そうなお兄さんたちが獲物を狙うように俺たちを見つめていた。
いつもはそのまま引き返すのだが、当時俺は就職内定を得たばかりで浮かれていた。
「田中ぁ、ちょっと行ってみないか。社会見学みたいなもんよ」
「悪いな橋本。俺、初めては結婚相手に捧げるって決めてるんだ」
冗談めかして提案する俺に対して、田中はきっぱりと答えた。
俺は急に酔いが醒めて、少し怖くなった。
まさか田中に結婚を考えるような相手がいるのか。そんな馬鹿な。いつも男だけで一緒に遊んでる田中に、同じゼミの女性と話すだけでも酷く緊張する田中に、クリスマスにバイトを入れ先んじて予定を埋めてしまう田中に、バレンタインデイに義理チョコすらもらえない田中に、まさか彼女がいるだなんて。そんな残酷な裏切りがあっていいのか。田中だけは、ずっとこっち側の人間だと信じていたのに。向こう側、日の当たるところに住む人間だというのか。
俺は震えながらも田中に問うた。
「お、おいおい、そ、そんな相手がいるのかよ」
「今はいないけど」
杞憂だった。
”今は”とつけることで、過去にはそういう人物がいたかのように含みをもたせるところが、とても田中らしいと思えた。田中は骨の髄までこっち側の人間だと信じられた。
「田中ぁ、童貞なんか守ってどうすんだよ。まあいいや次の店さがすぞー」
田中が股間を抑えて苦しそうに悶えだしたのは、そんな軽口をついた時だった。何が起きたのか分からなかった。目の前で田中が股間を抑えてアスファルトの上でのたうち回っているのだ。
田中の身に尋常ならざる事が起きているのは間違いなかった。俺は動転してしまって田中の背中をさすりながら「大丈夫か!?」と声をかけ続けることしかできなかった。
酔っ払っていたせいもあり、そこからの記憶は曖昧だ。誰かが救急車を呼んでくれたらしく、ただ救急車に乗って病院に行ったことだけは確かだった。
「――急性の童貞ですね。」
「童貞を捨てる以外に現代の医療では手の施しようがないです。」
田中の処置をした痩せこけた医者は顔色ひとつ変えず、そう告げた。
俺は安堵した。ただ童貞を捨てるだけでいいのかと。ならば、田中を連れてお色気ストリートに突入すればいい。自分も詳しくは知らないが、そういったサービスを提供する店があるのは間違いない。
そのようなサービスを提供する店舗で童貞を捨てた先輩が、卒業するまで素人童貞だとイジられ続けていたのを鮮明に覚えている。
素人童貞の何が悪い。田中は童貞をこじらせて医者の世話にまでなっている。健康に優るものなどあるものか。俺は一生、田中のことを素人童貞だとイジり続けるかもしれないが、命には代えられないのだ。簡単なことだ。
だけれども、そう簡単には問題は解決しなかった。田中はお色気ストリートへの遠征を拒んだのだ。田中が言うにはこうだ。
「橋本。実は俺には結婚を約束した女性がいるんだ。」
「その女性は、高校の同級生で、カナダからの留学生で、髪は栗毛のショートカットで、瞳の色はエメラルドで、チアリーディングをやっていて、声が声優さんみたいで、巨乳で、俺の事が大好きで、今度日本にやってくるんだ。」
とんでもない早口で田中は俺に婚約者の存在を教えてくれた。
それを聞いた俺はしばらく田中との連絡を絶つぐらいに落ち込んだ。今まで勝手に同じ穴のむじなだと思っていた田中に婚約者がいて、しかもどうやらとてもハイスペックらしい。
きっと田中は内心で俺の事をバカにしていたに違いない。
二十歳を越えて恋人の一人もできたことがない負け犬。敗北者。あまりにも可哀想だから、自分も彼女がいないふりをしてやるか。
そんな事を思いながら俺と付き合っていたのだ。とてもみじめだった。みじめで仕方がなかった。
そうして俺はしばらく田中の見舞いに行くのを避けてしまった。見舞いに行かなくても、きっとそのうち婚約者とよろしくやって元気になって戻ってくるだろうと楽観的な考えもあったし、何より田中に会うと劣等感を抱かされてしまうからだ。
それから、ひと月以上経っても田中が退院してくることは無かった。俺は少々心配になって久方ぶりに田中の見舞いに行くことにした。
どうせ田中相手だと手ぶらで病室に入ると、田中は相変わらず具合が悪そうで、ずいぶんとやつれてしまっていた。顔色も何だか灰色がかって見え、点滴が刺さった腕も枯れ枝のようだった。
「田中、調子はどうだ?カナダ人はまだ来ないのか?」
俺は努めて明るく声をかけた。そうでもしなければ、今にも黄泉の旅路に出立しそうな田中をこの世に引き留められないように思えたからだ。
「あぁ、久しぶりだな橋本。カナダの婚約者は、来日するまで、もう少しかかりそうだ。」
「だけどな橋本、俺には近所の幼馴染で、高校頃は生徒会長で、面倒見がよくて、文武両道で、黒髪ロングで、声が声優さんみたいで、俺のことが大好きで、小さいころに大人になったら結婚しようと約束した女性がいるんだ」
田中は、目をらんらんと輝かせながら急に何だかよくわからないことを尋常ではない早口で喋り出した。事情はよくわからないが、とにかく結婚を誓った幼馴染がいるらしい。
こいつ結婚を約束しすぎだろうと思ったが、なぜか俺は驚くことは無かった。ただ田中の病気が良くなればいいという気持ちの方が強かった。
それほどまでに田中は見るからに衰弱していたのだ。
それからも俺は何度か田中のもとに、お見舞いに行った。その度に、義妹、スポーツ少女、魔法少女など、高校時代に将来を約束した女性の話を、とてつもない早口で語ってくれた。
けれど誰一人として、瀕死の田中のもとにはやってきてくれなかった。
俺はどうして誰も田中を助けてやらないんだと一人憤って泣きそうになることもあった。
そうしてしばらくして、田中が亡くなったと知らせを受けた。やはりかとそう思った。田中は本当にいつ死んでもおかしくないと素人目にもわかるくらいに衰弱していたからだ。
葬式の場にも田中の婚約者らしき人物は見当たらなかった。なんて薄情なのだろうか。俺はやりきれない気持ちでいっぱいになった。
焼香を済ませた俺は、喫煙所で電子タバコをふかしていた。そこに同い年くらいの男性が入ってきたので、なんとなしに声をかけた
「田中くんのご友人ですか?」
「はい高校の同級生でした。真面目で面白いやつでした。それがこんな急に……」
そういうと彼は俯きながらゆっくりと煙草を取り出した。
「私は大学からの付き合いでしたが、確かに田中くんはいい奴でした。そして何より真面目でした」
タバコの煙が喫煙所内に広がっていく。
数瞬の沈黙の後、煙を吐き出しながら俺は口を開いた。
「田中には高校時代に将来結婚することを約束した女性がいたときいたんですが誰も来ていないようですね」
すると彼は驚いたように目を見開いて一言だけ言った。
「うち男子校ですよ?」
――?
俺はここに至って田中を理解したような気がした。
――田中、お前はどこまて童貞なんだよ。
春目前の暖かな日差しの中で、俺は一人お色気ストリートへと歩みだした。
男子さいてー