黄色いまなざし
赤い夕陽が眩しい。
走りながら、そう思う。
バクバクという心臓の音は鳴り止まない。
いや、今の私に身体はないのだから、これも錯覚だろうか。
考えてしまった瞬間から、今まで感じていた感覚が全て嘘だったように思えて、どうしようもない虚無感に襲われる。
─果たして、この逃走劇に意味はあるのだろうか。
はた、と足を止めてしまう。
偶然にも、立ち止まったのはあの公園だった。
意味もなく、公園に立ち入って、あのベンチに腰掛ける。
本当は、捕まってしまったほうが良かったのだということは、わかっていた。
でも、逃げてしまった。
あぁ、最悪だ。本当に。
もう何もしたくない。何も考えたくない。
「おーい、そこの嬢ちゃん」
声をかけられて、顔を上げる。
しかし、目の前には誰もいない。
「こっちだよ、こっち」
何かが動いて、ベンチが軋むような音がしたので、振り向く。
そこにいたのは、白い……
「……猫?」
「おいおい、しけたツラしてんな。キュートな顔が台無しだぞ」
その白い猫は、赤い口から犬歯を覗かせながら言う。
「なにか、用ですか」
猫が喋るなんて変だ、と思いながらも会話をしてしまう。
「悪霊もどきがベンチに座ってたら、気になるだろ」
悪霊もどき。
今の私はそうなってしまったのか。
「なんだ、ジサツでもしたか?」
「話しかけないで」
嫌な夢。
死んだのに、幻覚を見るなんて。
「そうカッカすんなよ、気になるだけなんだ」
「お前が、何でそんなに苦しそうな顔してるのか」
「……」
「俺でよけりゃ、話聞くぜ」
猫が語りかける。
白い体毛に、黄色いまなざし。
その姿に、どこか懐かしさを覚えた。
おかしいと思いながらも、私の口はひとりでに動き始めていた。
猫は、2本の尻尾を揺らしながら、耳を傾けていた。
─────────
父も母も、優しい人だった。
しかし、例え優しい人でも、愛する人を失ってしまえば、狂ってしまうらしい。
少なくとも、私の母親はそうだったみたいだ。
私の容姿は、母の遺伝子を強く受け継いだようで、父の面影はあまりない。
この青い瞳が、最たる例だろう。
ああ──あれはそうだ、まだ私が9歳ぐらいのとき。
あの日は、私の誕生日だった。
毎年お母さんがケーキを作ってくれていたけれど、あの年は二人とも、仕事が忙しくてケーキを作る暇なんてなかった。
しかし愚かなことに、私は実にわがままだった。
「ケーキがないといや!」
「ごめんなさい、今年は難しかったのよ」
「そうだよ、グレイ。我慢してくれるかな?」
来年は皆で一緒に作ろう、なんてお父さんが言ってくれたのに。
「やだ!ケーキは今日じゃないと駄目なの!」
頑固な私は、そんな提案を受け入れられなかった。
「どうしましょう……」
いつも困らせてばっかりだった。
だけど、毎回二人がちゃんと応えてくれていたから、この日もどうにかなると思ってたんだ。
「よーし、わかった!お父さんが今すぐケーキを買ってこよう!」
私がわがままを言ったときに、何とかしてくれるお父さんが好きだった。
「……ほんと?」
「ちょっと、大丈夫?この辺のお店はもう閉まってるんじゃ……」
「大丈夫大丈夫!少し先に、遅くまで開いてる店があるんだ」
心配するお母さんをよそに、お父さんは出かける準備を始める。
「じゃあ、行ってくるからね」
お父さんが、私の頭にポンと手を置く。
「ん……。いってらっしゃい」
あんなこと、言わなきゃよかった。
─────
『──昨夜、ーー市の‐‐で衝突事故が起こりました。大型のトラックが、軽乗用車に衝突したとされており──、トラックの運転手には飲酒運転の疑いがあったとされ──、30代の成人男性が──』
────
皆、黒い服を着ている。
あまり好きではない線香の匂いがする。
お父さんの顔は、見せてもらえなかった。
お母さんの顔は、見ることはできなかった。
お母さんは、変わった。
いや、徐々に変わっていった、の方が正しいだろうか。
最初のうちは問題なかった。
学校に行く私を素直に見送って、毎日3食作ってくれた。
少しづつ、少しづつ、おかしくなった。
お母さんは、私のことを、たまにお父さんと間違えることがあった。
「ごめんなさいね。なんだか、行動がお父さんにそっくりで……」
段々、間違える回数が増えてきた。
私をお父さんと間違えたとき、お母さんは一瞬嬉しそうな顔をする。
でも、私の顔を一目見れば、口角は落ちてしまう。
お母さんは、私にお父さんの面影を重ねているのだと気づいた。
可哀想だと、思った。
私にできることがあれば、何でもしたいと思った。
私がお父さんの命を奪ったのだ。
その分、お母さんを救わなければ。
────────────
そんな生活を続けて3年。
疲れてしまっていたのか、母はダイニングのテーブルに突っ伏していた。
風邪をひいて欲しくなかったので、ブランケットをいそいそと持ってきて母にかけた──
ら。
突然、手首を掴まれた。
もちろん、母に。
「な、お、お母さん……?」
「ねぇ……」
「あなた、本当にあの人にそっくりね」
「はぁ……?」
「本当に、本当に……、はぁ……」
「な、なに……」
様子がおかしい。
まるでうわ言を言っているみたいだ。
「ねぇ」
冷や汗が背筋を伝う。
「なんで、あの時あんなことを言ったの」
「……!」
「……どうして、そんなにあの人にそっくりなの」
「いや……」
「なんで、どうして」
呼吸が荒くなる。
「見た目は全然似てないくせに、なんであの人と同じことをするの」
「その銀髪も、青い目も、全部、全部違う。なんで見た目もあの人に似なかったの」
「ねぇ、なんで」
「なんで、あなたは、あの人じゃないの」
ひゅ、と喉が鳴る。
だって、そんなの、そんなの。
まるで、
それじゃあまるで、
私なんて、いらないみたいな。
腰が抜けて、床に座り込む。
「……あ、あ、ぁあ、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい!!」
急に母が声を荒げ始めた。
椅子から崩れ落ち、私の肩を思いっきり掴む。ギリギリと指がめり込んでいるような気がした。
「ちがう、ちがうのよグレイ。ちがうの」
なにもいえない。なにもはなせない。
「ごめんなさい、忘れて、忘れて、忘れて忘れて……!!」
それから数日して。
ある休みの日、母がいないことに気づいた。
そして、ダイニングのテーブルに書き置きがあることにも気づいた。
『今までごめんなさい。私なんかより、他の人のところの方が、あなたは幸せになれる。
あの人の弟さんに、あなたのことを頼んでいます。どうか、私のことなんて忘れて、お願い───』
私は、
母を救うことができなかった。