非日常との出会い
忙しなく歩くサラリーマン。
誰かと電話をしている女子大生。
街を歩いていれば、そんな人たちが当たり前に視界に入ってくる。それはいわゆる日常であり、変わるはずがないものである。
そんな日常に異物が入ってしまったら、いったいどうなってしまうのだろう。
出会いと別れの季節に出会ってしまったそれは、決して日常の一部分に入っていいものとは言えなかった。
「何あれ…?」
なびく黒髪。被っていたけれど、風で外れてしまった黒いフード。
そして、頭上に生えた獣の耳。
あれは多分、人間じゃない。
人ならざる雰囲気を纏ったその人は、
青い空を飛んでいた。
────
ホーホケキョ、と春告鳥の鳴き声が聞こえる。
カーテンの隙間から差し込む光は暖かく、私の顔をほんのり照らす。
もうそんな時期か、という気づきと、4月から受験生なのか、というぼけっとした自分の認識に呆れつつソファに沈んでいた身体をゆっくり起こす。
「……なんか、めんどくさいな、動くの」
手元のスマホには、『しばらくの間出張だから、ご飯は自由に食べてね』という内容の、消し忘れたメールの通知がある。
することも思いつかず、ただひたすらソファにとどまっていた。
普段はやりたいことが多すぎて時間が足りない、とか嘆いているくせに、時間が有り余っているときに限ってやる気がない。この現象に誰か名前をつけてくれないかな。
そんなどうでもいいことを考えていると、自分の体が空腹であることを訴えてきた。とりあえず何か食べるか、とキッチンまでおぼつかない足取りで進むことにした。
無造作に置いてあった食パンを一枚取り出し、適当にマーガリンを塗ってトースターに突っ込む。それから冷蔵庫から牛乳を持ってきて、用意していたコップに中身を注いだ。ついでにスクランブルエッグでも作ろうかと思ったが、やはりめんどくさいのでやめた。
口に含んだトーストを、サク、サクと音を立てながら食べる。
こういった質素な食事は嫌いじゃない。そんなに手間もかからないし。
食べ終わって軽く食器を洗ったら、のそのそと歩いて洗面所へ向かう。
だるい手を動かし、シャカシャカと歯を磨いて、口をゆすぐ。
あんまり鏡は確認しない。
…鏡に映る、自分の青い瞳に嫌気が差すからだ。
一通りやることを終えたら、のそのそとソファへ向かった。
ボスンと大きな音を立てて、クッションに顔をうずめようとして─
いや、駄目だ。あまりにもだらしない。
ガバッ、という効果音が付きそうなほどの勢いで顔を上げた。
このまま自堕落な生活をしていてはいけない。自分の中の自制心が警鐘を鳴らしている。
この生活を改善しなければ。
うん、まずは簡単でいいから身体を動かそう。
私は行動力はあるほうだ。
階段を駆け上がり、部屋で服を着替えてきて、最低限の持ち物を持ってから、飛ぶように家を後にした。
優しい日差しは差しているが、まだ若干の肌寒さが残っていた。
上着、羽織って来てよかった。
着てこなくて家に戻っていたら、絶対気力が無くなっていただろうし。
簡単な運動、それは散歩だ。
休みに入ってから外に出てなかったし、ちょうどいい。
木漏れ日が差し込む道を歩きながら、ふと横の並木を見てみれば、様々な大きさの花の蕾が見えた。満開とまではいかないが、桜も咲き始めている。花見シーズンになるのも時間の問題だ。あ、ついでにカフェとかに寄ろうかな。
─なんてことを考えてしまったのが、運の尽きだろう。
人の少ない道を抜けて、カフェがある人通りの多い道に出た。
都会の喧騒に紛れつつ、
何となく、本当に何となく上を見上げただけだった。
少し遠くで、人影が見えた。
空に。
幻覚かと思って目を擦ってみたが、やっぱり何かいる。
まさか。カラスか何かだろう。
そうは思っても、どうにも視線が外せない。
黒い服を着た、人のようなもの。フードを被っているみたいで、顔は見えない。
その人はふわりとマントを翻し、宙に浮いている。
「何あれ…?」
そう呟いた瞬間、ひときわ強い風が通り過ぎていった。そのおかげで、黒い人のフードは外れ、その顔があらわになり─
目が、合った。
その瞳は、血を彷彿とさせるような赤色だった。
それから、頭に獣の耳も生えていた。なんで?
そう思っていたら。
少しずつ、距離が近くなっている気がする。
私が動いているわけではない。
なぜか?それは、向こうが近づいているからだ。
ん?近づいている…?
つまり、私はあの得体の知れない人に気づかれた、ということ?
目が合ったんだから当たり前か。
って、冷静に考えている場合じゃない。
見た目は人みたいだけど物理的に浮いてるし、霊とかそういう類のものかもしれない。
しかもここは人が多いから、あれが何らかの行動をしたら、酷いことになるかもしれない。
頭の中でぐるぐる考える。こういうときはすぐに動けない。私の悪い癖だ。
そうこうしている間に、その黒い人?は、私との距離をズンズン縮めていた。そのおかげで、容姿がしっかり把握できる。
黒髪のウルフカットに、驚くほどに白い肌。フード付きの黒いマントの下には、軍服らしき服を着ている。これも黒っぽい。
それから、特徴的な獣の耳。これが一番わからない。
いや、なんでこんなに落ち着いて分析しているんだ。
ちょっと、やばいかも。
脳がそう判断したのは、目の前で獣耳の人が動きを止めてから。
鋭い目つきはまるで獲物を捉えた肉食獣のようで、私はさながら生まれたての小鹿のように体を震わせていた。
この17年の人生が幕を閉じるのは、きっと今だろう。そう思って瞼を閉じて─
「……どういうこと?」
耳に届いた声にびっくりして、目を開いた。
視界いっぱいに映ったのは、獣耳の人の困惑した顔だった。