#6
――― ミリーペリ5986年23月93日 ―――
<ティアロ・ベイヤ エペルディシモン大橋>
はぁ…はぁ…
荒い息を吐きながら長い翡翠色の髪をなびかせ、少女は橋を駆ける。
誰もいない。
誰も助けてはくれない。
彼女はどこにもいない筈の存在だから。
彼女のことが見えるのは彼女が望まぬ者たちだけ…。
ならば彼女はどうすればいいのだろうか?
ならば彼女は逃げるしかない。
自分を求める追手から。
次元に潜む刺客から。
「来ないで…」
彼女は自分の後を追ってやってくる彼女の髪色と同じ翡翠色をした半透明の巨大な怪物をか細い声で拒絶する。
「もう…イヤ…」
思わず心の内の声が表に現れる。
翡翠色の目から涙が零れそうになるが、彼女はそれをぐっと堪える。
泣いてはいけない。
泣いても助けは来ないから。
助けに来る者など誰もいない。期待しても無駄だ。
期待しても裏切られる。彼女ができるのは逃げることだけだ。
逃げて逃げて、また逃げて…もう最初にいた場所は思い出せない。
最初にいた場所にはもう戻ることはできないし、彼女は戻る気もない。
戻っても、もう彼女のことを知るものは誰もいないのだ。父も母も兄弟も皆…。
皆、皆、殺された。彼女のせいで殺された。今や、彼女のことを知っているのは…。
知っているのは、彼女のことを認識できるおぞましい怪物たちだけ。
怪物たちは彼女を狙って、いつでも、どこからでも現れる。
現れれば、もうその場所には留まれない。
その場がどれ程好ましくとも…。
感情なんて無くなればいっそ楽なのに…。
だが、感情は消すのはそんなに簡単なことではない。
いっそ死んでしまえれば…、と思ったこともある。ならば感情など消え去る。
だが、死ぬことを考えると怖いという感情が彼女を邪魔する。
大きな石造りの橋がミシミシと音を立て、巨大な足跡が徐々に近づいてくる。半透明の怪物はもうすぐ後ろにまで迫っていた。
「誰か…助けて…」
翡翠色の髪の少女はぽつり、と呟いて、白い手を前に伸ばす。
半透明の翡翠色をした巨大な腕が彼女を捕まえようとしたその時、彼女の目の前に扉が現れた。
唐突に現れたその扉はどこか別の部屋に繋がっている様子はない。
ただ地面に扉が生えている。そうとしか形容のできない奇妙なものだった。
しかし、翡翠色の髪の少女は躊躇うことなく、その扉の取手を掴む。
「お願い…」
彼女は祈るように呟き、力を込めて扉を開け放った。
――― アマイア暦1328年薔薇の月5日 夕方 ―――
<レイル共和国 大都市ネゴル 大通り 限りなく透明な喫茶店>
「それでぇ、オーバンさんが、その時に『別にいいじゃないですか』って言ったんですよぉ。カリネ先生、もう目を丸くしちゃってぇ…。アタシ、あの時、危うくカリネ先生の前で笑っちゃうところでしたよぉ~」
シュゼットは相変わらず、停止ボタンの壊れたラジオのように口から情報を垂れ流す。
「あはは、オーバンさん、今のところあんまり関わりないんだよなぁ」
「あの人、時々、ボソッと面白いこというから厄介なんですよねぇ。不意打ちっていうかぁ」
シュゼットはロイヤルミルクティーをすすりながら「うんうん」と1人頷く。
「あ、そうそうオーバンさんと言えばぁ…」
シュゼットがまた思い出したと口を開きかけた時、
「へ、へい、お待たせしやがりました。鶏ガラあっさりプロテインチャーシューラーメン」
と、体格の良いゴロツキが器をテーブルにどん、と勢い良く置いた。
その勢いで器の中で波が立ち、ビシャッ、と机に汁がはねる。
「「…」」
それを見た高野とシュゼットは顔を見合わせる。
「…んん?アタシたちラーメン頼んで無いですけどぉ?」
「なにぃ?!」
シュゼットが首を傾げると体格の良いゴロツキは眉をひそめる。
「てめぇ、お客様、コラァ…」
眉間に青筋を立てながら体格の良いゴロツキはシュゼットを睨む。シュゼットは「ひぃぃぃ」と怯え、高野に視線で助けを求める。
「あの~…多分、ですけど、そこの席の人じゃないですか?ラーメン運んできた時、顔を上げていたので」
高野がシュゼットのフォローに回り、おずおずと声をかける。そして、ラーメンを注文したであろう客の方を手で指し示すと、ゴロツキは「ちょっと待ってろ!……ててくだせぇ!!」と叫び、確認のために厨房に引っ込んだ。
厨房の中から体格の良いゴロツキが「ラーメンは9番卓で間違いねぇよな?」と叫ぶ声。
皿を洗っていた横幅の広いゴロツキが「フヒ?し、しししし知らない」と返事をし、おさげの副店長が「10番卓でしょ。キューとジュウの聞き間違い」と返事する声がうっすらと聞こえた。
少しすると「あ、ちょっと!」とおさげの副店長の制止を振り切って、体格の良いゴロツキはドシドシと足を踏み鳴らし、厨房から戻ってきた。
そして、テーブルの上に置きっぱなしだったラーメンの器を掴み、「すまねぇな!お客様!間違えました、コラァ!!!」と叫び、先程の客の方にラーメンを持って行く。
「「…」」
「すみません、お客様」
すぐに厨房からおさげの副店長が慌てて飛び出してきて、高野たちに謝罪する。
後ろでは「はい、ラーメンだ。ただいまお待たせやがりました~」と言う体格の良いゴロツキの声が聞こえた。
おさげの副店長は頭をポリポリと掻いて、「はぁ~」とため息をつく。
「彼にはキツく注意しておきます。お詫びといってはなんですが、もう一杯ずつ飲み物はいかがですか?サービスしますよ」
「え?いいんですかぁ?」
シュゼットがおさげの副店長の提案に目を輝かせる。
「…」
高野はそんな中、体格の良いゴロツキの背中を見て首を傾げた。
(なんか…背中、光ってないか?)
この世界には光る刺青があるのだろうか?
ゴロツキの背中には翡翠色の模様の刺青が刻まれていた。そして、その刺青からは細い糸のような光が一本、店の外に向かって伸びていた。
「…」
「お客様?」
「先生ぇ?」
おさげの副店長とシュゼットがそんな高野の様子に首を傾げる。
「あ…。あぁ…。すみません。ちょっとアレが気になって」
高野が体格の良いゴロツキの背中を指差すと、おさげの副店長はさっと顔色を変えて「本当に、不快な思いをさせてしまい申し訳ございません」とペコペコ謝る。
「ちょっと先生、いくらなんでもアレ呼ばわりはダメですよぅ」
シュゼットが高野の発言をたしなめる。2人の反応を見て、言葉が足りなかったことに気づいた高野は慌てて首を振った。
「あ、違う違う。その…彼の背中の刺青が光ってて、珍しいなぁ…って。ほら、なんか糸みたいなの出てるし…」
「? 光る刺青?どこですぅ?」
シュゼットが首を傾げる。
「え?ほら、アレ、見えるだろ?薄緑色の光ってるやつ…」
「「?」」
シュゼットとおさげの副店長は顔を見合わせて、首を傾げた。
「アタシたちには見えませんけどぉ…」
シュゼットが「この人、疲れすぎて幻覚みているんじゃないか」と言いたげな表情をする。
そして、「先生ぇ、体調悪いですかぁ?」と本気で心配そうに高野のことを気遣い始めた。
(…まさか、見えてないのか?)
高野はおさげの副店長の顔を見上げる。
「…!」
丁度、彼もこちらを見ていたようだが、高野の視線に気づき、すぐに目を逸らした。
(…?)
なにかリアクションが妙だ、とおさげの副店長の反応を訝しむ。
「…本当に見えてませんか?」
「…なんのことでしょう?」
おさげの副店長はにっこりと微笑むと、高野の前にあったカップを指差し、「同じものをお持ちしてよろしいですか?」と尋ねた。
「…はい」
(話題を変えられた?)
高野はおさげの副店長の反応にどこか違和感を覚えながらも頷く。
「あ、アタシはアップルシナモンティーで」
シュゼットは高野の注文に合わせてちゃっかり別の飲み物を注文した。
「…」
おさげの副店長が厨房に戻っていった後、再び高野は体格の良いゴロツキの背中から伸びた糸のような翡翠色の光を目で追う。
先程までは糸のような細さだったそれは既に拳の太さ程の光線となっており、彼がどの角度を向いていても、光は真っ直ぐに外のある場所へ向かって伸びていた。
(段々、光が太くなってきている?)
「先生ぇ、本当に大丈夫ですか?」
「…大丈夫、じゃないかもしれない」
高野は立ち上がって窓の外を見つめた。
窓ガラスの透明度は低いが、光の先になにかが映った気がした。
「…?」
「先生?」
(なにか嫌な予感がする…)
高野はシュゼットを見、そして店内を見回す。
「うま~。やっぱりここのアップルパイは最高だなぁ」
「店長、早く帰ってきて欲しいんだぞ。俺、腹減ったんだぞ」
「ヒヒッ!こ、これサービスのクッキーでぇす。焼き立てでぇ~す」
ガリガリに痩せたゴロツキが、アップルパイを頬張り、幸せそうな顔をする黒髪のヒューマンと、若紫色の中性的な顔立ちをしたヒューマン(?)の席を周り、それぞれにチョコチップクッキーを配る。
「わっ!ありがとうございます!」
「あ、やった!嬉しいんだぞ。ありがとな!」
(…やっぱり誰にも見えていない)
喜ぶ客たちの様子を見て、高野は体格の良いリーダー格のゴロツキの光る刺青と、そこから伸びる光線が自分にしか見えないことを確信する。
そして再び外に目を向けると、窓の奥にいるなにかがこちらに向かって動いている。
一つは人間の大きさのなにか。
そしてもう一つは建物よりも大きななにかだ。
「悪い、シュゼット。ちょっと外の様子を見てくる」
「え?えええ?」
シュゼットが突然席から立ち上がった高野を見て、驚いた顔をする。しかし、高野は「ごめん」と言い残すと店を飛び出していった。
「え?え?あ、おいコラ、お客様、食い逃げか?…おい小僧…じゃなかったショウさん…って寝てる?!マジかよ」
まさか自分が食い逃げされるとは思っていなかったリーダー格のゴロツキは外と内を見比べて「ええい…」と呟く。
「あ、大丈夫ですぅ~。彼、すぐ戻ってくると思うのでぇ」
シュゼットが混乱しているゴロツキに声をかける。
「ああん?…ならまあいいか。お客様てめぇ、もしあのお客様が食い逃げされやがったら飯代払ってもらうからな」
そういって凄む体格の良いリーダー格のゴロツキの肩にぽん、とおさげの副店長が無言で手を置く。
「ヒッ!?」
「…お客様に凄んだらダァ~メって、俺、言ったよね?」
おさげの副店長はニコニコしながら体格の良いゴロツキに顔を近づける。
「あ、ハイ、すみませんでした…」
「うん。次やったら君も皿洗いだからね?」
「あ、ハイ。ごめんなさい」
体格の良いゴロツキはすっかり彼にビビっているのか、ペコペコと頭を下げ、引き下がる。
「本当にすみません」
おさげの副店長は申し訳なさそうな顔をしながらティーカップをシュゼットの前に置き、アップルティーを注ぐ。
「…ぐぅ」
カウンターの中ではルビー色の髪の青年が腕を組んで居眠りをしていた。
夕日が黒い雲によって隠れ、辺りが暗くなっていく。風が吹き、地面の砂を巻き上げる。
「…ひと雨、来そうだなぁ」
おさげの副店長は静かに窓の外を見て呟いた。




