#3
―― アマイア暦1328年水仙の月17日 Bar 『Honey Bee』 ――
「…そうすると、ここは本当にレイル共和国のネゴルという都市で、一般人を担いだドッキリとかではない、と?」
高野はマスターと獣人のオネエから聞いた情報を整理して確認する。
「そうよ」
相槌を打つ大柄の獣人のオネエはグラシアナという名前らしい。ネゴルの衣装屋で、ファッションデザイナーをしているという。
小人のマスターの名前はマルク。この世界では「トントゥ」という種族に分類されるという。
「トントゥ」という名は確かスコットランドだったか、フィンランドだったかのいたずら小人の名前だった筈だ。
興味深いのは、異世界に来ているのになぜか日本語が通じているという事実。
創作物の異世界ものでは当たり前のように言葉が通じるが、実際に目の当たりにすると面食らう。
一体、僕の脳はどうなってしまったのか、と高野は考える。
仕事のストレスで幻覚を見ている?…だとしたら大分ヤバいのだが、設定が細かすぎる。
とにかく、元の世界に戻る方法を検討しなくては…。
と思いつつ、カウンセラーの性か、この世界を知りたいという知的好奇心の誘惑に抗えない。
これが幻覚・妄想の類なら、頭の中でイメージが広がっていき、状態が悪化していく可能性があるので、設定は深堀りしないのが無難なのだが…。
高野は異世界の言葉で書いてあるメニュー表を試しに手に取って眺めてみる。
不思議なことに読めない筈の文字が、頭の中で、ジン・トニック、カシスオレンジ、モスコミュールなどと変換されて日本語として読める。
いや、正確には日本語ではないのだが、知っている言語として理解できるという感覚だ。
高野は決して堪能とは言えないが、一応、英語は日常会話程度ならできる。
英語については、メインの言語が日本語のためか、高野のスキル不足なのか、英語の文章や言葉を一旦、日本語に脳内で変換し、理解するというプロセスを経る。
しかし、この言葉―――「共通語」というらしい―――については、感覚的にはそうした変換を経ずに理解できる。
つまり、高野は日本語を使う感覚で無自覚に「共通語」を使っているのだ。
「信じられないな…」
試しに意識して日本語を喋ってみるとマルクとグラシアナは首を傾げる。
「今、なんて?」
グラシアナが尋ねる。
「…ああ、すみません。故郷の言葉で「信じられないな」と」
「…恐らくタカノ様は『迷人』でしょうな。初めて見ましたが」
マスターは頷く。
「『迷人』…」
「ここではない別の世界から来た人のことよ」
グラシアナが高野に説明する。
非常に珍しい例だが、高野のような異世界人―――『迷人』が、異世界から訪れることがあるらしい。
要するに高野は神隠しのようなものに遭い、異世界へ転移したということだ。
グラシアナによれば、なにかの拍子にバー『Dice』の入り口が異世界のバー『Honey Bee』と繋がってしまったのではないかということだった。
そんな馬鹿げたことがあるか、と思いつつも、実際にそうなってしまっているのだからどうしようもない。
逆にこの世界から別の世界に転移してしまうこともあるという。
「『迷人』が元の世界に戻る方法はあるんでしょうか?」
グラシアナとマスターは顔を見合わせる。そして、マスターが首を横に振った。
「…残念ながら異世界とこちらの世界が繋がることはとても稀です。また、こちらに来る『迷人』が全てタカノ様と同じ世界から来るわけではありません。少なくとも、ニホンのサイタマやトウキョウという場所は初めて耳にしました」
「ふーむ…そうですか…それは…かなり困ったな」
まず、頭に浮かんだのは相談室のことだ。クライエントに申し訳ない。
大島さんの紹介状だけはなんとか残しておけて良かったが、突然カウンセラーが失踪したとなるとクライエントに大きな動揺を与えてしまうだろう。
相談室の経営については、大山と三代のことだ、なんとかしてくれるとは思うが、彼らにもかなり心配をかけてしまう。
両親や友人にも申し訳ない。かなり心配をかけてしまうだろう。行方不明で捜索願を出して、警察が探しても絶対に見つからない場所にいる。
向こうではいずれ死んだことになるのだろうか。
せめてこっちにいることだけでも伝えられればいいのに…。
凄く動揺すると思ったが、思ったより冷静に物事を考えている自分に高野は驚く。
まだ実感が湧かないのもあるかもしれない。
ただ、ここが異世界だとわかった瞬間から戻れない可能性が高いだろうな、とは予期していた。
高野のいた世界とだけこの世界が繋がっているわけはないというマスターの話は納得できる。それはそうだろう。
地球以外に生命体がいる、というのも驚きだが、宇宙に他の生命体がいない方が不自然だとも思う。そもそもここが宇宙のどこかなのか、それとも全く別の世界なのかなどもわからないわけだが…。
時間も場所、世界もランダムに繋がる異世界の扉ならば、仮にもう一度、異世界の扉が繋がって、そこを偶然、高野が通ることが出来たとしても、帰りの行き先もランダムに違いない。
そもそも、高野の体験から考えると、異世界と繋がっている場所を見つけ、意図的に通ることは不可能に近い。その予兆すら観測できなかったからだ。
つまり、元の世界に戻れる可能性は絶望的だということだ。
「あまり落ち込まないで…というのは無理な話だけど、とりあえず一杯飲みなさいよ。ここのお代くらいならアタシが持ってあげるから」
グラシアナが高野を慰めるように優しく声をかける。
「…うぅ、すみません。徐々に実感が湧いてきました。海外旅行とはわけが違うな。もう戻れないっていうのは…」
そこで、高野はハッ、としてポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。
仕事中、電源を切っていたが、もしかしたら…。
スマートフォンの電源を入れて、起動を待つ。
「それは?」
グラシアナが興味深げにスマートフォンを覗き込む。
「スマホって向こうの道具です。ええっと…遠方の人と会話ができる、的な」
「へぇ…」とグラシアナが感心したように声を上げる。尻尾が左右に揺れて興奮しているのが伝わる。マスターも眉を上げて高野の話に耳を傾ける。
「可能性は低いけど、ひょっとしたら電波が…」
高野はそう呟きながらスマートフォンが立ち上がり、ロック画面でパスワードを打ち込む。
「なにこれ!?絵が浮き出てきた」
グラシアナがロック画面を見て興奮した声を上げる。
「どういう仕組み?」
「えーっと…液晶画面っていうんですけど…残念ながら、構造が複雑なので私には仕組みは説明できないです。すみません」
高野はグラシアナに謝る。
スマートフォンの左上に電波を探すアイコンがしばらく点灯するが、やがて電波が発見できない際にでるアイコンに変わる。
「…ダメか」
「使えないの?」
グラシアナが残念そうに声を上げる。
「ダメっぽいですね」
高野は首を振ってスマートフォンの電源を落とす。
「あぁ…消えちゃった」
グラシアナが残念そうな声を出す。
「すみません」
高野は申し訳なさそうに謝る。
本当はもっとじっくり見せてあげたいところだが、一応、なにに使えるかわからないので電池は温存しておくことにする。
他に使えそうなものは…。
高野は鞄の中を探る。筆記用具とノート、手帳、ハンカチ、ティッシュ、折りたたみ傘…持ち運び用のスマートフォン用の充電器もあった、これは助かる。
ノートパソコンは持ち帰らなくて本当に良かった。
あそこにクライエントのデータが全て保管してある。万が一、急病などで倒れた際を想定して、パスワードはカウンセラーで共有しているので、あれでケースの引き継ぎはなんとかできるだろう。
「…面白いものがいっぱいあるわね」
グラシアナが高野の横から鞄を覗き込む。
「ちょっとこの布、見せてもらっても良い?」
ファッションデザイナーの職業柄気になるのだろうか、グラシアナは高野のハンカチを受け取ると様々な角度から眺める。
「凄い精緻な刺繍…これどうなってるのかしら」
「良かったら差し上げますよ。お近づきの印に」
高野は笑ってグラシアナに声をかける。
「…ダメよ。異世界の物はその道のコレクターに売ったらかなりの値段がつくわ。貴方、これからこっちで暮らさないといけないのよ?」
グラシアナは首を振る。
…なるほど、確かにその通りだ。高野は頷く。
「…じゃあ、そのハンカチあげますから、代わりに私が生活の軌道に乗るまで面倒を見てくれたりしませんか?」
高野は半分冗談で言う。するとグラシアナがきょとん、としてこちらを見る。
「…なーんちゃって…ハンカチ一枚でいくらなんでも厚かましすぎですよね」
しまった流石に失礼過ぎるよな、と自分のうかつな発言を悔やむ。
「…いや、なんかの縁だからそのくらい全然してあげるつもりだったけど…アンタ、この布、売ったらいくらくらいになるかわかってないでしょ」
「は?」
グラシアナの想定外のリアクションに逆にこちらが戸惑う。
「マスター、いくらぐらいになると思う?」
グラシアナがマスターにハンカチをひらひらと振って見せる。
「…ふむ。これだけ美しい刺繍で、しかも異世界のものとなると、コレクターにうまく捌けば10,000Gはくだらないでしょうね」
「え?ちょっと相場がわからないんですが、それって?」
グラシアナによれば、この都市での相場だと、食事は朝食が5G、昼食が10G、夕食が30Gくらい、宿は1泊素泊まりで50Gくらいだと言う。
武器やポーションの相場なども教えてもらったが、それらは高野の世界にはないのであまりピンと来ない。
大まかに換算すれば1Gは大体、日本円で100円と言ったところか。
「…とすると、10,000Gってことはええと…ひゃ、100万円?!いやいやいや…」
「それでも安いぐらいよ。こっちにはない技術なんだから」
…デパートの投げ売りで700円で購入したおっさんの使用済みハンカチがそんな値段で売れるって一体どんな世界なんだ、と高野は息を飲む。
まあこちらの世界でも、隕石やら本物かどうかもわからないツチノコの身体の一部などにバカみたいな値段をつける輩はいる。それと同じようなものか…。
ということは…。
鞄の中身を見て、高野はごくり、と息を飲んだ。
「そう、アタシたちから見たら宝の山ね」
「なんと…」
もっと鞄をパンパンに膨らませて異世界転移したかった…。