あの日のヒーローは今も……
5月28日。
近衛が霞が関に通いつめるのも本日で三日目。
初日ではずいぶん怖く見えた入り口のセキュリティのおじさんとも顔馴染みとなっていた。笑顔で挨拶を交わして中央合同庁舎第2号館へ入る。ロビーにはすでに何人かの派遣員が集まっていた。
「注目ー! おはようございます。今日は残りの作業終わらせたらそのまま上がりでいいからな。18時目指して頑張りましょう。まずA班は……」
この日も重蔵が現場を取り仕切り、朝の挨拶から持ち場への各班の割り当てへと話が進められていった。
「かぁああ。三日連続ってのはなかなか身体にこたえるぜ」
近衛の隣では新間があくびしており、首を左右に振ってポキンポキンと音を鳴らしていた。微妙に酒気を纏っており、皆から距離を置かれている。
「でもこれで5万はデカイすよ」
「まぁな~。流石お役所様だぜ。散々ピンハネされてるだろうに5万も俺らのとこまで下りてくるなんてな……ってちょっと待てぇえ!! 俺んとこ4万だったぞ確か!!」
血相を変えた新間が近衛の胸ぐらにつかみかかる。
派遣会社ごとに派遣員への給与体系は異なるし個別で差がつく場合もある。給与についてはデリケートな話題のため、派遣員同士であまり細かく話すものではないのだ。うっかり口を滑らせた近衛の自業自得でもある。
「こらそこ! 遊んでないで早く持ち場行け!」
新間の大声に気付いた重蔵がすかさず指摘した。
新間は軽く舌打ちすると渋々といった調子で胸ぐらにかけていた手を下ろした。
「お前今日奢れよな」
しかし一方的な逆恨みを買ってしまった近衛は完全に新間に目をつけられてしまったのだった。
――昼休み。
ギャーギャーうるさい新間をそれとなくあしらった近衛は弁当箱片手にフロア内を歩き回っていた。
無論あの官僚の女性に会うためだ。
わざわざ女性を探す行動に出るなどこれまでの彼では考えられないことだった。
「名前もわからないんじゃな」
せめて名前さえ知ってれば職員に聞くなり、事情を話して弁当箱を渡すなりもできたのだが知らないのでしらみつぶすしかなかった。しかし彼女が所属するであろう総務省の管轄はビルの1階から11階までである。とても1時間で回れるような広さではない。
適当にヤマを張って回ってみたが見つけることはできなかった。
「そろそろ午後の準備しないと……」
昼休みの残り時間が10分となり、彼女の捜索を諦めた近衛はこの日の待機室である6階の会議室へと足を運び、扉を開けた。
が、この日は貸し切りでなかった。
「遅かったのね」
「あ……その、え……?」
会議室には昼休みのほとんどを費やして探していた女性の姿。パイプ椅子で足を組みながら座っていた。
昨日、一昨日と一糸違わぬ形状記憶ぶりは相変わらずだ。
ガクガクと震える足に鞭打ち、近衛は手に持っていた弁当箱を差し出した。
「こ、これ……その、あ、ありがとうござい、ました」
ペコリとお辞儀して女性が弁当箱を回収してくれるのを待つ。なんとか言葉らしい言葉を発せられたのは彼がそれだけ真剣にお礼が言いたかった証でもある。
「あら、返さなくていいって言ったのに。ってそれずっと持ってたの? もしかして私のこと探してた?」
「は、はい。でもここ広いので……さ、探せませんでした。見つけられて良かったです」
「……貴方ねぇ。もうご飯食べる時間もないんじゃないの? もういいからさっさと食べちゃいなさい」
女性はすぐに近衛から弁当箱を受け取るとパイプ椅子を引いて近衛を座らせる。
「あの、その……」
席についても近衛はまだ女性になにか言いたげであった。
モジモジする姿を見てももはや女性に苛立ちは沸いてこなかった。貴重な昼休みを使って一生懸命に自分を探してくれていた、そんな彼を想像してなお怒れるような人間ではなかった。
「なぁに?」
落ち着いて、とも取れるような優しい声色で女性が先を促す。
「と、とっても、とっても美味しかったです。ほんと、あんな旨い飯た、食べたの……初めてでした」
「そ、そう? それなら……良かったわ」
いつの間にか女性の声までもが上ずっていた。近衛のあまりに真っすぐな称賛の言葉に恥ずかしくなってしまったのだ。自分の作った弁当を一心不乱に頬張る昨日の近衛の姿がフラッシュバックしたのも大きい。
「そ、それと……お礼ってわけでも、ないんです……けど」
「え? お礼?」
「は、はい。べ、弁当箱のバンドに……」
「これって……」
女性が弁当箱を見ると二段の弁当を束ねるバンドの部分に一輪の花が差さっていた。鮮やかな紫で彩られたその花は、シンプルなデザインの弁当箱と調和し、ちょうどいいアクセントとなっている。
「ら、ラベンダーです。疲労回復とか、り、リラックス効果が……あります。お、お仕事大変でしょうからその……その……」
これは昨日の晩のこと。
夜遅くでもやっている花屋の存在を思い出した近衛がひとっ走りして手に入れたものだった。金に余裕のなかった近衛が顔馴染みの店主に無理言って一輪だけ購入したものだ。
「い、いやすみません。よ、余計でした。すす捨てちゃってください」
唖然として口を開けたまま静止した女性を見て、近衛はいてもたってもいられなくなり、バンドにはさまれたラベンダーに手を伸ばした。
失敗してしまった、と。ほとんど知らない男にいきなり花をプレゼントされるなんて気持ち悪いに決まっている、と。
「え……?」
しかし近衛が伸ばした手は女性の手に阻まれていた。手首の部分をガッチリと掴まれている。
「勝手に決めないでもらえるかしら?」
「す、すみません……」
「謝るのもやめて。でないと感謝できなくなっちゃうでしょ」
「感、謝?」
「素敵なプレゼントをどうもありがとう。なんだか本当に仕事の疲れも吹っ飛んじゃった気分よ」
女性は手首を掴んでいた手をスライドさせ、今度は近衛の掌を掴む。握手する形となり、そして大きく破顔した。
それは誰が相手でも決して隙を見せたくない彼女にとって人前ではほとんど見せない表情だった。
「じ、自分その……し、仕事行ってきます」
近衛は慌てて手を離すと動転しながら逃げるようにして会議室を出ていった。
「……おかしな人」
取り残された女性はため息をつきながらラベンダーを手に取った。指先をこすってその茎を1回転させる。するとほのかな香りがたちこめた。
「でもこれ、うふふ。すごくいい香り。ずいぶん変わったようで根っこはなにも変わらないのね。……近衛先輩」
かつて男のくせに、と周りから散々に馬鹿にされながらも一生懸命に花壇の世話をしていた少年がいた。そんな彼を人知れず遠目で見ていた少女もまた、勉強しか能がないブスとイジメられていた。
雨宮楓は昔を懐かしむようにしてひとりごちると穏やかな表情でしばらくラベンダーを眺めていたのだった。