夢世界での掟
いつものブースの中で近衛が集中し、意識と身体との分離を図る。
徐々にではあるが明晰夢への突入がスムーズになってきていた。
一気に意識が奈落に落ちていくかのような感覚。成功の兆し。
……。
この日も目を開けると新宿駅だった。
どうやら大江戸線のホームであり、昨日アオと邂逅した場所のすぐ近くのようだ。
「来たか」
声をかけてきたのはこの日一日中近衛の頭によぎり続けていた青い髪の女性……アオだった。ホームと線路の間にある転落防止用の柵に腰かけ、足をぶらぶらさせている。
「やぁ。こんばんは、っていうのはおかしいですかね」
「挨拶なんてどうでもいいよ。よっと」
アオは柵から飛び降りるとホームへ着地した。
「今日は少し余裕あるけどそれでもそんなに時間があるわけでもないんだ。さっさと作戦を立てちゃおうか。と、その前に君の名前だ。決めないとね」
「あ、名前すか。俺はこの……」
「それ以上言ってはいけない!!」
「え」
普通に名乗ろうとした近衛をアオが強い語気で制止した。
「まずこの世界での私たちが守る暗黙のルールについて教えるよ。第一に相手が誰であろうと決して自分の本名を名乗ってはいけない。第二にこちらで知り合った人間と現実世界でも関わるようなことはしてはいけない」
「な、なんですかそれ。どうして?」
「全部教えてたらキリがないから簡単に言うけど、第一については殺されることになるかもしれないから。今だったらあの兎型の武者辺りが現実で君を探しにくるよ」
「げ、現実へ? ちょちょっと待ってくれ。だってこれって夢の中なんだろ?」
いきなり現実に兎が来て自分を殺しにくる、などという突飛な話に近衛がついていけなくなる。敬語じゃなくなってる辺りかなり動揺していた。
「私たちに、とっては夢の中さ。でも彼らからすればそうでもない。まぁ詳しくは今度話すよ。第二については説明が難しいね。これは禁止ってわけじゃないんだけどいずれとても悲しい想いをすることになるから、とでも言っておこうかな」
「全然わけがわかんねぇ。ここってそんなに危険な場所なんか?」
「第一の約束さえ守れれば現実での危険はないよ。最悪の事態でもロスト、つまりこの明晰夢に来られなくなるだけだから安心して。それよりもサクッと呼び名決めちゃおう」
「そんな急に言われても……」
「じゃあ君、なにか好きなことない? あるだろ?」
「好きって言ってもね。う~ん、花ぐらいしかないよ」
「ふふっ、いいじゃないか。花、花ね。うんうん」
アオは花という言葉を噛み締めるように何度か頷いた。心なしか笑っているようにも見える。
「花咲かじじいはどうだい?」
「いやいやまだじじいって程の年でもないっての」
「お気に召さないか。ま、確かに君はじじいというより坊やって感じだね」
「そこまでガキでもないって!」
「そうかな。私にはそう視えるけど」
「なに言ってんだ……よ?」
そういえば近衛はこちらの世界に来てからずっと感じていたことがあった。
今もそうだ。
自分の目線がアオのそれと重なっていた。
顔の割合から察しても決して彼女が大きいというわけでもないのにだ。
「もしかして俺って小さい?」
「うん。とっても。155センチぐらいじゃない?」
「顔は?」
「ん~、中坊みたいな?」
「なっ!」
近衛はすぐに鏡でも見て確認したいところだったがとりあえず両手を見てみることに。確かにいつも見ているものより一回り小さいようにも感じられた。というか袖口を見ると学ランを着ていることに気付いた。なるほど中坊である。
「なんで気付かなかったんだろ」
「そういうもんさ。普段夢の前提って疑うことないだろ? 自分が子供のころに戻った夢を見ている中でなんで自分が今子供なのかって疑問はなかなか沸きにくいんだよ。明晰夢でもそれは言えるのさ。今みたいにキッカケがあれば気付けるけどね」
近衛は初めて明晰夢に入ったときのことを思い出す。
中学時代の教室に飛ばされていた。あのときだってもちろん学ランを着ていたのだ。
「ひとついい勉強になったね。常に周りの出来事には疑いを持つようにするといいよ。それで名前は花咲か坊やでいいのかな?」
「名前で坊やっておかしいでしょ。ちょっと待って……」
近衛は片手で待つように合図しつつ目を瞑り思案する。ややあって目を見開いた。
「ハル、それなら名前はハルにしてくれ」
近衛悠人、かつて彼が呼ばれていたあだ名がハルであった。彼にとっての全盛時代。まだその未来に輝きがあると疑ってなかったあの頃の。
「ハルか、いい響きだね。わかった、それにしよう。君の名前はハル。決定だ」
「ああ、俺の名はハルだ」
アオがそう宣言し、近衛が了承する。
すると次の瞬間、近衛の頭の中で一気に何かが開けたような、はじけたような感覚がほとばしる。
「な、なんか変な感じがしたんだけど」
「今君の存在がこの世界に認識されたからね。これで少しは明晰夢の滞在時間も増えたはずだ。後は二つ名だね。やっぱりこれは花咲か坊やでいいんじゃない?」
「二つ名って……もしかしてアオさんの風呼びとかそういうの?」
「その通り。ってゆかアオでいいよ。もう敬語も使ってないだろ。気楽にいこう」
「わかった。そういうのもつけないとなの? なんか恥ずかしいんだけど」
「好きなものと聞いたとき、君が真っ先に挙げたのは花だった。それしかないとも。だったら花は君にとって特別なんだ。試しに好きな花を思い浮かべてごらんよ。手の平の上に、こう。花びらのひとつひとつまでも創造していくように」
「花を創造、していく……」
近衛は目を瞑り、言われた通りに自分が大好きな花である朝顔を思い浮かべた。中学のころ、学校の花壇にある朝顔の世話もよくしたものだ。花びらだけでなく、茎の部分や根に至るまで、隅々までもが精巧に想像できた。
「ふふふ、やっぱりね。ハルはやっぱり花咲か坊やだ」
「え?」
近衛が目を開けるとそこには手の平いっぱいの、満開の朝顔がこれでもかという程に咲き乱れていた。
「……よっぽどその花が好きなんだね?」
「う、うん。そうだよ。ちょっと恥ずかしいけどね。男で花が好きなんて変だろ?」
「確かに変わってるねぇ。少なくても私が見てきた中では君だけかもしれないな」
「気にしてんだからそんなハッキリ言うなっての」
「あはは、いいじゃないか別に。それに大人になってからならそういう趣味の男性は魅力的に見えるかもしれないよ」
「そう、かな」
「私はそう思うけどね。その花束、ちょっと貸してもらえる?」
「うん」
両手に溢れんばかりの朝顔を近衛から受け取るとアオがニッコリと微笑んだ。
「やっぱり花を咲かせる創造はハルの固有の心象顕現だ。それだけの創造をしても君の界在承認量がほとんど減ってない。しかも君の手を離れてなお存在し続けてる。こりゃ二つ名も花咲か坊やで決まりだね」
またまた近衛、もといハルにとっては聞き馴染みのない言葉をアオが口にする。
「へ? 心象、顕現?」
「まぁこっちの話さ。それについてもいずれね。さてさて名前がハルに決まったところで今度はヤツを屠る作戦を練らないとだ」
「説明の後回しが多くない?」
「別にいじわるしてんじゃないって。時間ないのわかるでしょ。いいかい、私は二つ名の通り風を自在に起こすことができる。最大風速は50m、有効範囲は100mってとこ。汎用性は高いんだけど戦闘向きじゃないんだ。相手に隙を作ったり足止めしたりがせいぜいってとこ。見ててね? ……心象顕現! 我を誘え!」
アオは目を見開き、そう世界に宣言した。
するとアオの足元から渦を巻くように風が起こり始め、朝顔が彼女を取り囲むようにして舞い上がった。髪は逆立ち、着ているパーカーのはためきも強くなっていく。やがてつま先が床より離れ、その場で50㎝程上昇した。
「すげぇ! 飛んでる……」
「昨日も見せたじゃないか。それに空を飛ぶなんて夢の醍醐味だろ? 本番はこっからさ。それじゃいっくよ~」
「へっ?」
アオは浮遊したまま指先をハルに向けると「風速25m!」と叫んだ。
すると下からアオに向けて吹いていた風がベクトルを変え、束となってハルに襲い掛かる。
風切り音がする程の風圧はハルの直立での立位を阻害した。転倒を防ぐために片手・片膝をつくことを余儀なくされ、身動きがほとんどできなくなる。目をしっかり開けることも困難で風以外の音も聞こえなくなる。一瞬にしてハルが無力化された。
「と、まぁこんなもんさ」
アオが指先をくるくるさせると暴風が止んでいく。なんの備えもしていなかったハルからすればとんだ災難であった。
ようやく息を整え、身体についた朝顔の花びらを払うとアオを睨みつけた。
「いきなりなにすんだよ!」
「手っ取り早く私の力を理解してもらおうと思って。えへへ、ごめんね?」
アオはわざとらしくウィンクして舌を出し、目の前で手をかざして謝罪の意を表す。
「もういいけどさ」
そして一瞬で許した。あざといとわかりつつも可愛いさとは正義なのだ。
「でもこれでわかったろ? 私一人じゃアイツは仕留められない。身動きできなくさせるぐらいが関の山さ。だからとどめはハル、君が刺すんだ」
コミカルな表情から一転、真面目な面持ちでアオが手の平を中空にかかげた。その先で少しずつ形成されていくなにか。まず枠組みができ、やがてシルエットとなり、内部が構成されていく。数秒もしないうちにそれはよく見知った物となって姿を現し、アオの手に握りしめられていた。
「それ包、丁? どうやったの」
「これも心象顕現のひとつさ。すごく簡単な創造だから今のハルでもできるよ。包丁ってみんなにとって身近だろ。認識にずれもないし過度に干渉しなくても世界に承認されるんだよ」
「……日本語で頼む」
「同じ刃物でも例えば日本刀だったら私には創造できないってこと。ほとんどの人が触ったこともなければ切れ味を実感してるわけでもないでしょ。相手の認識を塗り替えられる程私が日本刀に精通してるわけでもない。ここはね、そういう世界なんだ。相互の理解と認識があって初めて世界に干渉できるし、存在が承認される」
「う~ん、わかるようなわからないような。もし仮に俺がめっちゃ日本刀詳しくて毎日振り回してたとしても、周りで日本刀知ってるやつなんてほとんどいない。だからさっきみたいに作れないってこと?」
「うん。概ねその理解で大丈夫。でもそれは詳しさにもよるんだ。相手の認識を変えられるだけ精巧な創造ができればカタチにはなるはずだよ。相互理解してるものに比べたら効果は半分ってとこだろうけど」
「はいこれ」と言ってアオがハルに包丁を手渡した。包丁はハルの手に渡った途端、まるで砂塵のように粉々に分解され、雲散霧消した。
「もうちんぷんかんぷんなんだけど……」
「ふふ、まぁまだ無理に理解しなくていいよ。今みたいにね。基本的に創造されたものは持ち主の手を離れたら存在を維持できなくなるんだ。これもロストっていうよ。だから私が創造した包丁をハルに渡すことはできない」
「え、でもさっきの朝顔は……」
「そう。だからあれは君の固有の力なのさ。創造主たる君の手を離れてもロストせず、その存在が世界に承認され続けていた。よっぽどあの花に思い入れがあるんじゃない?」
「……ふん、知らないよ。それよか夢の世界って思ってたより面倒なのな。よくわかんないルールとか法則あるし。もっと自由自在を夢見てたよ」
「へぇ。夢に夢見てたのかい? その言葉遊びはちょっと趣があるね。やっぱり君はロマンチストだ」
「うっせほっとけ」
暗に花が好きなことを馬鹿にされた気になったハルは頬を紅潮させつつ口を尖らせた。
「拗ねない拗ねない。ほら早く特訓特訓! 今日は残りの時間で包丁の心象顕現を成功させるんだ」
「わかったよ。包丁なんてほとんど握ったことないからイメージしづらいんだよなぁ」
ハルは口では毒づきながらもこみ上げる高揚感を隠しきれないでいた。
まったく新しい世界で、新しい法則のもと、現実では不可能な力を行使する。それも自分の経験と想像力次第で無限に広がる可能性だ。
それは現実世界でもはや何にでもなれる存在でなくなってしまった彼にとってあまりに眩し過ぎるものだった。