人生最高のランチ
5月27日。
近衛は昨日に続き、早朝から中央合同庁舎第2号館に来ていた。
この日も重蔵が各チームをフロア毎に仕分けし、近衛のいるC班は5階を割り当てられた。
「あら昨日の……近衛さん、だったかしら?」
近衛が廊下の端で作業の準備をしていると声をかけられた。
顔を上げると昨日顔見知りとなった官僚らしき女性がいた。凛とした佇まいと皺ひとつないスーツ、ビシッとセットされた頭髪はもはや完成の域にあり、形状記憶よろしく昨日みた姿と完全に一致していた。
「はぁ」
「相変わらずね。まっしっかり頼むわ」
なぜいちいち自分に絡んでくるのか。わけのわからない近衛は気のない返事しかできなかった。女性はそんな近衛の態度を気に留める様子もなく、さっぱりとした態度のままその場を去っていく。近衛も何事もなかったかのように鞄からLANケーブルを取り出し作業を再開した。
しかしこの状況を決してスルーできない人間が近くにいてしまった。
「近衛ぇえ。お前あの女と知り合いだったんか? ん?」
そう、新間である。運悪くこの場を目撃されてしまったのだ。
涎でも滴りそうな表情で近衛に近づいていく。
「全然そんなんじゃないすよ。名前も知りませんし。あ、これ持ってって下さい」
近衛がケーブルの束を差し出すと新間は心底つまらなそうにため息をついた。
「お前よぉ。ちゃんとついてんのか。あ?」
新間はケーブルを無視して近衛の股間を握りしめる。
「仕事中ですよ。早く終わらせましょう」
この最低としか言えない行動にも近衛はあくまでノーリアクションだった。そもそも新間の独特なコミュニケーションに合わせられるような器用な人間でもない。
「あーそうですかそうですか。ほんっとつまんねぇヤツ」
急に興味が冷めたのか、新間は乱暴にケーブルを受け取ると素直に持ち場に戻っていった。もしかしたらこういった対応こそが新間と関わる最適解なのかもしれない。
近衛の思考を支配するのは先ほどの女性でもなく、もちろん新間でもない。ひたすら明晰夢のことが気になっていた。そしてアオと名乗った彼女、その振る舞いや言動の一挙手一投足までもが脳裏に焼き付いて離れない。
午前中の仕事もどこか上の空であった。
――昼休み。
この日も近衛は会議室へ。今日も今日とて貸し切りである。
スーパーで80円で買った、量だけは確かなカップ麺はなんと昨日と同じ味である。
日雇い労働でのその日暮らしの生活を始めて二年。食費を削るしかなかった近衛の食生活は段々と単調なものになり、今では食に楽しみは見出していなかった。ただの栄養補給であり、生きるためのルーチンでしかない。
お湯を注いで待つこと3分。
「風呼びのアオか……」
こうして手持無沙汰になると物思いにふけってしまう。近衛はぼんやりと視線を泳がせていた。
すると……。
突然巨大なカエルが現れ、目の前を飛び跳ねたではないか。1mはある巨体だった。
「うわぁあ!」
信じられない光景に驚いた近衛が大声を上げながら仰け反った。すると座っていたパイプ椅子が負荷に耐えられず、その前足の部分が浮き上がる。
「あ、お、わわわ!」
反射的に重心を前に戻すも時すでに遅し。パイプ椅子はゆっくりと後方に揺れていき、やがて近衛もろとも派手な音を立てて倒れた。
「痛ってぇええ」
後頭部を壁に打ち付けた近衛が頭を抑えつつ上体を起こす。ピヨピヨと星が瞬くような衝撃だ。
「そうだ! カエルは!??」
すぐに正気を取り戻し、慌てて立ち上がると辺りを見渡した。
無意識に両拳を構えるようなポーズを取り、会議室中に視線を這わせていく。
だがいくら探しても先ほど見かけたカエルの姿は見当たらなかった。
「幻覚、か。ずっと半端な寝方しかしてなかったしな……」
加えてこの日も一日中明晰夢について考えていたのだ。空想と現実の視覚が誤作動を起こしたのかもしれない。そう納得し、緊張を解いて肩を撫でおろす。
しかし近衛を襲う不運は続く。
「ずいぶんおかしなことやってるのね」
「え、あっ!」
いつの間にいたのか、会議室の入り口には女性がいた。例の若手官僚だ。
「はっきり言って頭のおかしな人にしか見えなかったのだけれど」
腰に手を当てカツカツと小気味好い音を立てながら女性が近衛に近づいていく。
とんでもなく恥ずかしい場面を見られた事実と女性が近づいてくる恐怖に近衛はたまらなくなり、後ずさる。
「なんで逃げるのよ? 私がカエルに似てるとでも言いたいの?」
今日の彼女は容赦しない方針らしい。歩みを止めることなく近衛を追い詰めていく。
すでに壁に背をつけ、それ以上の後退が不可能となった近衛の目の前まで来るとその顔の真横に手をついた。いわゆる壁ドン状態。
「答えなさい」
「な、なにが……ですか?」
近衛はすでに限界だ。身動きとれない以上、目をつぶることしかできなかった。身体は自然と震え出す。
「今何があったの?」
「なにも」
「嘘おっしゃいな。それともなに? まさか貴方薬でもやってるの?」
「い、胃薬なら……お、一昨日飲みました」
「はぁ? それボケのつもり? 全っ然面白くないんだけど。だいたい男がそんなめそめそしてんじゃないわよ。別に取って食おうってんじゃないんだから」
あまりにかみ合わない会話に女性も段々と苛立ち始める。
「う、うう」
が、無理なものは無理なのだ。
女性が苦手というトラウマは近衛にとって根が深すぎた。増してこんなズケズケと距離を縮めてくる女性は輪にかけて心への負担が強い。
今にも泣きだしそうな近衛の様子に女性も冷静になっていく。
「……ごめんなさい。そもそも休憩中になにしてようと勝手よね」
そう言って壁に当てていた手を下ろすと近衛と距離を取った。頭を冷やそうと頭を振り、なんとなしに振り返る。そして長机の上にあるカップ麺を見て再び頭を抱えることに。
「やっぱりまたカップ麺なんて食べて。それにあれ昨日と同じ銘柄じゃないの」
女性はすぐにまた責め立てるような口調になっていることに気付き、また頭を振った。近衛は彼女がこれまで接してきた男たちとは勝手が違う。距離感を計りかねていた。
「ちょっと待ってなさい。すぐ戻るから」
女性は今度こそ努めて優しい声色でそう言うと会議室から出ていった。
近衛がひとり取り残されることに。
「勘弁してくれよもう……」
力の抜けた近衛は体育座りの姿勢を取り、自身の両足に顔をうずめた。
いきなり巨大なカエルは現れるは怖い女性は現れるはで散々な日と言えよう。明晰夢について思いを巡らせる余裕もなかった。
数分後。
彼女の捨て台詞から予想はできていたことだが再びカツカツと小気味良い音が会議室にこだました。女性の気配に気づいたものの、近衛は顔を上げることなく情けない姿勢のままだった。
「さっきはほんとにごめんなさい。これお詫びだから置いとくわ。箱は別に返さなくていいから良かったら食べてちょうだい」
コトリと長机になにかが置かれた音がする。女性はそれだけ言って会議室から出ていった。
近衛は大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせ始める。壊れかけたメンタルを修復していく彼なりの方法だ。10回の深呼吸毎に自分が好きな花をひとつずつ思い浮かべていく。紫陽花や朝顔が昔から特に好きな花だった。
「よし」
近衛はなんとか気持ちを切り替え、立ち上がった。
時刻は13時30分。休憩時間はまだ30分残っていた。
長机を見るとステンレス製の二段になった弁当箱が置かれていた。柄などはなく銀色のシンプルなデザインである。ご丁寧なことにカップ麺は没収されていた。
強引だがこれは彼女なりに近衛の性格を分析した結果だ。遠慮して弁当に手をつけない、という選択肢を奪ったのだ。昼食の交換という体を取ることで心理的な遠慮の念が払拭されるのではないか、と。
作戦は功を奏し腹を空かした近衛はそれ程迷うこともなく弁当箱に手を伸ばした。
一段目にはおかずが敷き詰められており、サバの塩焼きに出し巻き卵、ミニトマトとレタスのドレッシング和えに加えて人参、油揚げ、ひき肉入りのひじき煮、じゃがいもの煮ころがしが入っていた。ほぼ野菜を取ってないだろうと予測した女性のチョイスはヘルシーな素材が多いものの、男性向けにしっかり味付けもしており、ご飯が進む内容となっていた。
二段目には玄米入りのご飯の上に醤油漬けにされた海苔が乗せられていた。
お詫び、と称したがその実初めから近衛に渡す算段で作られた弁当であった。当初の予定では一緒に食べるはずだったのだが、狂ってしまったのは彼女の自業自得と言えよう。
「なんだこれ……うめぇ」
普段出来合いの半額弁当やレトルトもの、カップ麺ぐらいしか口にしてない近衛にとってその味は衝撃的だった。それこそ涙が出る程に旨い。思えばまともな食事をしたのはいつぶりのことだったか。食事とはこんなにも美味しいものだったのかと。掛け値なしにこれまでの人生で一番のランチと言えた。
あっと言う間に全部平らげると近衛は思わず両手を合わせてごちそうさままでやってしまった。
「まったく……あんな顔されたらまた作ってあげたくなるじゃないの。ってうわこれまっず!」
さりげなく会議室の中を覗きに来ていた女性がカップ麺片手にそう呟く。交換したカップ麺の味は女性の口には合わなかったようだがその口元は緩んでいた。
こうして近衛はなんとか昼休み中にメンタルを持ち直し、午後の仕事に励むことができた。
霞ヶ関での二日目の仕事が終わったのは21時過ぎのこと。昨日よりは早めに上がれた。この調子でいけば明日の仕上げはもっと早くに終わるかもしれない。それぐらい進捗は順調だった。
すぐにでも明晰夢に入りたい気持ちを抑え、近衛はワンダーカフェ内にある流し場へ。帰りにコンビニで買ったスポンジと洗剤はなかなかに痛い出費だ。それも使うのはこの日限りとなるため、使い切りというもったいなさ。
念入りにステンレス製の弁当箱を洗っていく。近衛は無意識のうちにあの凛とした女性の姿を思い浮かべた。
間違いなく恐ろしい人間だ。女性というだけで十分なのに常に堂々としていて高圧的でもある。
それでもあの弁当の味は近衛にとって暖かすぎたのだ。何かお返しでもできればと思う。だがほとんど無一文の近衛が官僚の彼女を喜ばせられることがあるだろうか。
「そうだ」
閃いた近衛が時計を見るとまだ時刻は22時前。
急げば明晰夢への支障もないだろう。
近衛は弁当箱をさっさと拭いてブースへ戻り、再び夜の街へ駆り出したのだった。