風呼びのアオ
総務省での1日目の作業が終わったのが23時過ぎ、ワンダーカフェに着いたのは23時30分ごろだった。
今日も今日とて近衛は疲労困憊だ。これまでであればこんな日が後二日も続くと考えただけで吐き気すら催しそうなものだ。しかし今日の彼は違った。
次に見る明晰夢でハッキリするのだ。
今日の仕事もこなしてはいたものの、頭の片隅には常にあの世界があった。
現実では無理でもあそこなら……あそこでならやり直せるかもしれない。近衛悠人というアイデンティティを取り戻せるかもしれない。そんな最後の希望。
明日も早起きだというのに、この時間にエナジードリンクを飲むという愚行にもなんの躊躇いもなかった。
「頼むぜ。新宿駅」
いつものブースで背もたれに体重を預け、目を閉じる。すぐにドクンドクンという動悸が始まる。いい傾向だ。やがて耳鳴りが始まり、四肢を動かすことが不可能となる。この日は金縛りを経由するらしい。
「…………」
次に目を開けたとき、広がっていたのは新宿駅の構内だった。
「いよっっしゃああっ!!!」
近衛はガッツポーズとともに思い切り跳ね上がった。
思えばここ数年、近衛はこれ程までに心昂らせたことがあっただろうか。
保険会社での地獄の日々のあとは派遣業でのその日暮らしの毎日だった。ただただ次の日の仕事がつらいかそうでないか、そういった連続だ。目的もなく漫然と過ごす中で刺激を感じるのは難しいのだ。
だが今はどうだろう?
彼は間違いなく生を謳歌していた。皮肉なことにこの現実ではないユメのセカイで。
「いけね。時間が惜しいんだった。大江戸線だったよな」
興奮している場合ではない。彼にとってはとにもかくにも時間が惜しい。
まずは現状の把握だった。近衛が辺りを見渡す。
小田急線のホームだった。昨日彼が明晰夢から覚めた場所とほぼ等しい。
「ってか大江戸線なんて使ってなかったからよくわかんね」
鉄道大国日本が誇る最大の魔界であり、もはやダンジョンとも呼べる新宿駅。大江戸線はその中にあってさらにその最奥、最下層に位置する秘境だった。初めて利用する人間はそのホームまでの遠さに唖然とするだろう。一体何度エスカレーターで地下に降らなければならないのかと。
幸いにも案内板は現実世界と同様に出ていた。とりあえず彼の視認できる範囲には兎型の異形もいないようだ。
近衛は人込みをかき分けつつ小走りで、なおかつ周囲に気を配りながら大江戸線へと向かう。なんだか潜入任務のようだなと、緊張しつつもその状況を楽しめていた。
しかしその道中。ちょうど売店を通りかかったところであの異形の姿が視界に入ったのだった。
「やっべ!」
近衛はすぐさま円柱の陰に身を寄せた。全身から汗が噴き出すのがわかる。夢の中とはいえ昨日殺されかけた相手である。自然と足が震えたがそれでもなんとか奮い立たせ、上半身だけを覗かせてその様子を伺う。
なにやら売店の店員と話しているようにも見える。
「……嘘だろ、オイ……」
信じられない光景だった。
まるで夢のような、いや夢には違いないはずだが。
「一本くれ」
「いつもありがとうございます。はいどうぞ~」
「ふむ」
なんと兎型の異形が人参を買っているではないか。やり取りにも妙な洗練さがあり、常習を思わせる匂いがある。
次の瞬間、兎型の異形は信じられないスピードで人参をかじり始めた。下顎の動きが速すぎて残像が見えるほどだった。
「ぶほっ、たまらん!」
よほど人参が旨かったのか、兎型の異形は天を仰いで雄たけびをあげていた。
近衛はしばらく唖然とその場を眺めていたものの、これはとんでもない隙だと気付いた。脇を抜けて一気に大江戸線へのエスカレーターに向かう。
「あんな妙なやつに殺されかけてたのかよ……」
つい先ほどまで怯えてたのが馬鹿らしくなり、どこか拍子抜けしてしまうのだった。
エスカレーターを降ること4回か、5回か、もう数はわからなくなってしまったところでようやく大江戸線のホームが見えてきた。
「はっ、はぁはぁ。あの子はどこだ?」
ここまで来るのに何分使ってしまっただろうか。
とにかく彼女に合わなければなにも始まらない確信があった。
ベンチを抜け、自販機を抜け、そして……。
「いた!!」
ホームの端の端。
そこに佇むように、後ろ手に組んだ姿勢で昨日の女性が立っていた。
「ようやく来た。ここまで来るのに何分ぐらいかかった?」
女性は間髪入れずに近衛に問う。無駄なやり取りをするつもりはないようだ。
「な、何分って。よくわかんないけど3、4分ぐらい?」
「あんま余裕ないね。アイツには見つかってない?」
「はい。途中でなんか人参食ってましたけど」
「……馬鹿にしてる?」
「いやいやほんとですって。信じられないスピードでサクサクサクって……」
近衛の言動に女性は明らかな嫌悪感を示す。限られた時間の中での真剣な話し合いの場でくだらない冗談を挟んできたと思ったらしい。
「そんなわけあるか。チッ、もういいよ。手短に説明するよ? まず君の現状。アイツに認識された時点で君はこのエリアからは出られない。明日も明後日も一緒さ。明晰夢では常に新宿に囚われることになる」
「はぁ? どういう意味ですか?」
「悪いけどひとつひとつ説明してる暇もない。解決方法は二つ。アイツが君を狩るのを諦めるか。アイツを殺すか、しかない」
「こ、殺すって……」
まだ幼さの残る女性の過激な発言に近衛はたじろぐ。
「そっ。ちなみに諦めるのを期待するのはおススメしないな。彼らの執着心は強い」
「そんなの……無理ですよ」
いかに先ほどの滑稽な姿を見たとはいえ、昨日の異形の戦闘力は本物だった。なんの訓練もしていない近衛に太刀打ちできる相手ではない。いざとなれば足がすくんでしまうことが近衛にはわかっていた。
「だったら諦めること。こちらの世界に来ることをね。簡単さ。もう一度アイツの前に現れるといい。瞬く間にロストにしてもらえる」
「そうだ! そのロストだとかアウトだとかってなんなんです?」
「ロストとはこの世界からの追放、二度と明晰夢に入ることができなくなる状態のこと。アウトはペナルティ付きでのこの世界からの退場、その日の明晰夢での記憶の喪失に加えてしばらくの間明晰夢に入れなくなる。ブレイクはこの世界からの離脱、今まで君がしてきたのは多分ブレイクかな。詳しい条件については機会があればまた」
女性は淡々と説明したが近衛にとっては聞き逃せない情報があった。
「追……放?」
二度とこの世界に入れなくなるというパワーワードに思考が制止する。
「そんなの嫌だ!」
子供の我がままのような、それでいて近衛の魂の叫びも込められた思いだった。
自身が見出した最後の希望の道筋が潰えるという絶望は、異形に立ち向かう恐怖をも超えうる。
「だったら私の言うとおりにすることだ。今日はもうブレイクが近い。明日アイツを殺る作戦を練るよ。決行は明後日行う。また明日もここへ来ること」
女性が言うように近衛の限界は近い。世界の崩落が始まっている。
「き、君の名前は、名前はなんていうんですか?」
近衛が最後の力を振り絞って女性に問う。
「アオ。風呼びのアオ」
だっさ! この子も猫目のアリスみたいな感じで自称に通称を使うのか!
そんな突っ込みを入れる時間はすでに残されていなかった。
近衛の視界が一気にブラックアウトしていく。
……。
「はぁはぁはぁ」
次に近衛が目を開けると電源のついていないモニターに映る自身の顔が映っていた。
時刻は0時20分。最後に時刻を確認してから僅か3分しか経っていないことに気付く。不思議な感覚だったが今はそんなことよりも……。
「アオ、アオ……か」
近衛の頬が緩み、思わず笑みがこぼれる。
悪くない響きだった。
自分の可能性を広げ、未知の道を示してくれる存在。少しボーイッシュでサバサバした感じも悪くないな、と。
「そういやなんで俺普通に話せたんだろ」
女性を前にすると呂律が回らなくなり、直視もできないという彼のトラウマがアオを前には発動しなかった事実に驚く。
それは明晰夢の中だからなのか。それとも彼女が特別なのか。
その答えを今の彼に知る由はない。