夢世界での洗礼
5月25日。
近衛はあの日からも何度も毎日のように明晰夢に入ることを試み、そのうち何度か成功したことで少しずつその世界についての理解を深めていた。
まず明晰夢に入って一度覚醒した場合、その日は何度繰り返そうと思っても完全な明晰夢にはならないことがわかった。一瞬また明晰夢に入れそうにはなるのだが持続しないのだ。数秒で覚醒状態に戻ってしまう。
もうひとつは持続時間だ。近衛の場合、明晰夢の中で興奮することなく、また夢の中に取り込まれることもなく持続させられる時間は5分程度が限度ということ。
さらには緊急回避について。これはサイトにも書かれていたことだが、興奮して世界の崩壊が始まった場合、冷静になって目を瞑り、床に手を触れることで覚醒を防ぐことができる。徐々に世界が再構築され、元いた風景が展開されれば再び明晰夢ライフに浸れるのだ。
また夢の世界ならではの世界への干渉について。物や人を出現させたり、風景を書き換えたり、空を飛ぶなどについては可能な瞬間とほとんど不可能な瞬間に完全に分かたれていた。不可能な瞬間でも鉛筆程度なら数秒間出現させることができるのだが、人ともなると想像の中で人物像を描写している途中で限界が訪れ、強制的に覚醒してしまう。この際の世界の崩壊については先ほどの緊急回避は通用しない。問答無用で現実へ引き戻されるのだ。
現時点で近衛が明晰夢についてわかったのはこれぐらいである。
これまで色んなことに興味を持っては自分に適正がないと感じた時点で努力を止めてしまった彼にしては真剣に向き合い、よく分析していた。まったく新しい世界で色々な法則を知り、自分の限界を知り、成長を感じ取れる。現実世界で叶わなかったことだ。このチャンスを逃すものかと必死になっていた。
好きこそものの上手なれ、とはよく言ったものだ。
なによりこの不思議で新しい世界に触れるということ自体が近衛にとって楽しくて仕方なかった。ここまでくればサイトに書かれてることも真実味を帯びてくる。
果たして猫目のアリスとはなにものなのか。
字面だけ見れば中二病も甚だしい。周りから呼ばれるならともなく、自ら通称を自称するものなのか。どうしてもラノベに出てくるような猫耳の可愛い女の子を想像してしまう。
また探索するとはどういうことなのか。ここが気になって仕方ないポイントだ。
だってそうだろう。
まるで明晰夢の世界が共有されてるのかのような表現がされているのだ。
「さて始めるかね」
この日も明晰夢に入るための準備は整っていた。激務の仕事を終え、エナジードリンクもチャージ済み。最近では金縛りを経由せずとも明晰夢に入れることも増えてきている。
この日も直接明晰夢に入ることとなった。
今回は始まりの場面が新宿駅であった。とてつもない数の人々が狭い空間の中往来する、世界規模で見ても最大級の人口密度を誇る魔界である。慣れてない人にとっては迷宮というほかない程複雑な造りをしており、案内板がなければ目的地までたどり着くのは不可能だろう。
近衛は学生のころに通学の際の乗り換えで使っていたため、本来迷うことはない。
だが安心してはいけない。
ここは夢の世界。
現実世界の常識が通用するなんて期待してはいけない。
駅の造り自体もそうだが、そもそも通路の途中でまたオフィスに繋がっていたりする可能性もある。
近衛はとりあえず馴染みの東口に向かうため、山手線のホームから地下に降り、東口改札へ歩みを進めた。
行き交う人々には特に見向きもしていなかったのだが、どうしても目に留まる存在があった。
「兎のコスプレか?」
身長は120センチぐらいか。全身を鎧で纏った異形の存在が女子トイレ前で佇んでいた。まだだいぶ距離はあるがその出で立ちはあまりに目立つものだった。端的に言えば二足歩行の兎だ。近衛の認識と違うとすればその大きさだろう。あんな巨大な兎は見たことがなかった。背中にはまたまた巨大な弓を抱えている。世界最大の弓、和弓だ。2mを超える弓を抱える様はなんだかおかしく感じられた。
ほとんど無意識的に吸い寄せられるように近衛は異形の元へ。
その距離が近づいていく。あと20m、あと10m……。
「ねぇ君……」
恐怖より好奇心が勝った近衛は馴れ馴れしくもその兎型の異形の肩へ手をかけた。
途端、その鋭すぎる赤目の眼光が近衛を捕らえる。
「なんぞ貴様!」
うめき声のような低い声をあげた異形が懐の刀に手をかけ、凄まじい勢いで抜刀して近衛を斬りつける。一瞬で近衛の右腕が吹き飛ばされ、宙を舞う。近衛はその突然の殺意に認識が追い付かず、呆然と佇むしかなかった。
切断された上腕から血しぶきが舞い上がり、遅れて熱さと激痛が近衛を襲う。
「ぎゃああっ!」
「その首もらい受けよう」
両膝をつき、失われた片腕を抑えながら痛みに悶絶する近衛の頭上に無慈悲な刃が掲げられた。
夢の中では痛みは感じないものではなかったのか。そもそもこの兎はなんなのか。声なんてかけなければ良かった。
様々な後悔の念とともに近衛の頭に浮かんだのはサイトの最後にあった謎の一文。
『間違っても本物の兎型の武者を相手にそんなことは言ってはいけない』
ああそうか、このことだったのか。
殺される。頭上から自分の命を奪う刃が下ろされる確かな感覚。現実ではまず感じることのない本当の殺気だった。
そのとき……。
「馬鹿か君は!! なんてことしてるんだ!」
遠くの方から怒気のこもった大声が轟いた。
すると凄まじい突風が吹き荒れ、異形の振り下ろす刃が僅かに軌道をずらし、近衛の首をかすめるに留まった。突風がなければ間違いなく胴と分断されていた一太刀だった。
近衛は震えから一歩もそこを動くことができないままだ。
体勢を立て直した異形が再び刀を握りしめ、上段の構えを取る。無防備な上に錯乱している近衛にその刃を防ぐ手立てはない。
が、それだけの時間があれば彼女にしてみれば十分であった。
跳躍ではなく飛翔、まるで突風にそのまま乗ってくるかのごとく、一人の女性がらせん状の軌道を描きつつ飛んでくると二人の間に入り、素早く近衛の身体を脇に抱えた。
「おい! 意識をはっきりさせろ! そのままではアウトだぞ!」
女性は近衛を揺さぶりながら大声で叫ぶ。
すでにぼんやりと夢の世界へとまどろみかけていた近衛の意識が少しづつハッキリし、その女性を視界で認識する。
年齢は十代の半ばぐらいだろうか。凛とした口調とは対照的にまだ幼さが残る顔つきだった。
黒のショートパンツからすらりと伸びた足と浮世離れした青い髪、青い瞳が印象的だ。ハーフなのかコスプレなのかはわからない。上衣はフード付きの白いパーカーを羽織っている。
「風呼びか……何故邪魔立てする?」
兎型の異形が今度は女性に向き直り、再度刀を構えた。
「こちらに非礼があったなら詫びるよ。でもここでやらせるわけにもいかない」
再び風が舞い上がると女性は近衛を抱えたまま、飛翔を始めた。
「待てぃ」
「それじゃ」
女性は異形の制止を振り切って突風とともに凄まじい速度で駅の構内へ消えていった。
いかな兎型の武者と言えど全力で逃げに徹した彼女を捕らえることは難しい。並みの相手であれば弓を使えば事足りるのだが。
「覚えておれよ……」
行き場を無くした殺気を振り払うように、風切り音を起こすほどの一振りを中空でした後、兎型の異形が刀を鞘に納めた。その視線は消えた彼女の方向をじっと捕らえていた。