もやもやとした不信感
「不破がなんかやらかしたのか?」
お手洗いから出たところ、両手に缶コーヒーを持った加賀係長が待ち構えていた。
うちの係は人間関係に興味持ちすぎじゃないかしら。本当に仕事してる?
でも加賀係長としては、ある種問題児の不破について、責任を持って監督してる立場だもの。
知らない間に不破のことでごたごたしてるのは、気になるのかもしれないわね。
そう思って、給湯室に移動して二人でコーヒーを飲みながら、今日の出来事を簡単に説明させてもらった。
「というわけで、不破が何を考えてるのかわからなくて、今日はみんなで振り回されちゃっているんです」
「なるほどな」
ぼそぼそ喋りの加賀係長は観察力があって察しもよく、不破の沈黙から様子を読み取れる数少ない一人だ。
失礼ながら、不破考察界の相棒と言っても差し支えない。
そんな係長の口から出たのは、意外な情報だった。
「トレイってあれだろ、食堂の。この前ぐろにもやってただろ、それ」
「え?」
「あれは火曜だな。嫁さんの弁当なくて食堂に行った日あんだが、不破がぐろにトレイ手渡しかけて、ぐろから止められてたぜ。短いやりとりだったし、俺の後ろでやってるんでなきゃ俺も気付かなかったかもしれねーけど」
「それって!」
「少なくとも、木勢のことだけ意識してやったわけじゃねーな」
朗報すぎる。
この言葉で私の悩みはほぼ解決とも言えるんじゃないかしら。
でも、じゃあぐろちゃんがトレイの件を教えてくれなかったのはどうして?
ぐろちゃんは、態度は軽いけど素直なタイプだ。
わざと驚いたふりをしたとは考えにくい。
「それは、とりあえず安心です」
「とはいえ、このところ不破がちらちら木勢のほう見てるのも気付いてるか? なかなか吐かないだろうけど、あれは言いたいことがある顔してるから、早めに聞いてやれよ」
「あの意地っ張り、正解突き付けるまで頑として口開かないじゃないですか」
それは私に、不破の行動の意図がわかるまでこの謎解きを続けろということですか、係長。
別に私はそこまで不破に興味津々なわけじゃないんだけど。
「だから手助けしてやってんだろ」
「それはおっしゃる通りです……」
「いつもお前に任せて悪いと思っちゃいるけど、生憎他に弾がない。できるか?」
係長とは長い付き合いだし、頼られると助けたいと思ってしまう。
案外、長女気質なのかもしれない。
「仕方ないですね。早いところ解決します」
「その意気だ」
缶底を上に向けて、加賀係長が喉を大きく動かすのを見て、私も同じようにした。
小休憩は終わりだ。
「コーヒーご馳走様でした。捨てておきます」
「おう」
蛇口から缶の中に水を少なめに入れて濯ぐ。
静かな水音とともに、心も洗われていくようで、私はモノをきれいにするのが好き。
でも、そんな時間もすぐに崩れ去る。
加賀係長の遠ざかる足音と入れ替わるように、バタバタと落ち着きなく駆け込んできたのは隣の課の同期の顔だ。
「りーつ、聞いたよ。不破さん、甲斐甲斐しいじゃない」
「やめてよ、あれくらいで噂にするの」
今日その話はもうお腹いっぱいよ。うんざりしてきちゃう。
私と同期ってことは、不破とも同期ってことなんだから、もっと不破の性格を考えて察してくれてもいいんじゃないかしら。
「だーって不破さんも律も目立つんだもの。すぐ耳に入ってきちゃう。みんな本気じゃないし、不破さんそこそこカッコイイんだから悪い気はしないでしょ」
「不破を見てカッコイイって感じる発想は最初の一か月で投げ捨てたわよ」
「もったいないなぁ」
彼女は笑って背中を向けながら、自動販売機にお金を投入し始めた。
その指が迷いなく、ピンクのパッケージの栄養ドリンクのボタンを押す。
「なぁに、疲れてるの?」
「そうよー。先月うちの中川さん、入院しちゃったじゃない? 友達の浮いた話でも聞いてないとやってられなーい」
ドリンクの瓶を拾い上げてから、お手上げのポーズをして見せるが、ふざけた態度と裏腹に彼女がその穴を埋めるために奮闘しているのが、生き生きとした表情から伝わってきた。
明るい話題提供になるくらいは、仕方ないか。
「お疲れさま。その調子で広めないでよね」
「わかってるって。じゃ、また今度女子会誘うね」
「はいはい」
そして、来たときと同じ勢いで去っていった。
そんなに噂話がしたかったのかしら。
不破とセット扱いされるのは、同じタイミングで同じ係に配属された瞬間からわかっていた。
その役割が、頭が機械のようによく回る代わりに、対人能力が壊滅的な不破のフォロー役であることもすぐに。
当時の係長は課長になった。
当時の先輩は係長になった。
新卒で使えなかった私を迎え入れてくれた優しい係。
いい人たち。かわいい後輩。
働きやすいのびのびとした職場環境。
なのにときどき、この顔と顔の繋がった、いつでも誰にでも手の届くような関係に、少しだけ疲弊する。
守り、守られる関係。助けられながらフォローする間柄。
困っているときにいつも何とかしてくれる人たちは、相手が困っているときには必ず手を差し伸べなければいけない相手でもある。
ビン缶用ゴミ箱に缶を二つ押し込み、ため息をついた。
捨てきれないところ、めんどくさいわ。
その後はさすがに真面目に仕事に励んだのだけれど、不破がファイルを取りに私の後ろを通るたびにこっちを見てる気配にはさすがに気付かないわけにはいかなかった。
それをぺこんちゃんが横目で見て取っているのも、加賀係長が咳払いをするのももうやめて!
なんとかするから!
終業時間早々にぐろちゃんが帰ってしまったので私の疑問は今日の内に解決せずに、持ち越しとなった。
仕事が大好きな不破はいつも通り残業。
ぺこんちゃんも珍しく真っ先に帰ったな、と何の気なしにデスクを眺めると、きれいに片付けられたデスクの上、私が座ったままじゃ見えない位置に置かれた、ある物を見つけた。
フィルムに包まれたままのお饅頭だ。
「――――というわけなの。でもよく考えたらぺこんちゃん、お昼休憩にお饅頭食べてたはずよ。これってどういうことなのかしら」
「ぺこんちゃんには、誰かがあげたってことじゃない?」
夜。ガラスのお猪口にお土産の地酒を注ぎながら、淳也に出張中と今日の出来事を話していた。
ふっくらと揚がったカジキの唐揚げを熱々のうちに頬張る。
「うう、おいしい!」
「うまいなー。仕事終わりにうまいもの食べてお酒飲んで気の合うやつと話して、ってできるのがやっぱり幸せだなって思うね」
「おもうおもう」
「まあ、まず飲み込みなよ」
もごもごする私を見て、淳也が落ち着いた声で促してくる。
感情に振り回されない穏やかな声がすごく好み。
対して私は、その日一日の感情が、夜のオフタイムに全部オープンになっちゃうタイプ。
だから余計に淳也の理性的なところに憧れるんじゃないかしら。
唐揚げを飲み込み、次いでお酒を楽しんでから話の続きに掛かる。
「うち、みんなお饅頭好きなのよ。それなのに食べないであげちゃうのかしら……」
「誰かがぺこんちゃんの気を引きたくてあげたのかもしれないよ」
淳也が口の端を上げながらお猪口に口を付けた。
ぺこんちゃんに喜んでもらいたくてあげたということなら、ぺこんちゃんが喜んでくれたら私も嬉しいのだけど……。
そこに引っ掛かりを覚えてしまう私は、性格が悪いのかしら。
「でも、みんなに喜んでもらいたかったのになって、ちょっとがっかりしちゃったわ」
「そうだね……。面白くない気がするだろうけど、貰った後どうするかはその人次第だから、難しいよね」
「それはそうなのよね。悪いことしてるわけでも粗末にしてるわけでもないんだけど、うー……」
食卓を荒らさない程度に顔を伏せて悩むと、私の頭が、ぽんぽんと撫でられる。
「律たちの係、すっごい仲良くていいことなんだけどさ、もう少し距離感置いてもいいかもしれないよ」
「うん……」
「律が、みんなで楽しく頑張ろうとしてるの、すごいわかるんだけどさ」
距離感。それは、私が昼間感じたものの正体なのかしら。
「ちょっと間違っちゃった?」
「側から見てると、近付き過ぎで衝突することもあるんじゃないかなって。俺なら、お饅頭を誰が食べてても気にならないくらいの関係のほうが、仕事する上ではやりやすいなって思うよ」
「そうかもしれないわ。淳也は、不破と私の距離が近いって気にしてる、わね?」
メールを思い出しておずおずと様子を見ると、淳也は気まずげに目線を逸らした。
「少しはね」
「……少しは?」
「うん、まあ、少しは嫌だなって思うよ。でも仕方ないことだしさ。ほら、食べなよ。どれ食べてもうまいよ。お酒にも合うし」
「そうね」
箸を動かし始めると、少し気分が上向く。
「淳也。やっぱり私、淳也がいやだなって思うようなことするの、いやだわ。明日は金曜日だもの。私、明日中に決着付けるわね」
「やっぱ気にする? でも俺、俺が律のこと好きだって理由で律を操作するのって、違うと思うんだ。律が俺を好きだってことに付け込んでるみたいで、卑怯だと思う。だから、あんなこと言っておいて今さらって思うかもしれないけど、律は好きなようにしていいんだからね」
この人のこういうところが最高にかっこいいと思う。
男の人はこんな包容力をいつの間に身につけてくるんだろう。
「私、淳也と付き合っててよかった」
「そう言ってくれる律と付き合えてて、俺もよかったって思ってるよ」
もう!
好き、好き!
こういうとき、淳也になんでもしてあげたくなる。
淳也がいやな気持ちにならないように、どんなことでも頑張りたくなる。
だから、私は戦うんだから!