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余興の話がひと段落したタイミングで、コースの前菜が運ばれてきた。
そのあとも美味しそうな料理が順番に運ばれてきて、テーブルの上を飾る。
私の前に運ばれてきた料理は瀬名さんがオーダーしてくれたおかげで、どれも少し量を減らしたものだった。
「和花、ゆっくり食べていいよ」
私の食事ペースはカメさん並に遅い。
量を少なくしてもらったにもかかわらず、瀬名さんの方が先に終わりそうな勢いだった。
私が一生懸命ペースを上げて食べていると、瀬名さんが苦笑いを浮かべながら言った。
「……大丈夫!」
「無理して急ぐことないから。焦らず食べて」
私は瀬名さんの言葉に小さく頷いた。
そのあとは食べるペースを落として、食事を進めた。
「……ちょっと失礼」
残りはあとデザートだけとなった時、瀬名さんのスマホが鳴った。
私はデザートのティラミスにスプーンを刺したまま、席を立ち遠ざかっていく瀬名さんの背を黙って見送った。
「ご馳走様でした……!」
私は瀬名さんがいなくなってからもティラミスを口に運ぶ作業をもくもくと続け、最後の一口を食べ終えた。
ふうう。と、一息吐く。
店内の混雑のピークも過ぎ、私たちの周りのテーブルには空席が目立つようになってきた。することがなくなりお水で喉を潤していると、私のスマホも鳴った。
「あ、ラインかも」
食事も終わり、瀬名さんが返ってくるのを待つだけになった私は、バッグからスマホを取り出し、差出人を確認した。
「あ、ケンちゃんだ……!」
可愛いクマのスタンプと、(ヤッホー、今何してる?)というメッセージが送られていた。
「えっと、友達と食事をしていました……と、送信!」
「和花、食事済んだ?」
「きゃッ」
瀬名さんに後ろから声をかけられ、私は飛び跳ねるように驚いてしまった。
慌てて振り向き笑顔を作る。
まだしばらく戻ってこないと思って、油断してた……。
「ご、ごめんなさい。 食事の席でスマホ操作、行儀悪いよね」
さっきの独り言、瀬名さんに聞かれちゃったかな……。
私はハラハラしながらも瀬名さんに笑顔を向け続けた。
「いや、和花ももう食事終わってたみたいだし、ごめん。俺が待たせてた んでしょ」
「ううん、大丈夫! それより、電話大丈夫? ……もう行かなくちゃいけないんじゃない?」
私は急いで話を変えた。
瀬名さんはアクティブに動き回る。だから、もうここを切り上げて次の予定に行きたいのかもしれないと思った。
「ちゃんと和花を送っていく時間はあるよ。出ようか」
瀬名さん、本当にこのあと予定があるんだ……。
私は笑みを顔に貼り付けつつ、席を立つ。瀬名さんは私に背を向け、お店の外へと向かった。
食事の会計は瀬名さんが私の分まで先に済ませていた。慌てて瀬名さんにお金を払おうとしたけれど受け取って貰えず、そのまま外へ行くようにと促されてしまった。
……自分の分は自分で払おうと思ってたのに。
瀬名さんはどんな時でも余裕があり、対応もスマートで誰にでも優しい。
私はいつもどこか抜けていて、彼の優しさについ、甘えていた。
それがいけなかったんだって、今なら分かるのに…。
私は瀬名さんにお礼をきちんと言ってから、彼の愛車、カイエンに乗り込んだ。
もうすぐ夜の十時。
道は空いていて、車は流れるように夜の街を走り抜けて行った。
瀬名さん、今からどこで誰と会うのかな……。
瀬名さんのプライベートが気になった。けど、聞かない。
……ううん、もう、聞けない。
この数ヶ月で瀬名さんに特別な人がいてもおかしくない。
前に進もうとお別れをしたのは私からだし、詮索なんてできる立場じゃない。
そう頭では分かっているつもりだった。けど、胸の中がなぜかモヤモヤして…苦しい。
頭を突き出して現れようとする感情を、私は上から心の奥深くへ静かに押し込む。
その感情の正体を直視する前に、私はもう出てこられないようにと急いで蓋をした。
……瀬名さんに会うの、ちょっと早かったかな。
静かな車内で私は、ふうっと静かに息を逃して、見慣れた外の景色を眺めた。
「実は今、家に猫がいて……」
外を見ていた私は、突然出てきた『猫』というキーワードに驚いた。
勢いよく振り返り、運転している瀬名さんの横顔を見た。
「明日からグアムに行く予定なんだ。それで知り合いの獣医に猫を預けに行かないといけなくて…電話はそいつから」
「猫! どんな子? 色は?」
猫を飼う瀬名さん。が、とても意外だった。
「……黒の子猫。尻尾が長くてイケメン」
尻尾が長い猫?
やだ…すっごく、私好みの猫っ!
私はあっという間にテンションがあがった。
「イケメンってことは、男の子? 瀬名さんが犬じゃなくて猫を飼うなんて、なんかビックリ! どうしたの?」
赤信号で車が停まる。
瀬名さんは私を見たあとクスッと笑って、また前を向いた。
「夜コンビニから出た瞬間、黒い物が足に纏わり付いてきたんだ。危うく踏みつけそうになったよ。すごく人懐っこい猫でね。そのあとずっと俺の後をついてきて…今里親探してるところ」
「本当に真っ黒なんだね。きっと可愛いんだろうなぁ」
動物はなんでも好きだけど、特に猫には目がない。しかも黒猫、子猫……! 尻尾が長いっ!
すると、前を見ていた瀬名さんが、また私に視線を移した。
「こっちの言っている意味も分かるみたいで賢いよ」
「えーっ、賢いんだっ! 素敵っ。会ってみたいっ!」
「いいよ。じゃあ今から見においで」
「うん。見に行くっ……えッ!?」
私の頭は黒猫でいっぱいだった。
考えるよりも先に即答していて、ウキウキと返事した後で気がついた。
黒猫ちゃんに会えるっ! と、嬉しくなって、大事なことが頭から抜け落ちていることに。
……瀬名さん、見においで。って言ったよね……。
それってつまり、今から瀬名さんのお家へ行くってこと?!
私を見つめる瀬名さんの目が細くなる。
信号が青に変わる。
瀬名さんはアクセルを踏み発進させると、私のアパートに向かっていた車をぐるっとUターンさせた。
「和花、どうぞ入って。散らかってるけど」
収まらない鼓動を落ち着かせようと、胸に手をあてたまま私は、瀬名さん宅へ足を踏み入れた。
瞬間、瀬名さんの家の懐かしい爽やかないい香りが鼻を掠めた。
「お邪魔します……」
広い玄関には瀬名さんの革靴が二つと、バッシュとフットサルシューズが無造作に置かれ、大きなキャリーケースが幅をきかせていた。
シューズはいつも車に乗せっ放しだったのに珍しいなと思いながら、私は靴を脱ぎ、瀬名さんの家に上がった。リビングへと続く長い廊下を歩く。
もう、ここには来ることはないって思っていた。なのに、今また訪れているのが不思議な感じだった。
今の現状に戸惑いながらもリビングに近づくと、にゃーにゃー鳴く子猫の声が聴こえてきた。
瀬名さんが廊下とリビングを仕切るドアを開けた瞬間、黒猫が飛び出してきた。
待望の対面に思わずわっと歓喜の声をあげた。
「リヅ。そっち行っちゃダメ」
「……リヅ?」
瀬名さんはひょいと猫を掴むと、胸のところで抱いた。
「そう。名前はコモリヅキ」
「え? もしかして……月の名前の、“小望月”?」
私が目を見開きながら聞き返すと、瀬名さんはふっと笑った。
「満月の前夜に拾ったからそう名付けた。ほら、眼が綺麗な黄色なんだ」
そう言って瀬名さんは猫の顔を私の方に向けて、眼を見せてくれた。
「本当、綺麗な眼をしてる!」
ぱちっと目が合って、胸がきゅんっとなった。
触ろうと思わず手を伸ばしたら、リヅは瀬名さんの肩へとよじ登り、逃げていく。
「痛い。リヅ。暴れるな」
「ごめん……! 猫ちゃんビックリさせちゃったね。大丈夫怖くないよ」
私は小声でリヅに話しかけた。
「和花、リビング入ってドアを閉めて。リヅが逃げないように」
「あ、はいっ」
言われた通りリビングに入ると、ドアを急いで閉めた。
振り向くと、瀬名さんが肩にしがみ付くリヅをベリっと引き離したところだった。
首根っこを持たれて大人しくなったリヅを、瀬名さんはそのまま私の手に乗せる。
「リヅくん、可愛いっ。ちっちゃいなぁ……」
リヅは私の両手にちょうど収まるほどの大きさだった。
大きな耳に、大きな目…可愛い!
長い尻尾だけが私の手からこぼれ落ちて、フリフリしている。
「毛並みも綺麗。本当真っ黒だね!」
胸元で抱きしめると、リヅは私の肩によじ登ろうとした。
「和花、大丈夫? 一応爪は切ってるけど、服痛めるよ」
「平気。わっ」
リヅはぴょんと飛んで、私の手から逃げてしまった。
「まだ三ヶ月くらいだろうって。ほらリヅおいで」
瀬名さんはリヅをまた捕まえようとした。するとリヅは瀬名さんの手を噛んだり猫パンチをして遊びはじめる。
リヅくん瀬名さんにとても懐いてる!
猫と遊んでいる瀬名さんが珍しくて、私の頬は自然に緩んだ。
しばらく瀬名さんの手に戯れたあとリヅは、素早い動きであっという間にソファと壁の隙間へ逃げてしまった。
「リヅくん、可愛いなぁ。活発で元気いっぱい!」
「人間の子供と一緒だよ。いたずらが遊び。見ていて飽きないよな」
尻尾をブワッと広げて興奮しながら暴れまわるリヅの行方を、瀬名さんは微笑みながら目で追う。
「…今から獣医さんところに預けに行くの?」
「そうだよ」
私はもう一度リヅを見た。
ソファの下から急に飛び出したり、引っ込んだり楽しそうに遊んでいる。
「……私、一週間ここに餌をあげにこようか?」
衝動的に、深く考えるより先に言葉が口からこぼれ落ちた。
「え?」
リヅを見ていた瀬名さんは私の申し出が意外だったらしく、振り向いた。
「あ、えっと……、瀬名さんが嫌じゃなければ。リヅくんここに慣れてるみたいだし、環境変えるよりその方が安心するんじゃないかなって思って……」
動物病院が決して過ごしにくい場所だとは思わない。
けど、瀬名さんのマンションの部屋はとにかく広いし、知らない場所よりリヅ君はここにいる方がのびのびと過ごせるんじゃないかな……。
瀬名さんは私からリヅの方へ再び視線を戻す。
遊びまわる姿をしばらく見つめた後、私を見てにこりと笑った。
「そうだな。その方がリヅにはいいね。和花に世話、お願いしていい?」
「もちろんいいよ!」
黒猫を飼うのは小さい頃からの夢だった。
瀬名さんのいない間の期限付きだけど、その夢が叶う!
私はウキウキしながらリヅの世話について、瀬名さんに質問した。
「餌とリヅ君のトイレはどうしたらいい?」
「リヅの餌はキッチンの食品庫と冷蔵庫にある。あと、トイレの砂はこっち。世話していく上で必要なものは自由に使っていいから」
瀬名さんの家の間取りや何がどこにあるのかなどは、だいたいわかる。
彼がいなくても余裕でやれると思った。
「……そういえばグアムには観光?」
一通り説明を聞いたあと、玄関に置いてあったキャリーケースを思い出して聞いた。
「観光じゃなくて、サーフィン。現地に住む友人に呼ばれたんだ。人に知られてない穴場スポットを紹介してくれるって」
「へぇ。いい波あるといいね!」
「定期的にいい波が来るらしい。しかもハワイより人が少なくて貸切状態だって。サーフィンが目的でグアムに行くの初めてだから、結構期待してる」
あ、表情が変わった……。
瀬名さんは普段何事にもクールだけど、サーフィンや趣味の話になると、ちょっとだけ砕けた表情になる。
楽しそうに話す瀬名さんを私は微笑みながら見つめた。
仕事と遊びが何より大事で生きがいの瀬名さんは、スポーツが特に好きで、サーフィンの他にフットサルやバスケが上手。
趣味は他にもまだあって、映画鑑賞や読書もよくしてる。
旅行も好きで、一、二カ月に一度、ふらりと旅に出てしまう。
瀬名さんはやりたいことをやるために時間をうまく操れる器用な人。
数年前、大学を出たばかりの私には、自由に生きる瀬名さんとの出会いはとても衝撃的だった。
私は直ぐに彼に惹かれ、あっという間に魅力され夢中になってしまった。
……でも、それはもう、過去のこと……。
「和花」
「……な、なに?!」
不意に瀬名さんが真剣な表情で私の顔を覗き込んできて、ドキっとした。
瀬名さんとの距離が必要以上に近くなって、慌てて一歩後ろへ下がる。
「髪の毛にゴミが付いてる。ちょっと動かないで」
「え……」
私が反応を返す前に、瀬名さんの手が私の髪に触れた。
胸がどきどきして、すごい音を奏で始めていた。
すぐ目の前に瀬名さんの胸が合って、私は目のやり場に困ってしまった。
「……取れた。これ、たぶんリヅのおもちゃの…羽かな?」
ゴミを取り終えた瀬名さんは、私に見せながら微笑んで言った。
「ピンクの羽? いつの間に頭に付いたんだろ…」
「あ、和花待って、まだ付いてる」
そう言うと、瀬名さんの手が再び私の髪に触れた。
思わずぴくっと私の肩は跳ねてしまった。
瀬名さんは特に気にすることなく、無言で私の髪に触れる。
さらに胸がバクバク鳴り響き、呼吸が苦しくなった。
う、わあ……。どうしよう、この空気。
もう、限界かも!
「あのっ。もう夜も遅いし、私そろそろ帰るね!」
私はパッと顔をあげて瀬名さんに言った。
今日は猫ちゃんを見に来ただけ。だから、早く瀬名さんの前から立ち去らないと……じゃないと私、勘違いしてしまいそう!
「ああ、そうだね。家まで送っていくよ。でもまだ待って。もうちょっとでゴミ取れそうだから」
「わっ!」
急に瀬名さんは両手で私の頭を押さえて固定した。
ぐっと瀬名さんの顔が近づく。
私はあまりの至近距離にたまらず目をぎゅっと閉じた。
「……ん。取れたよ」
しばらくして、髪を触っている気配がなくなった。目をゆっくり開けると瀬名さんはすでに私の前から立ち去っていた。
車のキーを持って瀬名さんは玄関へと向かう。
「待って!」
私は彼の背を慌てて追った。
私は玄関で瀬名さんの足に纏わりつくリヅにお別れの挨拶をすると、マンションを後にした。
車内ではほとんど沈黙で過ごし、十数分ほど車を走らせると、私のアパートが見えてきた。
瀬名さんはアパートの階段前の路肩に車を停める。
私が外に出ると、瀬名さんも外に出てきた。
夜なのに気温は高いままで、湿気を含んだ空気が私たちに纏わりつく。
私はゆっくり夜空を仰いだ。
十六夜の月が浮かんでいるはずだと思って。
「月、見えない」
誰かに聞かせるつもりはなくて、私は小さく呟いた。
残念ながら厚い雲のベールが、頭上の丸い月と星々を覆い隠している。
「明日は雨だって」
瀬名さんは私の小さな声を拾って答えてくれた。
私は仰ぎ見るのを止めて、瀬名さんの方へ視線を向ける。
「リヅのことは任せて。瀬名さんはサーフィン楽しんできてね」
カイエンにもたれ掛けていた瀬名さんは、フッと笑った。
「うん。リヅをよろしく。何かあったらいつでも連絡して」
「うん、わかった」
私は明るい声で答えた。
「お土産買ってくるよ。ココナッツの実、丸々とかどう?」
「……いらない。もっと普通のものがいいかな」
瀬名さんは「はは」と笑うと、ゆっくりと上着の内ポケットから煙草の箱を取り出した。
「わかったよ。期待してて」
目を細め、優しく笑う。
「それじゃあもう行くね。……おやすみ」
「おやすみ」
私はぱっと勢いよく瀬名さんに背を向けると、音を立てないように気をつけながら、アパートの階段を一気に駆け上がる。
二階にたどり着くとすぐに振り返った。
瀬名さんは丁度煙草に火を点け終えたところだった。カチッとジッポの閉じる音が、夜の静けさのおかげで私のところまで届く。
煙草の火の色が一際強くなった。
瀬名さんは仕事中、煙草を吸わないと決めているらしい。
理由は嫌いなお客さんもいるからで、突然の呼び出しもない匂いがスーツに移ってもいい夜中、全てが終わった時にだけ数本吸う。
瀬名さんの煙草は、今日の務めはこの後もうないという合図だった。
そばの街路灯に照らされながら、瀬名さんは煙草を燻らせ私を見上げている。
深夜だから声を出さずに私は瀬名さんに向かって手を振り、ジェスチャーで合図を送る。
煙草は、一本、だけだよ。
人差し指を立て、口パクで言ったら、瀬名さんは頭を小さく縦に振った。
昔と変わらないやり取りに思わず……心があたたかくなった。
笑顔で手を振ってから瀬名さんに背を向ける。
私は過去を振り切るように、自分の部屋へと駆け込んだ。