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しっかりしなくちゃいけない。そう思った。
「……明日は結婚式当日で、フラッシュモブ本番! するべきことしっかり!」
浮つく気持ちに喝を入れるように、両手で自分のほっぺたをぱちんと叩いた。
踊りのふりをもう一度確認しよう。そう思いたった時、ドアフォンのチャイムが鳴った。
瀬名さんが戻って来たのかと思い、胸が跳ねた。そろりとドアを開ける。
来訪者は瀬名さんではなく、ケンちゃんだった。
「……ケンちゃん? どうしたの!?」
まさかこんな時間にケンちゃんが家に来るなんて思ってもいなかった。激しく動揺して、胸がばくばくと忙しくなった。
「…さっきまで、裕哉たちと飲んでて、今、美樹さんの部屋にみんないる」
「あ、そうなの!?」
「酒が切れて、買い出しついでに和花ちゃん、連絡つかないから呼びに来たんだけど……」
「ごめんなさい……! そういえば、スマホマナーモードにしたままかも。あ、待ってて。すぐ私も美樹の部屋へ行……」
「もしかして、さっきまで元カレさんと一緒だった?」
私は目を見開き固まった。
ケンちゃんは無理して平静を装い、笑顔を取り繕っている。
嘘……。瀬名さんといるところ、ケンちゃんに見られたの?
「コンビニから歩いて帰ってたら、カッコいい車が前方から来てね、運転手見たら元彼さんだった。……連絡つかなかったのはその人と一緒だったから?」
「うん。さっきまで一緒だった」
私は正直に打ち明けた。
「……そっか。あ、和花ちゃん、こないだから言ってた話ってなに? 今、聞かせてもらえる?」
「……うん。いいよ」
胸の苦しみを抑えてケンちゃんに微笑んだ。
「じゃ、お邪魔していい?」
ケンちゃんは玄関ドアから一歩、中に入って来た。
その瞬間、リヅが「シャーッ!!」っと、怖い声で威嚇した。
「ごめん、うちの猫が失礼なことを……!ケンちゃん動かないで。それ以上入らないで」
リヅはケンちゃんを警戒して、睨みつけ、うーっと唸ったり、シャーっシャーと鳴き続けている。
「……おかしいな、美樹や雅とは初対面の時に怒らなかったのに……ごめん。話は外でいい? 近くに公園あるから」
「和花ちゃんの部屋に入るチャンスだと思ったのに。残念だな……」
「ごめんね」
近くの公園にはほほとんど遊具らしい遊具がない。ジャングルジムと滑り台、てつぼうがあるだけで、手入れもあまり行き届いていない。
残暑も和らいできたけど、まだ虫だっている。
なるべく木と街頭から遠い、開けたベンチにケンちゃんと並んで座った。
「ケンちゃん、あのね、話なんだけど……」
「話って、元カレのこと?」
話し始めるとケンちゃんが遮るようにはっきりとした口調で言った。
顔は珍しく神妙で少し険しい。
私はなるべく穏やかに笑ってケンちゃんを見た。
「……ううん。違う。瀬名さんの話じゃなくて、ケンちゃんの話」
「……俺?」
ケンちゃんは険しい顔からきょとんとした顔になった。
私はすっと息を吸うと、ゆっくり話し始めた。
「ねえケンちゃん、私と出会った頃のこと、覚えてる?」
「覚えてるよ。ほんの数カ月前だから。夏になる少し前?」
「うん。この夏はケンちゃんといっぱいデートして海にも行けたし、たくさん楽しい思い出ができた。本当に楽しかった。ありがとう」
「俺も楽しかったよ。今までの、どの夏よりも。最高だった」
ケンちゃんはいつものように優しい顔になって本当に楽しそうに言った。
「私ね、ケンちゃんの隣はとても和むし、一緒にいて心が落ち着いたの。安心できて楽しくて。ケンちゃんは優しくて、誠実で、真っすぐ真面目で、私は何度も心から笑うことができた」
心を込めて、なるべくゆっくり明るい声を心がけて、話した。
「和花ちゃんが心から笑ってくれていたのならよかった」
ケンちゃんもいつものように穏やかに喋ってくれた。
私はそんなケンちゃんを見て、胸の奥がちりちりと痛んだ。けれど、それを笑顔で消して話を進めた。
「ケンちゃんは私にストレートに気持ちを打ち明けてくれたでしょ。とても嬉しかった。私は会う度にどんどんケンちゃんに惹かれていったの。……このまま時を一緒に重ねていけたら私は幸せになれるかもしれないって、本当にそう思った」
私が想いを伝えると、ケンちゃんは真剣な表情を覗かせた。
「俺ね、最初のデートの時にも言ったけど、和花ちゃんを幸せにする自信、あるよ。いっぱい笑わせる自信もある。何年も何十年たってもそばで君を守りたいって心から想ってる。この気持ちはだれにも負けねえ。瀬名にも、絶対負けねえ!」
「ケンちゃん……」
想いが乗った、力強い、言葉だった。
「好き。和花ちゃんのことが、大好きだ。きっと君を幸せにする。その自信はある」
私はケンちゃんの真摯な瞳に、胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
目頭が熱くて思わずケンちゃんから視線を逸らす。でも、ここで泣いたら卑怯だと思い、涙がこぼれないように堪えた。
呼吸を整える。気持ちも整えてから私はゆっくり言葉を紡いだ。
「私ね、自分にずっと自信がなかったの」
「……自分に自信? 和花ちゃんが?」
「うん。自分で自覚があるんだけど、大学卒業するまで私は両親に大切にされ、世間知らずの箱入り娘だった。家の跡継ぎとして、お茶の作法しか学んでこなかったの」
そこで言葉を切って、すっと深呼吸する。
「進路はずっと考える必要がなかった。親や周りが決めて、私はそれに従うだけ。だけど、世間は……社会はそうはいかないでしょ。自分の意思を伝えないといけない場面が何度もあって……。それでも私はどうしても自分の意見が言えなくて、流されて、へこんで自己嫌悪していくばかりだった」
ケンちゃんは黙って私の話に耳を傾け続けてくれた。
「ケンちゃんは、人の意見を素直に聞けるのは私の優しさだって前に言ったよね。自分を押し殺すことができて、周りを思いやれるのは私の魅力だって。それね、違うの。私はそんないい子なんかじゃない。ただ、衝突が嫌で争うことから避けて逃げていただけなの。人と向き合うのが怖かっただけ」
「……誰だって、嫌なことからは逃げる。傷つくことから逃げるのは卑怯とは思わない。正当な自己防衛だ。和花ちゃんのそれは当たり前だよ。別に恥じることも、自己嫌悪になる必要もない」
私はケンちゃんの言葉に薄く笑うと、小さく首を左右に振った。
「私はね、その当たり前が許せなかった。変わりたいの。もっと……」
「和花ちゃんは変わる必要ない。今のままでも十分魅力的で可愛いよ。そんなに頑張らないで、無理しなくていい。今の和花ちゃんを俺は受け止められる。大事にできる。一生愛せる!」
ケンちゃんは私の手を包み込むように両手で握った。
「絶対幸せにする。約束する。和花ちゃんを日本一、いや、世界一、宇宙一、幸せにするよ! 俺の全身全霊をかけて、誓う……!!」
真っすぐな言葉はしっかりと私の胸に届いた。
ここまで想ってくれる彼に、感謝の気持ちでいっぱいになった。
「俺と、結婚前提で付き合ってください」
ここで泣いたらダメ。……泣かない。
私は下を向き、ケンちゃんの手の中、ぐっと握り拳を作った。
深呼吸をもう一度ゆっくりとして、それから顔をあげて、しっかりとケンちゃんの目を見た。
「ケンちゃん、ありがとう。だけどごめんなさい」
笑うことはできない。泣くこともできない。
真っすぐケンちゃんの目をただ、見つめた。
「ケンちゃんの気持ちは本当に嬉しい。でも。私は幸せにして欲しいんじゃないの。お付き合いは……できません」
「……え? 幸せになりたくないの?」
「ううん。幸せにはなりたいよ。……その幸せはね、自分の手でつかみたいの」
私は困惑するケンちゃんに優しく微笑んだ。
「結婚前提が、重たかった? それともやっぱり、元カレが……」
「うん。瀬名さんが好き」
私ははっきりとケンちゃんに言った。おかげで、ケンちゃんは目を丸くして固まった。
「瀬名さんはね、変わろうとする私を助けてくれるんじゃなくて応援して、見守ってくれる人なの。どうしたらいいって聞くと、人と向き合うことを恐れる私に逃げるな向き合えって言える人。自分の意見を人に言っていいんだよって。私ね、瀬名さんみたいになりたいの。自分の気持ちを誤魔化さずに彼みたいに自由になりたい。逃げているうちは自由になれないから……」
「瀬名さんのようになりたい……のか」
ケンちゃんは肩を落として言った。
「……ケンちゃんと付き合えば、絶対幸せになれると思う。でも……それじゃ、私は自分の気持ちを偽り続けることになる。実家にいた時と何も変わらない。
瀬名さんのように本当の意味で自由にはなれない。だから……ごめんなさい。私はケンちゃんの気持ちに答えることができません」
私はゆっくり伝わるように誠意を込めて言った。
「俺じゃ、ダメってことか……」
その言葉に私は何も答えることができなかった。
私たちが黙ってしまうと、代わりに小さな秋の虫たちが、鳴き始める。
公園中に綺麗な音を響かせる。
「…………あーーーっ!」
突然ケンちゃんは頭を抱えて叫んだ。
「やっぱり俺は、優し人、いい人止まりかあああッ!!」
「け、ケンちゃん……?!」
ケンちゃんの大声に私は慌てた。
「くそー、ちくしょう! 完全に俺の負けだ…! あー俺、何やってんだろ!」
「ケンちゃん。落ち着いて! もう夜中だからお願い声を抑えて……」
ケンちゃんはハッとなって、電池が切れたように急に静かになると、ベンチに座った。
「……ケンちゃん。大丈夫?」
私はそっと近寄り、声をかけた。
「…あんまり大丈夫じゃない…」
「本当に、ごめんなさい……」
ケンちゃんは、しばらくしてふっと笑った。
「いや、俺が完全に力が及ばなかっただけだから。和花ちゃんを振り向かせるチャンス、俺、いっぱいもらったのにな。自分が不甲斐なくて……ごめん、叫んで悪かった。驚かせたね」
「ううん。私が自分の気持ちを見ようとしなかったのがいけなかったの。ケンちゃんの優しさに甘えた私が悪かったの、本当にごめんなさい」
深々とケンちゃんに向かって頭を下げた。
「……あーあ、俺、酔い、すっかり醒めちった」
ケンちゃんはふらりと立ち上がった。
「俺は君の魅力に完全に酔っていた」
「……えっ、と……?」
目をぱちぱちさせながら私はケンちゃんを見た。
「初めての美酒に酔いしれて、本質を見抜けてなかったんだな……。なんていうか、ワインで言うと赤を白と思い込んで旨いと飲んで自慢していたというか……」
「どういうこと……?」
私が首を傾げるとケンちゃんはまたふっと力なく笑った。
「赤ブドウなのか、白ブドウなのか。見分けがつかない馬鹿野郎ってこと。ごめんね、和花ちゃん。赤を白と押し付けて……」
「……よく、わからないけど、私は大丈夫。だからお願いそんなに落ち込まないで? ケンちゃんは十分今のままでも魅力的だから」
「はは。俺が和花ちゃんに言ったこと、そのまま言われてる」
私はなんて言ったらいいのか分からなくなって言葉を止めた。
「……戻ろうか。もう……分かったから。悔しいけどね」
「ケンちゃん」
私はケンちゃんの前で姿勢を正すと、もう一度深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
心を込めてケンちゃんに伝えた。
「…最後に…。握手してもらっていい?」
ケンちゃんはいつものようににっと笑って、手を差し出してきた。
「西森和花さん、俺は本当に君のことが好きでした。これからはよき友達として……よろしく」
私が驚いて戸惑っていると、ケンちゃんは優しく、でも目は真剣に私を見て言った。
「このまま和花ちゃんと気まずくなってさよならなんてしたくない。パートナーとしてではないけど、これからも和花ちゃんと繋がっていたい。和花ちゃんが嫌じゃなければだけど……」
ケンちゃんは少し自信なさげに笑った。
「私と、これからも友達でいてくれるの?」
「もちろん!」
ケンちゃんははっきりと答えてくれた。
私はケンちゃんに責められても仕方ないと思っていた。それなのに彼は縁を切るどころかこれからも友達でいてくれるという。
ケンちゃんの優しさに私は最後まで助けらてしまった。
その優しさに、胸に熱いものが込み上げて、また泣きそうになった。
「……ケンちゃん、ありがとう。こちらこそこれからもよろしくお願いします」
涙を堪えて微笑むと、私はゆっくりケンちゃんの手を握った。