** 14 **
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「ミッション終了ね。ありがとう和花。明日よろしくね」
「ミッション? そう考えるとなんか楽しいね」
空がぐっと高く澄み渡り、日に日に秋めいていく。
ずっと楽しみにしていた菜桜子さんの結婚式がついに明日と迫っていた。
式前日である今日、私は菜桜子さんと夜七時過ぎ待ち合わせて、例の“余興の手伝い”をした。
待ち合わせした場所は近くのスポーツ施設。体育館とジム、野球グラウンドやテニスコートなど、様々な競技ができるスポーツの総合施設で、敷地はとても広い。
ここを余興の打ち合わせ場所に指定してきたのは菜桜子さんなのだけれど……。
「京介と瀬名くん、今頃フットサルしてるよ。覗いて行かない?」
用事が済むなり菜桜子さんは、にこりと微笑み私を誘った。
「……そんな予感がしたの。二人、ここにいるんですね……」
瀬名さんが近くにいる。そう思うと私の胸は正直で、トクトクと鼓動を早めた。
今いる場所は室内施設の憩いの場所で目の前にはジムへの入り口、そして自販機やベンチがあった。屋外用フットサルコートがあるグラウンドはここからじゃ建物の陰で見ることができない。
「余興のこと二人には内緒なのに、ここで打ち合わせするなんて菜桜子さん、大胆ですね……!」
「大丈夫! バレないって!」
見えないとはいっても近いことに変わりなく、私が驚いて言うと奈桜子さんは朗らかに笑った。
「ねえ、ここまで来たんだし、一緒に見て行こうよ」
「だけど……」
自分の気持ちを再確認し、女子会で前に進むと決めたものの、私はまだ瀬名さんに会いたくなかった。
「ついでに京介に渡したいものがあるのよ。ね、寄るだけ寄ろうよ。前みたいに。京介も……瀬名くんも和花が顔だしたら喜ぶと思うよ?」
以前はよく菜桜子さんと二人で試合を見に行った。でも、瀬名さんと別れてから一度も私は顔を出していなかった。
二人が喜ぶかどうかは分からないけれど、久しぶりに二人のフットサルの様子、見たい……。
「……分かりました。行く」
しばらく考えてから私は、こくりと頷いた。
「よし。そうこなくっちゃ! じゃあ今から行、……」
「奈桜子さんちょっと待って!」
早速フットサルコートへ向かおうとする奈桜子さんの腕を、私はつかんで引き止めた。
「……私はこっそり覗くだけにしたいの。いいかな?」
「……なんで?!」
「それと!……菜桜子さんに聞いてもらいたいことがあるんだけどいい?」
私は言葉を遮って言った。
奈桜子さんは一瞬きょとんとしたけれど、「いいよ。なに?」と微笑んだ。
つかんでいた腕を離すと、一呼吸置いてから私は口を開いた。
「瀬名さんのことです」
菜桜子さんの表情が瞬間変わった。真剣な瞳を向けられ、私も同じようにまっすぐ返す。
私はそのまま奈桜子さんに、ありのままの今の私の気持ちを素直に打ち明けた。
「……――そっか。和花、瀬名くんのことまだ好きだったんだね」
話を聞き終えた奈桜子さんは、優しい瞳を向けてくれた。
「うん。ごめんなさい」
私はなんだか申し訳なくて、深く頭を下げる。
「謝ることないよ。私はむしろ良かったというのが本音。……それで、瀬名さんに気持ちはもう伝えたの?」
「それはまだ。……ケンちゃんとのことをちゃんとしてからと思ってるの」
奈桜子さんの明るい声に対して私は低い声で答えた。
ケンちゃんに今の正直な気持ちを伝える。それがまず先に私がするべきことだと思った。
伝えたことで怒るかもしれないし、嫌われるかもしれない。
けれど、優しく誠実だったケンちゃんに対しては私も、出来る限り誠実でありたい。
「……そうだよね。自分の交際の返事の前に、元彼と付き合いだしたって知ったらショックよね……」
私はもう一度こくりと頷いた。
「……正直、瀬名さんと復縁できる自信はないけれど、好きな気持ちはもう変わらないって、わかったから……」
奈桜子さんは私の言葉に優しく微笑みを返してくれた。
「和花ちゃんは、その、ケンちゃんって人に、ずっと待っててもらったのに、結果気持ちに答えてあげられなくて心苦しく思っているんだね」
「はい。でも、その苦しみから自分が楽になりたいとかじゃないの。ただ、少しでもケンちゃんを傷つけずに伝えられたらなって思って……」
それでも結局、あの優しいケンちゃんを傷つけることには変わりないのかもしれないけれど……。
待たせ、期待を持たせるように何度もデートしたことについて私は、とても申し訳なく思っていた。
「謝るのなら、なるべく早く。電話やメールではなくて直接言いたい。それが筋と言うか……、自分のことよりケンちゃんを優先したいの。ケンちゃんといたこの数ヶ月間は本当に楽しかったから。その感謝の気持ちだけはちゃんと伝えたい」
私は微笑みながら奈桜子さんを見た。
「ただ、ケンちゃん今予定が詰まっているみたいで会えなくて……。まだ気持ち伝えられていないから、それまで瀬名さんと明日の披露宴以外では会わない方がいいと思うの。だから……ちょっと、覗くだけで止めておきたい」
「……なるほど。そういうことね。わかったわ。じゃあ和花ちゃんは今日覗くだけね」
奈桜子さんは私の気持ちをくみ取ってくれて、微笑むと頷いた。
「……――あ、居た! お。今試合してるんじゃない?」
話がまとまるなりすぐに私たちは、フットサルコートに移動した。
道具をしまう倉庫の物陰とフェンス越しにコートを覗き込む。
夜間照明の下、数人の男の人がコート内を走り回って練習試合をしているのが見えた。
瀬名さんだ……!
ボールを蹴り追いかける瀬名さんの楽しそうな表情を久しぶりに見て、胸に熱いものが込み上げてくる。
「……もう、こうやって瀬名さんを見ることはないと思ってた。遠いけど、また見ることが出来て嬉しい。……菜桜子さん、誘ってくれてありがとう」
横にいる彼女に向かって微笑んで言った。
「私はただ連れてきただけだけどね。次はもっと近くで見られたらいいね」
「……うん」
「あれ? しかもなんか今京介と瀬名君、チーム分かれてない?」
私が感慨深く瀬名さんを見ていると、奈桜子さんが興奮した様子で話しかけてきた。
「……ほんと、チームが違う!」
瀬名さんの前に急に京介さんが現れた。進路を塞ぎマッチアップ、二人の駆け引きが始まった。その様子を私と菜桜子さんは食い入るように見つめた。
京介さんはフェイントを使って追い抜こうとする瀬名さんを読んで、ボールを奪いに行こうとした。だけどなかなか奪えない。瀬名さんはタイミングを図り強引に突破しようと前に動いた。
「わっ!?」
だけど、それすらフェイントだった。
京介さんが瀬名さんの方へ深く入り込んだ瞬間、瀬名さんはふわりと後方にパス。ボールをノーマークで受け取った瀬名さんのチームメイトはそのままドリブルをしてシュートを放った。
力強く放たれたシュートはゴレイロが体を張って弾いた。
シュートは失敗し、ゴールできずにボールは転がる。そこへ瀬名さんが現れ再びシュート、態勢をまだ崩したままのゴレイロの横を抜き、ボールは勢いよくネットに食い込んだ。
うわあ、瀬名さん、かっこいいっ……!
「あーっ! 瀬名さんにゴール決められた!」
瀬名さんの活躍に胸をときめかせていると、隣にいた菜桜子さんが悔しそうに叫んだ。
「瀬名さん運動神経いいなあ。京介、翻弄されちゃってるし」
少し興奮した様子で菜桜子さんが言うものだから、私は困った表情を作って言った。
「菜桜子さん、あまり騒ぐと二人に気付かれる……」
「あ、ごめん。あ、見て! 今度は京介がドリブルしてる!」
菜桜子さんの声に反応して私は再び、フィールドの方へ顔を向けた。
それからしばらく私と菜桜子さんは立ったまま試合を観戦した。
菜桜子さんは京介さんを、私は瀬名さんを目で追いかける。
瀬名さんのシュートを外した時の悔しそうな表情や、楽しそうに笑ってプレーを続ける姿を私は、恋を知ったばかりの中学生のように、ドキドキしながら見つめ続けた。
「……――京介にタオルと着替え、届けてくるね」
「うん。じゃあ私はさっきいたトレーニングジムの前で待ってる」
練習が終わり、みんながストレッチをしている。私は瀬名さんに来ていることがばれないように早々にその場から離れることにした。
スポーツ施設内にある大きな駐車場はグラウンドを挟んで向こう側にあった。
施設の営業は二十二時までで、菜桜子さんが京介さんと会っている間さっき余興の打ち合わせをした場所で時間を潰し、そのあと再び合流して、車で来ている菜桜子さんに家まで送ってもらう予定だった。
「九時前……か。リヅ、一人で大丈夫かな」
リヅはすっかり元気になって、相変わらず食欲旺盛。だけど甘えん坊のリヅのことだから寂しがっていないか心配で、最近はなるべく家を空けないようにしていた。
菜桜子さんが帰って来たら、速攻送ってもらおう。
そう思いながら、自販機の前に移動する。
お金を入れると商品のボタンが一斉に青く光った。十数種類ある飲み物を指さしながら順番に見ていく。
「何飲もうかな……。お茶、それとも、……」
「俺は汗かいたからスポーツドリンク」
ピッと音がなって、次にガジャンと自販機の取り出し口にジュースが落ちた。
私は、お茶のボタンを指したまま固まった。
「珍しいね。和花がここにいるの。ポカリいただきます」
そう言うと、瀬名さんはペットボトルを手に取って微笑んだ。
「なッ、何で……」
瀬名さんがいるの?!
どうしよう。会わないようにしてたのに!
胸がバクバクと鳴り始め、緊張が私の全身を一瞬で駆け抜けた。
右隣に瀬名さんが居て、全神経が右側に集中する。
「…お茶、買わないの?」
「え……あ、うん、そうだね……」
自分でも分かるくらい指をプルプルさせて、私はお茶のボタンを押した。
さっきと同じようにガシャンと音が鳴る。しゃがみこみ、取り出し口に手を伸ばした。
「リヅ、元気?」
「リヅ!?……うん、元気だよ。こないだはありがとう……本当に、助かりました」
自販機からお茶のペットボトルを取り出した私は瀬名さんを見上げ、何とか笑顔を浮かべて言った。
「あの日からずっと心配してたんだ。元気でよかった」
「え? あ、ごめん……!」
しまった!
そうだよね。瀬名さんならリヅのこと、気にかけてくれるよね。
リヅのことはあの後すぐ、お世話になりました。の短文メッセージしか送っていない。
元気だよって、進捗を送らなかったのは失敗。連絡するべきところ……!
自分の気持ちに自覚したことでいっぱいになってしまい、瀬名さんへの配慮を欠いていたことに今頃気が付いた。
急に夜呼び出して病院まで送ってもらいながら、まだちゃんとしたお礼もしていないなんて、私、最低すぎる……!
「また、困ったことがあったらいつでも言って」
申し訳ない気持ちでいっぱいにしている私に向かって、瀬名さんはさらに微笑んでくれた。
責めたりせず助けてくれようとしてくれる瀬名さんに、私の胸はトクンと正直に反応する。
うわぁ……。私今、顔、赤いかも……!
瀬名さんの優しさに喜んでいる場合じゃないのに!
私は隠すように深々と頭を下げた。
「ありがと……ございます。こないだのお礼は必ずします!」
下を向いたまま瀬名さんに誓いを立てる。
……早急になにか、お礼を考えなくちゃ!
「お礼は別にいいよ。大したことしてない」
「ううん、させて! 今更かもしれないけど……」
私はぱっと頭を上げた。
瀬名さんはスポーツした後なのに疲れている様子もなくクールな表情だった。私の言葉を受けて一瞬腕時計を見てからもう一度私を見た。そしてにっと笑った。
「じゃあ、一個だけいい?」
「一個? なに?」
瀬名さんがおねだりするのは珍しく、何を言われるのか想像できない。私は彼をまっすぐ見つめた。
瀬名さんは落ち着いた声で言った。
「今すぐリヅに会いたい。こないだから会ってないし元気な姿、見せて」
「え。……今、から?」
私は目を思いっきり見開いて、後ずさった。
「うん」
瀬名さんは表情乏しいままこくりと頷いた。
「えっと、それは……急すぎて準備が……」
心が汗をかき始める。後ずさった場所でお茶のペットボトルを握りしめ、私は固まった。
「なんの準備?」
瀬名さんが不思議そうな目で少し首を傾げ私を見る。
ど、どうしよう!?
今から瀬名さんを家に連れて行くなんて……とても想定外すぎる……!
心の準備が、間に合ってません……!
「……部屋、が……片付いてなくて、その……」
どうしたらいいか分からず、とりあえず頭に浮かぶ言葉を発した。
ケンちゃんのこととか、自分のこととか、まだ何も出来ていないのに……!
でも、瀬名さんにはとても世話になった。リヅを見たいっていうのを断るのも悪い……。
「ああ、リヅが暴れまわってるとか? 別にいいよ。片付け手伝うし……」
「それはダメ! 瀬名さんに片付け手伝わせたら、お礼にならない!」
「変なところで律儀」
瀬名さんはくすっと笑った。
「じゃあ片付けはしない。リヅに会うだけだから」
「でも……!」
リヅに会わせるべき? それとも断るべき?
そもそもリヅに会わせることがお礼になるの?
あれこれ考えていると頭から湯気が出そうになった。その時、タイミングよくバッグに入れていた私のスマホが鳴った。陽気なメロディーが瀬名さんと私の間で鳴り響く。
「電話出たら?」
「……うん」
私はわたわたしながら封を切っていないペットボトルをバッグにしまい、代わりにスマホを取り出して、通話ボタンをタップした。
「……もしもし、菜桜子さん!?」
『和花、遅くなってごめん。実はね、京介、瀬名さんと今日一緒に来たらしいんだけど、その瀬名さんが居なくて……』
「瀬名さん……?」
……なら、今目の前にいる。そう思ってちらっと正面を見た。
「貸して」
「わッ……?!」
瀬名さんは目が合うなりスマホを私の手から簡単に奪った。
「菜桜子? 俺、瀬名。……うん。そう、今和花といる。ああ、そう……」
瀬名さんは菜桜子さんと電話しながらちらりと私を見た。
「いや、別に合流する必要ないだろ。菜桜子はそのまま京介連れて帰って。明日は式なんだし、二人共もう帰ってゆっくりした方がいい。和花は俺が送るから」
「ええッ!?」
私は驚いて目を見開き、瀬名さんを見た。
「じゃ、また明日」
私のスマホなのに瀬名さんは、そのまま勝手に通話を終えてしまった。
「京介の家と和花の家反対方向だろ。今からリヅを見に行くんだし和花は俺が送っていくよ」
瀬名さんは私の手にスマホを戻しながら淡々と言った。
私の背に触れ、スポーツ施設から出て行くよう促す。
「瀬名さん、ちょっと待って。あの……」
「……俺が送っていくと彼氏が妬くとか?」
「彼氏? 違う!」
反射的に強く答えていた。首を何度も横に振る。
「……ケンちゃんは、彼氏じゃない」
瀬名さんはじっと私を見つめてきた。
「俺が和花を家まで送って、ついでにリヅの顔を見て行ってもいいよね?」
私はスマホをぎゅっと握りしめながら考えた。
胸がトクンとクンと高鳴る。
……ケンちゃん、ごめん。
ちゃんとケンちゃんと話してからだと思っていたんだけれど、……ごめんなさい。
私はしばらく悩んでから、ゆっくり頷いた。
「駐車場遠いけど、一緒に歩いて行こう」
瀬名さんは私の手を取り、歩き出した。
二人で一緒に建物から出て駐車場へ向かう。
久しぶりに繋いだ手から瀬名さんの体温が伝わってくる。私の胸は甘さとともに締め付けたれて、しびれたように熱い。心臓は高鳴り続けていた。
……珍しい。付き合っていたときは、瀬名さんから手を繋いでくることなんてなかったのに……。
駐車場に着くまでの間、瀬名さんは私の手を一度も離さなかった。
車に乗り込む時、その手は自然と離れた。
助手席に収まった私は運転する瀬名さんの横顔をそっと見る。
瀬名さんは顔色一つ変えず、エンジンをかけて車を出した。
車内ではしばらく沈黙が続き、私は高まる気持ちを落ち着かせるために外ばかりを眺めた。
会ってしまうと流される自信があった。好きと再認識してしまった今、瀬名さんを前にして拒み、断ることなんて出来ない。
ケンちゃんと話して、時間がかかってもいいからちゃんと分かってもらってから、瀬名さんにまた振り向いてもらえるように努力しようと、それまでは会わないって、決めていたのに……。
自分の意志の弱さにへこみ、瀬名さんにばれないよう静かに息を吐き出す。
「リヅの顔見たらすぐに帰るから」
今まで黙って運転していた瀬名さんが急に話しかけてきた。
「だから、そんなに思いつめた顔しなくていいよ」
運転する瀬名さんの横顔を見た。すると、瀬名さんは一瞬私を見て、微笑んだ。
「俺の車に乗ったこと後悔してるでしょ。和花はすぐに顔に出るから」
「うそ……?!」
私は慌てて両手で頬を隠した。瀬名さんはそのまま前を向いて運転を続ける。
「無理矢理押しかけてごめん」
「嫌とかじゃないよ。その……」
「和花が拒む理由、何か考えていた。でも、わからない。本当に嫌ならこれ以上無理強いしないから教えて」
家に瀬名さんを呼びたくなかった理由は、とても個人的な理由で瀬名さんは悪くない。
だけどそれを瀬名さんに言うのはまだ早いというか、ずるい気がする。
私は瀬名さんの質問にどう答えたらいいか困ってしまった。
「……私ね、瀬名さんに対して誤魔化したり、隠したり、嘘ついたりとか……したくないの」
慎重に、ゆっくり言葉を選んだ。
「自分の気持ちにも嘘つきたくないし、誰かを傷つけることもしたくない」
「……和花が俺と会うと誰かが傷つく?」
「うん。自惚れかもしれないけど」
「それがケンちゃん?」
私は言葉を噤んだ。
「俺ね、和花のそういうところいいと思うよ。自分より、相手を優先させる。人の気持ちに優しくいようとする姿勢って、みんなつい忘れがちだし、実践するのは難しい」
「……ううん、私、そんなに優しくないし、実際できていない。鈍感だし、後から気付くことがいっぱいある。リヅのことだってお礼しそびれているし、……優しくありたいけど、下手で、不器用なの。ほんと嫌になる」
自分のひざを見るように私は顔を伏せた。
「和花は目の前のことに一生懸命なんだろうね。開き直るのとはまた違うけど、別にいいんじゃない? 今のままで」
私は自分の耳を疑った。パッと顔をあげて瀬名さんの横顔を見る。
「……酷いことしたって、あとから気付いて後悔しても?」
「誰もがみな完璧じゃない。やってしまったものは仕方ない。あとで気付いて後悔しても、そのままずっと気にすることないよ」
「それ、とっても難しい……」
「反省は大事だけどね。でもいつまでも悩んでいたって前に進めない。切り替えないと」
「……そうね。でも、その切り替えが苦手なの。……このままは、嫌だけど」
車が赤信号で止まる。
前を向いていた瀬名さんが横にいる私を見て、ふっと笑った。
「このままが嫌なのは、俺も一緒」
私は目を見開いた。
……このままが嫌って、それって、捉えようによっては別の意味になる。
浮かんだ考えに胸が高鳴った。
「今日、和花に会えてよかった。和花に、会いたいって思っていたから」
瀬名さんは優しい瞳を私に向けて言った。
「もちろん、リヅにもすごく会いたかったんだけどね。フットサルの後、家に行こうかと本気で考えていた。そしたら本人が目の前に現れて……これはチャンスだと思った。この機会は逃せられないって」
瀬名さんの話を聞きながら私の鼓動はトクトクとスピードを上げていく。
「瀬名さん、あの……」
「ごめん。話の続きは後でしよう。運転中じゃなくてちゃんと言いたい」
信号が青に変わる。
瀬名さんは前を向き、いつものように丁寧に、滑らかに車を発進させた。
車が走り出すと同時に、私の胸の鼓動は速くなって、熱を帯びていった。
*
「……散らかってるけど、どうぞ」
「お邪魔します」
家に帰り着いても、私の胸は尋常じゃないくらいバクバクしていた。すごく緊張しながら瀬名さんを家の中へと通した。
一方の瀬名さんは平然と、普通に入っていく。
「お、リヅ。ただいま」
リヅはちょこんと座って私たちを出迎えてくれた。瀬名さんを見てリヅはニャーと甘え声で鳴いた。とことこと軽い足取りで近づいてくる。瀬名さんはリヅをそのまま抱き上げた。目線の高さを合わせる。
「ほんとに元気そうだな。安心した」
喜ぶ瀬名さんを私は目を細め見つめた。
さっきから気を張っていたけれど、リヅのおかげで少しだけ肩の力が抜けた。
「お茶と、コーヒーと紅茶、あと、ビールがあるけどどれがいい?」
キッチンから顔をだして、リビングのソファに座る瀬名さんに飲み物を聞いた。
「ビールを選択したら、泊まっていくけどいいの?」
しれっとした様子で言われて私はドキッとした。
「……ビール以外でお願いします」
「じゃあ、抹茶が飲みたい」
瀬名さんはずっと抱いていたリヅを床に下ろすと、なぜか立ち上がり、キッチンに入ってきた。
「……瀬名さん今から正座してずっといられる?」
後ろを振り向き瀬名さんを見上げながら、尋ねた。
「今から長時間正座は正直厳しいな」
「でしょ? 普通の煎茶淹れるね」
私は小さく笑うと、瀬名さんに背を向け戸棚からお茶缶を取り出した。
「煎茶か……残念。和花が抹茶を淹れる姿、好きなんだけどね」
「す……」
私は瀬名さんがさらっと言ってのけた「好き」という言葉に過剰に反応し、すぐに後ろを振り向いた。
「手伝うよ」
瀬名さんは目が合うと平然とした様子で言った。
私は再び熱が顔に集中していくのを感じた。動揺を抑えようと、顔を逸らす。
「お客さんは、座って待ってて」
すると、瀬名さんの手が伸びてきた。私の手からお茶缶を取ると、棚に戻してしまった。
「……それ、手伝いって言わないよ? 戻されたら、お茶を入れられない」
「お茶を飲みにここに来ていない。話の続きをしよう」
「……続き」
微妙に距離を縮めてくる瀬名さんの表情は真剣なもので、私は構えた。
「和花のことが好きだ」
息を呑んだ。
「さっきも言ったけど、俺は和花とリヅに会いに来た」
瀬名さんは私から目を逸らさずに、はっきりと言ってくれた。
構えていたのに、胸はドキドキとすごい音を奏でている。
「和花が菜桜子とフットサル見に来ていて正直嬉しかったよ。リヅの病気のことで、ケンってやつじゃなくて、俺を頼ってくれたことも嬉しかった」
「それはね……」
「和花がケンを選び、その人といることで幸せなら俺はそれでもいい、邪魔するつもりはない。その気持ちに変わりは無いはずなのに、……こんなにも、気持ちに余裕が持てないのは初めてだ」
聞いた瞬間、全身が一気に熱くなった。
「信じられる? 和花のことでいっぱいなんだ」
瀬名さんの、自分を見つめる瞳に曇りはなくて、胸が熱くて、どんどん苦しくなっていく。思考と気持ちが追いつかない。
「だけど、和花を縛るつもりはないから。……説得力は、ないかもしれないけど」
「……縛る、て?」
「前にも言ったけど、俺に無理して合わせることはないよ」
それは私と瀬名さんが別れた時、最後に交わした話だった。
「でもそれは、私に呆れたから……嫌いになったから言ったんじゃないの?」
「俺といることで和花が悩み、辛いなら別れた方がいいと、そう思った。呆れたりしていないし、嫌いになんて、なっていない」
別れる直前はとても険悪で、私は会う度に瀬名さんを責め立てて、可愛らしいところなんて一つもなかった。
瀬名さんは私に一歩近づいた。
思わず半歩下がったけれど、すぐに食器棚に背が触れて、それ以上下がれなかった。
「和花の気持ちを言って。聞かせて欲しい」
『……言いたいことがあったら言えば?』
私は、瀬名さんを見ながら、前に言われた言葉を思い出していた。
「言いにくい気持ちも、させているのも、分かっている。それでも、向き合うことから逃げずに、自ら殻を破って欲しかった」
「うん……」
……もう、わかる。わかってる。
瀬名さんはいつでも、少し先で振り向き、私が動きだすことを待っていてくれる。自分の足で進むことを、見守っていてくれる人。
しんどいことを、気持ちを口にせずに、汲み取ってもらおうとするのは小さな子供のすること。手を差し出して助けてもらうのを待つのは甘えだって、教えてくれたのは瀬名さんだ。
今、するべきこと、したいことは、私とまっすぐ向き合ってくれる、大切な人に、……想いを届けること。
私は唾を飲み込むと口を開いた。
「……瀬名さんに、自分と合う人と付き合ったらって言われてショックだった。私、見限られたと思っちゃったの……」
「見限る……そんなつもりはなかった。俺が追い込んでしまったんだね、ごめん」
「ううん。私が、未熟だったの。自分の気持ちしか考えてなかった。瀬名さんの、気持ちばかりが欲しかった」
「俺に、至らないところがあったんだよ」
私は首を横に振った。
「私ね、親や同僚には、自分の本心なんて知られたくないの。けど、瀬名さんは特別で、私、甘えてた。
瀬名さんと肩を並べたくて、見合う自分になりたいって思っていることに気づいて欲しかったの。自分を磨くことも、伝える努力も怠っているのに、わかって欲しいって、ただ求めてた。私を見て欲しいって。でも、それは叶わなくて、
勝手に期待して、埋まらない距離に絶望して、何も言わずに諦めて……ずるいよね。本当に、ごめんなさい」
「和花は何も諦めていない。本当に諦めていたのなら、今ここにいない」
瀬名さんの言葉に私はハッとなった。
すると、彼は私の両手をそろえて包み込むように持つと、そっと握った。
「……この小さな手は、出会った頃から変わらない。家を出て、独り立ちしようと、懸命だった頃のまま。大人になろうと、成長しようと頑張っていたのを俺はそばで見ていたから、知っている」
私は、首を横に振った。
「私には、足りないものばかりだから……懸命にならないと一人前には程遠いの」
「足りていようが、なかろうが、和花は和花だろ。出会った頃から変わろうともがき、失敗し、悩みながらもちゃんと受け止めて、前を向いている和花に今も、惹かれている」
瀬名さんの優しい瞳、言葉が素直に嬉しくて、胸を熱くさせた。
だけど同時に、疑問が一つ浮かんだ。
「……なんで別れる前に、そう言ってくれなかったの? あの時、そう言って欲しかった。そしたら、何かが変わっていたかもしれない」
瀬名さんは、ゆっくり口を開いた。
「言葉は、冷静に慎重に伝えないといけない。大事な言葉は特に。悲しみでいっぱいの時や、険悪な雰囲気の時に真実の気持ちが出てくるとは限らないし、本心で言った言葉だったとしても、うまくは伝わらない。聞いた側も信じられなかったはず。
お互いに余裕を欠いて、あの場ではああするしか……別れるしかなかったと俺は今でも思ってる」
瀬名さんはそう言った後に、自分を自嘲するように笑った。
「……今も、そんなに余裕はないけれどね」
「瀬名さんに、余裕がないようにはみえないよ」
そう見えるだけと、瀬名さんは笑った。
「誰かが苦しんでいる時に、手を差し出すのは簡単で、相手のためにはならないとずっと思っていた。だけど、時には必要なんだって和花に習ったんだよ」
「……私が、瀬名さんに?!」
瀬名さんは頷いた。
「自分の気持ちや、考えを通すことよりも、和花の望むことを叶えてあげたい。そう思い、そう考えるようになったのは、和花と付き合ったから得たものだ。……今、和花の気持ちを優先しようと頑張っている。……これでも」
瀬名さんはにこっと笑った。
「俺は、人の気持ちを、相手の考えていることを読むことはできる。けど、優先させられるかどうかは、別物なんだ。いつも自分の思うように進めようとしてしまう。
和花はその逆で、読むのも伝えるのも下手だし、嫌で、苦手だよね。けれど、相手を誰よりも大切に、敬うことができる綺麗な心を持っている」
瀬名さんが、自分のことをそんなふうに思っていたなんて知らなくて、本当に驚きだった。
信じられない気持ちと、嬉しい気持ちが半分で、くすぐったい。
「和花、こっちきて」
急に瀬名さんは私の手を引いた。キッチンからリビングに移動する。
瀬名さんはすぐ立ち止まり、そして、私の胸が跳ね上がった。
「……えっと、……」
言葉を探していると、瀬名さんはにこりと笑った。
「ドリームキャッチャー。ここに飾ってあるんだね」
ドリームキャッチャーはずっと片付けていたけれど、瀬名さんへの気持ちを自覚して、再び飾るようになった。
顔が熱い。恥ずかしくて俯き加減に、瀬名さんを見ながら頷く。瀬名さんは、ドリームキャッチャーに視線を戻すと、柔らかく笑った。
「……和花のドリームキャッチャーは、俺といつまでも幸せに、一緒にいられるようにっていう意味のお守りだった」
「覚えて、いたんだね」
「もちろん。嬉しかったから」
打ち明けてもらったこっちの方が気持ちが溢れて、どうにかなりそうだった。
「和花は分かっていない。自分がどれだけ魅力的で、素敵なのかを。もっと自信を持って。一緒にいると楽しいし、誰でもない、和花が笑うと、それだけで俺は幸せを感じている。だから、不安に思うことはない」
嬉しかった。
瀬名さんから放たれる言葉の数々が本当に信じられないものばかりで、私の胸をじんっとさせ、目頭を熱くさせていく。
「……どうしよう、嘘みたい……」
胸が芯からじわじわと温めらているみたいに熱くなっていく。
込み上げてくるものが大きくて、私の心は揺れた。
「和花」
瀬名さんは私の名前を優しく呼んだ。
「和花も聞かせて。今の、気持ちを」
「……今の、私の気持ちは……」
真っすぐ私を見つめていた瀬名さんの瞳に胸が高鳴る。
そのまま見つめ返していると、急に瀬名さんの顔が私へと近づいた。心臓がとんと跳ねる。
「……ごめん。待って、ください、です」
瀬名さんの唇が私の唇に触れそうになって、咄嗟に私は彼の唇をそっと、手で塞いだ。
他人である私たちの気持ちが交わる瞬間なんてほんの一瞬で、
それを逃すと次はないかもしれない。
今拒めば、瀬名さんの中で終わってしまうかもしれない。
でも、だからって、……流されるように元さやにはなれないと思った。
私の瀬名さんへの負い目と、不安はまだ、一つも払拭されていない。
「……瀬名さんが会いに来てくれて、思っていることを打ち明けてくれて、本当に嬉しかった」
私は震える足に力を入れて真っすぐ立つと、瀬名さんの目を見つめて言葉を紡いだ。
「……だからこそ、流されたくない。勢いではなくてちゃんと自分で考えて、曇りのない気持ちで瀬名さんと向き合いたいの。失敗は悪いことじゃない。けど、同じ失敗は、繰り返したくない」
悩んだり、落ち込んだり、迷うたびに私の背を押してくれた、菜桜子さんや、美樹と雅のことが私の頭を過った。
励まし、応援してくれた彼女たちの期待に応えるためにも私は変わりたい。
ちゃんと自分に自信を持って、それから瀬名さんに気持ちを伝えたい……!
「いいよ。和花の気が済むまで待つ。最初に言ったけど、押し付けるつもりはないから」
自分を想う瀬名さんの気持ちにまた胸がぎゅっと熱くなった。
「……ありがとう、瀬名さん……」
……大好き。愛してる……。
今は言葉にできない気持ちを、私は心の中で伝えた。
瀬名さんは、明日が早いことを気にかけてくれて、早々に帰ると言った。
玄関に向かう瀬名さんを見送るため、後ろをついていく。
「リヅ、お前あまり食いすぎるなよ」
ずっと瀬名さんのそばから離れなかったリヅは別れるのが寂しいのか、足元に纏わりつき、ニャーニャーと鳴いた。
仕方ないなと言いながら瀬名さんは、よしよしと何度もリヅの頭を撫でる。
「和花」
「……はい」
「明日の余興、頑張ろうな」
「……うん。サプライズ、絶対に成功させる!」
力強く言うと、瀬名さんは破顔した。その笑顔だけで胸がときめく。
玄関を出て、車に乗り込む瀬名さんを見送る。
夜なので、いつものようにタバコは一本だけだよと、ジェスチャーを送ると、分かったと瀬名さんは口パクして返してくれた。
そのまま車は走り出し、テールランプが見えなくなるまで私は見送った。