** 12 **
ケンちゃんたちと海に行ってから数週間後、暦では九月なのにまだまだ暑い日が続いていた。
今日はこれから遊心さんのダンススタジオで、余興の練習がある。
早番で夕方には仕事を終えた私は一旦自宅に帰り、着替えてからスタジオに行くことにした。
にゃー、にゃー!!
「リヅ。お代わり? まだ食べるの!?」
支度を済ませ、出かけようとする私の足元にリヅが執拗に絡んできた。
リヅは暑さなど関係なくよくもりもりと食べる。私の家に来た時より二回り大きくなっていた。
さっき餌をあげたばかりだけど、まあ、いっか……。
リヅのエサ皿にキャットフードを入れてあげる。すると、リヅは勢いよくガツガツ食べ始めた。
「いい子でいるんだよ、行ってきまーす」
電車の時間が迫っていて、私は食べているリヅに向かって声をかけると、そのまま家を飛び出し駅へと向かった。
「由香さん!!」
「和花ちゃん、お疲れー! 踊りはもうばっちり?」
スタジオには手首に包帯を巻いた由香さんが先に来ていた。
「踊りはなんとか……。手の具合どうですか? 大丈夫?」
「まだ安静って言われてるけどね、何か手伝えることあるかもしれないと思って来ちゃった」
由香さんはにこりと微笑んで言った。
「…みんな、ちょっと集まってくれる?」
由香さんの話しをしながらストレッチしていると、瀬名さんが呼んだ。
部屋の中央に集まり、座る。
遊心さんが立ちあがり、説明を始めた。
「今日は曲を最初から流してフォーメーションを確認します。それぞれの踊りだすタイミングはこっちで決めちゃいました。何か質問あれば言ってね」
踊りだすタイミングを書いた紙束が回ってくる。自分の分を取って横の人に渡した。
「はい。質問っていうか、意見なんだけど……」
貰った用紙に目を通していると、隣にいた由香さんが挙手をした。
「これ、私が踊りながらみんながいるテーブル席へ移動し、踊りを誘うって演出だけど、ちょっと変えてもらってもいいかな?」
「どうして? 手が痛い?」
瀬名さんが由香さんに聞いた。
「手はその頃には余裕で大丈夫だと思う。けど、会場って広いし人も多いでしょ? 練習では出来ても本番では一人で時間内にみんなを誘って回れるかなって。しかも踊りながら」
「まあ、余裕はないかもな~」
京介さんが、相槌を打つ。
「由香への負担も大きいし、変更しようか」
「この、誘って踊りだすってなしにする? それぞれが自分たちで踊りだせばいいし」
瀬名さんと京介さんが立ったまま話を進める。
私をはじめ、今日ダンスの練習に来ていたメンバーは黙って見守るなか、由香さんだけが続けて発言した。
「演出としては残した方がいいんじゃないかな? いきなり踊りだしても誰も気付かないとか残念でしょ、せっかく練習したのに。誰かが進行係として踊りを誘導するはあった方がいいと思う。ただ会場にみんなが点々としてたら大変だからある程度一か所に集まるとか……」
「それだと不自然じゃない? あれ、あそこなんか集まってる。余興するんじゃない? って、する前からバレるのはなるべく避けたい」
京介さんが腕組みしながら言った。
「……じゃあ、由香は踊らず、みんなのいるところを回るとか」
「え、振りせっかく覚えたのに踊りなし!? 私、踊りたい!」
瀬名さんの意見に由香さんは首を振る。
「……みんなはどう思う?」
意見がまとまらず、瀬名さんは集まっている人に向かって尋ねた。
みんなそれぞれ隣にいる人と顔を見合わせ、話を始める。
これと言った案が出ずに時間だけが過ぎていく。みんなが思い思い話をする中で、私は一つだけ案が浮かんでいた。
「……失敗を避けるために、無難に演出はなしにしようか」
京介さんが妥協案を口にし、瀬名さんが用紙を見ながら熟考し始める。
あ、どうしよう。意見がまとまりそう。
一つ浮かんだアイデアがあるけど、私が発言してまとまりかけている流れを乱さない方がいいよね。時間も押してるし……。
多数の人がいる前で意見を言うのにはどうしても抵抗があって、自分の意見を言うかどうか迷った。口元に手を持っていき、視線を床に向ける。
「和花、何か言いたいことある?」
「え……?」
急に瀬名さんに話しかけられて、私は顔をぱっとあげた。
一斉にみんなの視線が私に集中して、胸の鼓動がどきんと音を大きくした。
う、わあ。みんなが見てる……、ど、どうしよう!?
みんなの視線も痛かったけれど、何より瀬名さんの視線が私は一番痛かった。
変なプレッシャーを感じ、首筋に汗が滲む。
何かを言わなくちゃと思えば思うほど、胸がずきずきと痛みだし、呼吸が苦しくなった。
私は絞り出すように、ゆっくり口を開いた。
「……言いたいことは……ありません」
「……そっか」
ダメ。こんな状態で自分の意見を言うなんて無理!
発言をした後、私はみんなの視線が痛くて再び視線を伏せて床を眺めた。
……結局言えなくて、私は自分の意思を押し殺した。
「とりあえず中盤は保留で。時間もないから今日は最後の方、メンバー全員が踊って、サプライズで京介が踊るところを合わせよう。みんな立って踊れるように広がって」
瀬名さんが場の空気を引き締めた。
ダンスの振りと、タイミングを合わせることだけに集中して、練習は行われた。
「次は式当日、披露宴の前のリハが最後の練習だから。みんなそれまでにダンスのふり、完璧に覚えて踊れるように宜しく。じゃ、お疲れ」
「お疲れ」の声とともに、みんながばらばらと帰っていく。
スタジオの外の通路には喫煙スペースがあって、瀬名さんと京介さんが煙草を吸いながら立ち話をしていた。
瀬名さんが私に気が付き目が合う。私は反射的にパッと顔をそらした。
「おつかれさま!」
彼の前を足早に横切り、やり過ごそうとした。
さっき、自分の意見を求められ、発言するチャンスがあった。それなのに私は言葉を飲み込んでしまった。そのことにきっと瀬名さんは気付いてる。責められ、怒られるんじゃないかと怯えていた。
「和花、気を付けて帰れよ」
ぐっと、息が詰まった。一瞬悩んでから振り返る。
「瀬名さんは、煙草、ほどほどにね」
少し、目を見開きかたまっている瀬名さんに笑顔を向けてから、私はその場を小走りで立ち去った。
「もう、九時か……」
腕時計を確認しながらアパートの階段を上がる。夜なので、静かに足音を忍ばせた。
玄関のドアを開けて、重い自分の身体を引きずり中に入れる。
「やっぱり言うべきだったな……自分の意見」
アイデアを飲み込んだことが今になって私の胸をもやもやとさせていた。
のろのろとした動きで靴を脱ぎ揃えると、廊下の電気を点けて真っすぐリビングに向かった。
冷蔵庫を開けるとお茶を取り出し、グラスに注いでごくごくと飲む。もう一度グラスにお茶を注ぎ、二杯目を飲みながら私は今日の練習を振り返った。
由香さんは自分の意見をはっきり言っていた。
自分にできること、できないことをしっかり理解していて、どんな時でも堂々と発言できる。
私は発言したことで、人にどう思われるかとか反対されたら、困られたらどうしようとか、そんなことばかり考えて、結局自分の意見をみんなの前で言うことが出来なかった。
「瀬名さんと別れた時から何も、……成長できてないかも」
否定されるのが怖い。けれど、一番自分を否定しているのは私自身。
こんな自分は嫌で自己嫌悪に苛まれ、後悔ばかり私の中で渦巻いていた。
にゃー……
「ん。どうしたの? リヅ」
キッチンに突っ立ったままの私の元へ、リヅがそっとすり寄って来た。
「リヅ、寝てたの? 餌食べる?」
私は足元から離れないリヅに、猫缶の中身を餌皿に取り出してあげた。
リヅは餌をクンクンと嗅ぎ出す。
「私もお腹空いちゃった。何か食、……えっ、リヅッ!?」
冷蔵庫を開けた時だった。いきなりリヅが、激しくえずき始めた。
私は慌ててリヅに駆け寄る。リヅはすごい声で何度もえずき、食べたものをすべて吐き出した。それでもまだ苦しそうに蹲っている。
「リヅ、リヅっ! どうしようっ……」
突然の出来事に全身の血の気がさあっと引いて、足が震えた。
手も震えて胸がバクバクなって、頭が真っ白になった。
どうしていいか分からず、リヅの苦しみように私はただ側でおろおろした。
「びょ、病院! 救急車! て……、猫に救急車って呼んでいいんだっけ……!?」
さらにぐったりしていくリヅに、私はパニックだった。頭を抱える。
「こんな時間に動物病院やってないよ……どうすればッ!」
『知り合いに獣医がいてリヅを預ける予定…』
真っ白だった私の頭に、瀬名さんが浮かんだ。
次の瞬間私はスマホを握ると、考えるよりも先に震える指先で瀬名さんにコールしていた。
……――十数分後、ドアフォンが鳴り、玄関を開けると瀬名さんが立って居た。
「和花、大丈夫?」
彼の気遣う声に、視界が滲む。胸には熱く込み上げるものがあった。安堵から涙がぽろぽろこぼれて、それを手の甲で拭う。
「抱いているのは、リヅ……? 見せて」
瀬名さんは私の腕の中、バスタオルに包まるリヅを覗き見た。
「意識はあるんだね。とりあえず、よかった」
「でも、全然元気じゃないの……」
ドタバタと部屋の中を走り回るリヅが脳裏に浮かび、また涙が押し零れる。
「知り合いの獣医には連絡した。ここからそう遠くないから今から行こう」
瀬名さんは冷静な声で、しっかりと私の目を見て言った。
「……看てくれるの?」
「そうだよ。だから行こう」
私はこくりと頷いた。
車は駐車場ではなくアパートの階段下に停めてあった。私が後部座席に収まると瀬名さんはすぐに車を発進させた。
瀬名さんの言う通り、知り合いの動物病院は私の家からそう遠くなかった。道も空いていることもあり、五分ほどで到着した。
「……診察時間、過ぎてるよね……」
「大丈夫。気にするな」
車から降りた瀬名さんは、正面の診察室の方ではなく裏口へと回った。
「ここ、一階が病院で、一階の一部と、二階以降が居住スペース」
「……瀬名さん詳しいね」
「何度か遊びに来たことがあるからね。飲み友達」
そう言いながら瀬名さんはドアフォンを鳴らした。
獣医さんは瀬名さんが連絡をしていたからか、すぐに出てきて対応してくれた。
名前は横田さんと言って、優しそうな瞳のクマのような大柄な人だった。
診療所を開けてくれて、早速診察室に案内される。
「……ちょっとレントゲンとか色々撮ってもいい?」
「お願します!」
私はすがるような気持ちで即答した。
「分かりました。二人は待合室で待ってて。家内が二階から降りてきたらすぐに処置にかかるから」
横田さんはリヅを連れて、奥の部屋へと消えていった。
私と瀬名さんは誰もいない夜の静まり返った待合室で二人っきりになった。
腰掛ベンチに横になって座る。壁の掛け時計の針がコチコチと響く。
一分一秒が長く感じて、不安で胸が押し潰されそうだった。
「リヅ、大丈夫かな……」
うわごとのように私は言葉を溢していた。
前かがみになり、はぁ……と、詰めていた息を吐き出す。
「どうしよう、もしも大きな病気とかで……リヅの身に何かあったら……」
「リヅならきっと大丈夫。今朝までは元気だったんだろ?」
「元気だったと思うけど、わかんない。自信ない……。あんなに弱ってるリヅを見たら……」
まん丸お月さまのような黄色い大きな瞳を思い出して、切なくなった。目頭が熱くなる。
本当は気づかなかっただけで、どこか悪くしていたのかな……。
「いつも側にいたのに、こんなに酷くなるまでどうしてリヅの体調に気付かったんだろう……。もっと早く連れてきて上げられたら……!」
悔しくて、自分を責め続けた。
「リヅが……もしも、リヅがっ、……死んじゃうようなことになったらっ……!!」
言葉にしないと恐怖で胸が張り裂けそうだった。
小さな動物の儚い命が、私に重く圧し掛かる。
「最後まで責任を持って育てようと思ったの。幸せにしてあげるって……それなのに私は、リヅをちゃんと幸せにしてあげることが出来たのかな……?!」
我慢していた分、口にして言うと堪えていた思いが堰を切ったように溢れだした。
「ごめん。瀬名さん……。私がこんなんじゃダメだよね。しっかりしなくちゃいけないのに、でも、リヅがいなくなっちゃったら私、私……ッ」
「和花……」
取り乱し、こみ上げてくる後悔と不安で涙が止まらない。
泣き顔を見られたくなくて顔を手で覆った時だった。
瀬名さんが、私の肩をふわりと抱きしめた。
「和花、落ちついて。リヅはきっと大丈夫だから」
瀬名さんの落ち着いた声が、私の耳に優しく響く。
「さっきリヅの目を見たら曇っていなかった。いつものように凛としていて、満月みたいに綺麗で黄色の瞳だった。死にそうな動物の目じゃない。だから大丈夫」
瀬名さんはさらに私をぎゅっとしっかり抱きしめ、優しく頭をなでる。
私を落ち着かせ、宥めようとしているのが伝わって来た。
「大丈夫。和花はちゃんとリヅの病気に気付いてあげられた。連れてくるタイミングは今で良かったんだよ。だからそんなに自分を責める必要はない。リヅは十分幸せだし、これからもっと幸せにしてあげたらいい。泣いていたらリヅが悲しむよ」
瀬名さんの言葉と優しく伝わる体温が、凝り固まってどうしようもなかった不安をじんわりと溶かしていく。心が安心感で満たされていく。
瀬名さんが大丈夫って言うのなら、本当に大丈夫かもしれない。リヅは元気になって戻ってくる。そう思い始めた頃、自然と涙は止まり胸の苦しみも和らいだ。
瀬名さんは私が完全に落ち着くまで優しく、ずっと抱きしめ続けてくれた。
「処置が終わりました。リヅ君の飼い主さん、入って下さい」
診察室から女の人が出てきて、私に優しく声をかけてきた。
私はぱっと立ち上がって、診察室に瀬名さんと一緒に入った。
「リヅ……!」
部屋に入ると診察台の上に黒猫のリヅがちょこんと座って待っていた。私は思わず駆け寄る。
リヅはすぐに私に飛びつき腕によじ登ろうとして、私はそのままリヅをぎゅっと抱きしめた。
「横田。それでリヅの病名は?」
冷静な瀬名さんは私の代わりに診察台の側にいた横田さんに尋ねた。
そう。病名……。
いつもは元気なのに何度も吐いて、ぐったりしてた。
……リヅが苦しんでいた理由、原因は……?!
ごくりと唾を飲み込み私は、横田さんの言葉を待った。
「病名は、……食べ過ぎです」
「……は?」
普段あまり動揺しない瀬名さんが固まった。
「……いや、軽い便秘かな。どっちかっていうと……」
私もリヅを抱きしめたまま、目を丸くして横田さんを見た。
「食欲旺盛の欲張り猫だね。大丈夫。他は問題なかったよ。一応便秘薬を何日か出しておくからそれで様子見て」
横田さんはにっと笑うとあっさりとした様子で言った。
「え……じゃあ、手術や入院とかは……」
「全然いらない。通院もいらないかな。自宅療養って程でもない。処置も済んだし、普段通りでいいよ。まあ食べる量だけは気を付けて?」
「えー……!?」
私は緊張の糸が切れて、ぐにゃりとその場に崩れ落ちそうになった。
「……まあ、なんでもなくて良かった。すまなかったな横田」
瀬名さんはふぅと、息を吐くと微笑んだ。
「いいよ。いつでも言って。動物を助けるのは僕の使命だから」
横田さんはにっと優しく笑った。
「一応、薬の飲ませ方と、家で注意してみてもらいたいこと説明するね」
「あ、はい」
私はリヅを抱きしめたまましゃんと姿勢を正す。
「和花、ごめん。電話がなってるから、俺は待合室で待ってるね」
「あ、はい……」
瀬名さんは電話に出ながら部屋から出て行った。
診察室に残った私は横田さんから一通り薬の説明と、飲ませ方を教わった。
「あとドライのキャットフードを食べさせる時は水を多めに。たまにウエットのものも上げてね。あと餌は欲しがるままに与えないように。三食あげる必要もない。時間を決めて一日二回。リヅくんはおやつ、間食もなるべく控えてね」
「はい。気を付けます……」
私は言われたことを手帳に忘れないようメモした。
「……瀬名とは最近よく飲むんだけど、西森さんの話は聞いていたよ」
「え……? 話……?」
私はメモを取る手を止め、顔を上げた。
「一度、会ってみたいって思ってたんだ」
横田さんはにこりと微笑んで言った。
「瀬名とは中学が一緒だったんだけど最近再会してね。それからは飲み友だち。ここからあいつのマンション近いだろ。僕の家、一階が応接室だから気兼ねしないらしくて、よく呑みに来るんだあいつ」
「へえ、そうだったんですか……」
「僕たち去年結婚して新婚なのに迷惑な話だよ。まあ夫婦で開業してここを経営する時あいつにいろいろ世話にはなったんだけどね」
「去年……ですか」
去年の今頃はまだ私は瀬名さんと付き合っていた。ぎくしゃくしだしてあまり頻繁には会っていなかったけれど……。横田さんと飲み友……。知らなかった。
「あいつ、よく旅に行くでしょ。ほぼ毎週スポーツしてそのあと飲み歩いているし、男にも女にもモテて、派手な友好関係かと思いきや、僕みたいな根暗で大人しい真面目タイプとも友達してるし」
横田さんの自虐的な発言に私は思わず微笑みを返す。
「瀬名は博学で好奇心旺盛で、面倒見もいい。そして突然ふらっといなくなる。学生の頃から変わらない掴みどころのない奴だなあっていつも思っててね」
「それは……私も思います」
「ああ、西森さんもそう思うんだ」
横田さんはふっと笑った。
「聞いているならご存じだと思いますけど、私は彼が掴みきれなくて……自信をなくして別れたんです」
瀬名さんと自分を比べれば比べるほど何もない自分が恥ずかしくて、私は瀬名さんの側にいるのが苦痛になった。
「…瀬名さんは私に何も話してくれなかった。どこで何をしているのか、極力聞かないようにしていたし……。いつも不安で、私、自滅し、押し潰されちゃったんです。だから……横田さんにこんな私のことを、あの瀬名さんが話していたなんて、ちょっと意外でびっくりしました」
私は私の腕の中で眠り始めたリヅをなでながら、微笑んで言った。
「西森さんは、お茶の名家の出身なんだって?」
私は横田さんの言葉にドキッとした。
「瀬名から聞いた。凄くいいところのお嬢さんなんだろうなって想像してたけど……」
「あ、ごめんなさい。私、それっぽくないですよね」
私は誤魔化すように笑った。
「いやいや、品の良さはとても伝わってくるよ。でもそれをわざと崩しているというか、隠しているところが奥ゆかしくてまたいいね。親しみがある」
「……そうですか? 初めて言われました」
学生の時は、取っ付きにくいと言われて嫌だった。そのせいもあって大人になってからは家のことをなるべく人に言わないようにしていた。横田さんには親しみがあると言われて、私は正直嬉しかった。
「西森さんは自分のこと色々誤解しているのかもしれないね」
「誤解、ですか?」
瀬名さん、横田さんに何を言ったのかな……。
「瀬名ともっと話をしてみたら? おっと、いけない。長話になった。そろそろここを出よう。リヅ君も寝ちゃったことだし、今日はゆっくり様子見てあげてね」
時計を見た横田さんは急に話を切り上げた。
「あ、はい。今日は本当にありがとうございました」
私は深々と頭を下げお礼を言ってから診察室を後にした。
「説明、終わった?」
診察室を出ると、瀬名さんはスマホをポケットにしまいながら言った。
私は瀬名さんを見た瞬間、私の話を横田さんにしたの? って聞きそうになって、ぐっと息を呑んだ。聞く代わりに私は薄く笑みを浮かべ頷く。
「ずいぶん長く話してたね」
「ごめんなさい。待たせて。先に診察代と、お薬も貰ってきたの。……この後予定があった?」
余興の練習の後、瀬名さんは京介さんと煙草を吸っていた。
もう、今日は仕事の予定ないはずだけど……。
「本当にありがとう。助かりました」
私は瀬名さんに向かっても深々と頭を下げた。
「いいよ、これぐらい。予定も電話も京介だから気にしないで。診察終わったのなら家まで送っていく」
「……ううん。ここから近いし歩くか、タクシーで一人で帰れ、……」
「そうやって余興練習の後、和花は断ってきたけど、二度目は断らせない。夜中にリヅ連れて歩かせるわけにもいかないし、送って行く」
瀬名さんの手が私の背を押す。そのまま建物から外へ出て行こうとする。
「え、でも悪いし……」
「悪くない。行こう」
言葉は少し強引なのに、私に触れる瀬名さんの手はどこまでも優しい。
付き合っていた頃と同じ二人の距離感に、胸がドキドキとリズムを速める。
「ちょうど、渡したいものがあるんだ。乗って」
私がリヅを抱っこしたまま車に乗り込むなり瀬名さんはトランクを開け、大きな袋を私に差し出した。
「この前、コンビニ前で会っただろ」
「え。あ、うん……」
瀬名さんからの着信に気づかず、ケンちゃんといるところを彼に見られたことを思い出し、胸に緊張が走る。
あの後、余興の練習で何度もあったけれど、何の要件だったのか、気まずくて、聞けずじまいだった。
「近くを通りかかってね。本当はこれ渡そうと思って、待っていたんだ」
「これって、リヅのおもちゃ……?」
袋の中には猫じゃらしやボールなど、猫のおもちゃが大量に入っていた。
「こんなにいっぱい、いいの?」
「俺が持ってても使いようがない、あげる」
「……ありがとう」
心から笑うと、瀬名さんの瞳に優しさが灯った。
胸がとくんと高鳴る。
……さっきから私の胸、ドキドキしてる。
付き合っていた頃より、……ううん。付き合い始めた最初の頃のように。
私、瀬名さんに……ときめいている。
抑えたくても勝手に感情が沸き起こる。自分の感情に戸惑い、困惑した。
「瀬名さん、あの……」
瀬名さんを知りたい。もっと感じていたいという想いが波のように胸に押し寄せてくる。その衝動に任せるように私が言葉を放とうとした次の瞬間、
「和花、彼氏と一緒だったから、俺の車に来てとはさすがに言えなくてね。そのままにして、渡すの遅くなった」
“彼氏”の言葉に、私は息を呑み、芯から凍り付いた。
私が固まっている間に瀬名さんはそのまま、運転席に回ってしまった。
エンジンがかかる。瀬名さんがウインカーを出して、車を駐車場から路上に出そうとする。
私はすっごく遅れて反応した。
「瀬名さんっ、ケンちゃんはその……彼氏とかじゃ、……」
「優しそうな人だね。和花、ちゃんと自分に合う人を見つけたんだね」
瀬名さんは前を向いたまま冷静な声で私の言葉を遮った。
私は、口から出かけていた言葉を一度、ごくりと飲み込んだ。そして、飲み込んだ言葉の代わりに違う言葉が出てしまった。
「……なんで、今、それを言うの……?」
車は道路に出るなり、すぐに走り出す。
瀬名さんはスムーズに車を飛ばしていく。対照的に私の心には、ブレーキがかかった。
「別に。今しか言うタイミングなかったから」
「……そう」
それはつまり瀬名さんにとって私たちの別れは、今まで忘れていられるほど些細なことだったってことね……。
私は前かがみだった姿勢をやめ、後部座席に深く座り直した。
運転する瀬名さんの後姿を見るのをやめて、ひざ元ですうすうと寝るリヅを一撫でする。そのあと、車窓から外を眺めた。
……横田さんの言う通り、私は確かに誤解していた。
もう、いい加減わからないといけない。
瀬名さんは誰にでも優しいということを。
そして、私と瀬名さんはもう、終わっているということを……。
やっぱり私には瀬名さんという人を一生、掴むことができない。そう思うと、浮かれて膨らみ始めていた気持ちは急速に縮んでいった。
「……――瀬名さん、今日は本当にありがとうございました」
家の玄関まで戻って来た私は、もう一度瀬名さんにお礼を言った。
「俺、病院へ連れて行ってばっかりだね」
「……ほんとだね」
私は瀬名さんの言葉に何とか笑って答えた。
「リヅの様子、また聞かせて。それじゃ」
「うん。おやすみなさい」
瀬名さんはそれ以上何も言わず、ドアを開け、そのまま帰って行く。
私はその姿がドアの向こうに消えて、なくなるまでずっと、その場から動かず見送った。
にゃー
「あ、リヅ、ごめん起こしちゃった? ベッドで一緒に寝よう」
荷物を廊下に置いたまま、寝室に向かった。
リヅをベッドに乗せて、ルームウエアに着替えるとすぐに布団の中に潜った。
リヅはさっきより元気になっていた。いつものように私の顔を毛繕いしようした。
「よかったね、なんともなくて。ほんと……よかった」
リヅの様子にほっと安堵した私は気が緩んだ。
ぽとりと涙がこぼれる。
「私、馬鹿だね。リヅの様子にも気付かないし、自分の気持ちにも……気付かなかった」
小さなリヅの体をぎゅっと抱きしめた。
リヅの異変に気が付いてどうしたらいいか困ったとき、真っ先に頭に浮かんだのは瀬名さんだった。
瀬名さんに抱きしめられて私の不安は溶けて消え、安心感に包まれた。
瀬名さんにケンちゃんを彼氏と言われたて、……胸が切り裂かれたみたいにずきずきと痛んだ。
今日ダンスの練習でたまたま会ったから?
……違う。
今日に限らず、私はずっとずっと、別れてからも変わらず、考えている。
いつも、瀬名さんのことを。瀬名さんのことばかりを……想っている。
「…………瀬名さんが、好き」
無意識に気持ちが口からこぼれていた。
「別れてからもずっと……私、変わらず好きだったんだ……」
私の心の奥深くには、いつも瀬名さんがいる。瀬名さんを求める自分がいる。
再度その存在を自覚し認めると、気持ちがどんどん溢れ、確かな物になっていく。
「……今頃気づくなんて。もう取り返しがつかないのに」
ずっと燻って押させていた反動のように、熱くなり始めた気持ちはそう簡単に冷めそうにない。それが自分でもわかっている分、苦しかった。
私、間違えちゃったんだ。気持ちの向き合い方を……。進め方を。
逃げて見ないようにしていた自分の愚かさが情けなくて、悔しくて……泣けてくる。
「瀬名さんの代わりなんて、どこにもいないのに……!」
瀬名さんと別れるんじゃなかったと、今更なのに私は深く後悔した。
その夜私は、枕を濡らした。
瀬名さんのことばかりぐるぐる考えてケンちゃんに申し訳なくて、自己嫌悪でいっぱいになった。
瀬名さんが好きなのにどうしようもなくて、
ケンちゃんとこれからどうしたらいいのか分からなくて、
胸が苦しくて痛くて、瀬名さんと別れた時以上に私はショックを受けて何時間もベッドの上でうずくまった。
朝焼けが窓越しに部屋へ差し込み始める頃、泣き疲れた私はようやく、ふわふわの黒猫リヅを抱きしめたまま、眠りに落ちた。