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「和花ちゃんってさあ、ほんっと! 可愛いよねえ~!!」
「ケンちゃん。飲みすぎです……」
週末の金曜日、今日はお互い仕事だった。
七時に待ち合わせて夕ご飯を食べお酒を軽く飲んだあと、ケンちゃんの行きつけのお店、『谷やん』へはしご酒。マスターとも仲が良いらしく、さっそくやって来たのだけれど……。
今日のケンちゃんは飛ばし気味。今までデートした中で一番お酒を飲んでいる。
「だいじょうーぶ! オレ、酔ってませーんっ!!」
「それ、酔ってる人の常套句。和花ちゃん、ケンがうちの店でやらかす前に裕哉か陽介を呼んでもいいかな?」
ケンちゃんとはマスターの谷やんがケンちゃんの頭におしぼりを乗せながら私に聞いてきた。ケンちゃんは「おしぼり冷たい~」といいながらもご機嫌な様子でにこにこしている。本当に仲が良く、ケンちゃんのことをよく知っているのがわかった。
「……お願いします」
私は楽しそうなケンちゃんの様子になごみつつも、どう対処したらいいのか困っていたから、谷やんからの提案には内心ほっとした。
「ごめん。和花ちゃん、ケンが世話かけたね」
「あ、陽介さん!」
数十分後、近くで飲んでいたという陽介さんが谷やんのお店に現れて私に謝ると、すぐにケンちゃんの腕を掴み強引に立たせた。
「ケン、帰るぞ」
「へ? なーんで、和花ちゃんがぁ~、陽介に化けたあ?!」
「しっかりしろ、ケン。和花ちゃんの前でお前情けねえとこさらして……」
そう言うと陽介さんは、にこりと紳士的な笑みを私に向けた。
「私こそごめんなさい。ケンちゃんのペース早いなあと思ったんだけど、止められなくて……」
「和花ちゃんは悪くないよ。こいつがぜーんぶ悪い。ほら、ケン。立ったまま寝るな! 起きろ」
陽介さんはケンちゃんの頬をぐにっと掴んで引っ張った。
「いひゃい! おま、ようふけ! あとで覚えへろっ!!」
ケンちゃんは陽介さんに抵抗したけれどまったく足に力が入っていなくて、カウンターのハイチェアに躓きこけそうになった。
「うわっ! お願いだから店でこけないで。倒れないで~! 陽介、代金はまた今度でいいから早く連れて帰って。よろしく!」
谷やんは笑顔を浮かべつつも早く追い出そうとお店のドアを開け、二人を見送る。
「谷やんさん、お騒がせしてすみません。……また来ますね」
私は頭をぺこりと下げた。
「いやいや和花ちゃんは悪くないよ! ケンがおバカなだけ! 和花ちゃんまたいつでも来てね、大歓迎だから。ケンにも……愛想つかずに、また付き合ってあげてね?」
谷やんはとても申し訳なさそうに、でも優しく微笑んだ。
「すごく楽しかったのでこれてよかったです。また来ます!」
外に出ると、岡崎さんと美樹がいた。
「タクシー止めてあるよ! ケンケンは陽介くんが送るって」
美樹が私に向かっておいでおいでと手招きしながら声を張る。
「美樹、デート中だったんでしょ? ごめんね?」
私は美樹の側に駆け寄った。
「ううん。大丈夫! 和花、どうする? 一緒に飲んでいく? それとも一緒に帰る?!」
「明日も仕事だし、タクシーに一緒に乗って帰ろうかな。陽介さん、……いいかな?」
私は美樹に話しながら、タクシーに乗り込もうとしている陽介さんに聞いた。
「もちろん。和花ちゃんから先に送るよ。乗って」
陽介さんが先にタクシーに乗り込み、真ん中にケンちゃん。そして私は一番最初に降ろしてもらうため、最後にタクシーへ乗り込んだ。
美樹と岡崎さんに見送られながらタクシーは走り出す。
「なんでこいつ、今日こんなに酔ってんの」
陽介さんが真ん中でぐらぐら揺れているケンちゃんを支えながら私に尋ねてきた。
「私が悪いんです。ケンちゃんにお酒勧めたから……」
「ケンに? 和花ちゃんさ、確かケンの酒癖悪いの知ってたよね?」
陽介さんは意外そうな目で私を見た。
「……知ってます。でも私、ケンちゃんの楽しそうにお酒を飲む姿が好きで、危なくなったら止めようと思ったんです。それなのに、止めきれませんでした……」
私は申し訳なくて、狭い後部差席で深々と頭を下げた。
「あ……いや。そこまで改めて謝らなくてもいいよ。ね?」
陽介さんは少し慌てた様子で言った。
「……まあなるほどねえ。じゃあ、悪いのはやっぱりケンだね」
「え……?」
「自分の感情や欲をコントロールできない。こいつの悪い所。だけど、酒には飲まれるけどマジでこいついいやつだから。俺が保証する。って、あんまり俺、信用無いかな?」
陽介さんはにこりと笑った。
「いえ、そんな事無いです!」
そのあとは余り差しさわりのない話をして、数分後には私のアパートに着いてしまった。
「あのっ、タクシー代です」
「いい、いい。後でケンに全部請求するから」
「でも……」
「いいから! ほら早く降りて。こいつ俺にもたれてきて重たい」
「あ、はいっ」
私は慌ててお礼を言ってから、タクシーを降りた。
「次に会うのは再来週、海行く時かな。おやすみ」
「おやすみなさい」
陽介さんはにこりと笑って手を振った。
意識がないケンちゃんを乗せたタクシーはすぐに走り出し、去って行った。
「……みんなで海、楽しみ!」
ふうっと少しため息を吐きつつ小さく微笑んで、私はアパートの階段を上った。
*
翌日は、開店前から出勤の日で、早めに家を出た。
月末でしかも土曜日のためその日は目が回るほどとても忙しく、接客に追われた。気が付いたときには退社時間を過ぎていた。
「疲れたぁ……」
誰もいない更衣室で独り言を漏らしながら、自分用のロッカーを開けて荷物を掴む。
着替え終わりスマホをチェックすると、ケンちゃんからメッセージが五件入っていた。
今日はご飯を食べるのがやっとなくらい珍しくバタバタで、スマホはロッカーに入れっぱなしでゆっくりチェックする余裕がなかった。
え。コンビニで待ってる……?!
社員専用出口を出てすぐ目の前にはコンビニがある。
何時間も既読がつかなくて、ケンちゃん心配になって来ちゃったんだ!
急いでメッセージを確認し、返事を送った。
(ごめんなさい。昼間忙しくて、メッセージ今読みました!)
慌てて更衣室を出る。
社員専用の通路を歩いていると、着信を知らせるメロディが鳴った。
「ケンちゃん!」
コンビニの自動ドアの前で右往左往するケンちゃんがいた。
「和花ちゃん、ごめん!!」
目が合った瞬間、ケンちゃんはがばっと頭を下げてきた。
「え。わ……やめて、頭上げてっ!」
私はそばに駆け寄り、頭を下げたままの彼の顔を覗き込んだ。
「昨日は飲み過ぎで意識なくして……ごめん! 俺、和花ちゃんに失礼なことしなかった?」
ケンちゃんは不安そうな子犬のような目で私を見た。
「大丈夫。昨日も楽しかったよ。心配しないで」
「……本当に? 楽しかった?」
「本当に楽しかった!」
微笑んで言うと、ケンちゃんの顔にやっと笑顔が戻って、ホッと胸をなでおろした。
「ありがとうございましたー!」
コンビニの自動ドアが開いたらしく、中から元気な店員の声と、お客さんが出てくる気配を感じた。
私は、出口正面の位置にいる私たちが邪魔になると思い、顔をあげ避けようとした。
「あっ……」
瞬間、胸に刺すような緊張が走った。
「瀬名さん……!」
店内から出て来たお客さんは瀬名さんだった。
どうしてここに!?
瀬名さんは私と目が合った後、表情崩さずそのままケンちゃんに視線を移し、すぐに私に戻した。
固まり声を失っていると、ケンちゃんは私の視線の先を追った。
「和花ちゃん? 知り合い?」
私の胸は大げさなくらい、バクバクと心臓の音を響かせていた。苦しくて、言葉はさらに喉に詰まる。
「ただの知り合いです」
変わりに瀬名さんがケンちゃんに向かって喋った。
にこりと余裕の笑みを浮かべながら。
……ただの、知り合い……。
瀬名さんの放った言葉が、私の耳の奥で何度も繰り返す。
「和花、またな」
いつもと変わらない涼しい表情で、瀬名さんは私の横を通りすぎる。
「まっ……」
瞬間私は振り向いて、瀬名さんの背に向かって話しかけようとした。
だけど、喉の詰まりはとれなくてそれ以上声が、言葉が続かない。
「和花ちゃん?」
ケンちゃんが心配そうに私の顔を覗く。
結局私は、ケンちゃんがいる手前、そのまま遠くなっていく瀬名さんの背を、黙って見送ることしか出来なかった。
ケンちゃんと私は職場前のコンビニから近くの公園に移動した。
噴水近くのベンチに座る。
「さっきコンビニで飲み物買えば良かった……。自販機で買ってくるね」
「うん、ありがとう」
少し離れた場所に設置されている自動販売機に向かう彼の背を見送った。
会社の通用口に向かっているときにバッグの中でスマホが鳴った。あの時はケンちゃんとばかり思い込んでいたけれど、相手は瀬名さんだったんだ……。
きっと、私に用事があって電話してきてくれて、コンビニに……。
どんな、要件だったんだろう。
当たり前なのに、他人行儀な瀬名さんの態度が脳裏に浮かぶ。するとずきんと胸が痛んだ。私は明らかにショックを受けていた。
「……和花ちゃん、大丈夫?」
お茶を買ってきてくれたケンちゃんが、まだ上の空の私にそっと、優しく聞いた。
「ごめんケンちゃん。私、ぼおっとしすぎだよね!」
あわてて笑顔を取り繕った。
すると、ケンちゃんが心配そうに眉尻を下げて笑った。
「和花ちゃん、また泣き出すかと思った」
「……え?」
その言葉にドキッとした。
私がケンちゃんの前で泣いたのは、初めてのデートで、プラネタリウムの満天の星を見終えた時。
……瀬名さんとした約束を、果たせなかったことを思い出した時だった。
「具合悪いなら送っていくけど、どうする? タクシー止めようか?」
「ううん、大丈夫。具合悪いわけじゃないから!」
優しく気遣ってくれるケンちゃんに、私の胸はズキズキと痛んだ。
「あ、あのね、ケンちゃん。さっきの人なんだけど……元彼なの」
私はケンちゃんに対して嘘はつきたくないし、誠実でいようと思って正直に打ち明けた。
「元彼……か、やっぱりただの知り合いってわけじゃないと思った」
ケンちゃんはさっきよりも眉尻を下げながら、ハハッと笑った。
「で、でも、本当に! 瀬名さんが言ったように今はただの知り合い。あの、実はね、再来月結婚する共通の友達がいて、その披露宴で余興することになって、最近会ったの……」
私は困ったような表情で微笑み私を見るケンちゃんに向かって、必死になりながら説明を続けた。
「打ち合わせでは何度かどうしても合わなくちゃいけないんだけど…でもそれ以外では会うつもり無いし、デートは……ケンちゃんとだけだから!」
「和花ちゃん、そんなに慌てなくても別に俺、疑ったりしないよ?」
急にぷぷっと笑ってケンちゃんは私を見た。
「う、わぁ……。こんな和花ちゃん、貴重! 超可愛いっ!」
「え? 貴重? わっ……」
ケンちゃんの言ってる意味が分からなくて首をかしげていると、にこにこ笑いながらケンちゃんは、私の頭に手を伸ばしぽんぽんと撫でた。
「俺に誤解して欲しくなくて、必死になってる。それってさ、俺、少しは見込みがあるってことでしょ。すっげえ可愛いよ。たまんねえ!!」
「ケンちゃん……! やめて。髪が変になる!」
さらに私の頭をぐりぐり撫でまわし始めるケンちゃんに、私は困惑した。ケンちゃんの手を両手で掴んで阻止しする。すると、優しい瞳をしたケンちゃんと目が合った。
「瀬名さんだっけ、その元カレと別れたのは……最近?」
私はケンちゃんの手を離すと、首を横に振った。
「ううん、別れたのは半年以上前。……ケンちゃんと出会うずっと前だよ」
ケンちゃんは、優しい落ち着いた声で「そっか」と一言、呟いた。
すっかり沈んでしまったように見える彼の様子に、不安がよぎる。
ああ、後悔……。もっと平然とした態度を取ればよかった……。
瀬名さんに遭遇して、動揺してる私を見てきっと、不安になったよね……。
「背が高くて、ハンサムだったね。スーツも皺がなくビシって決めてて、仕事ができそうな雰囲気バシバシに伝わってきた。……まあ、あんな男から見ても男前、そう簡単には忘れられないよな~」
ケンちゃんはベンチの背もたれに凭れながら、笑い明るい声で言った。
その様子に私の胸が苦しくなった。
「でもね、ケンちゃ、……」
「それでもいい! 俺は受け止める。今の和花ちゃんは俺のモノだし……!」
「え!? 俺のモノ……?」
突然のケンちゃん発言に私の思考はストップした。
前向きにケンちゃんのこと考えているよって言いたかったし、瀬名さんを忘れられないと言われてどう返答したらいいか困っているうちに、ケンちゃんは先へ先へと話を進めていく。
すると、いきなりケンちゃんは私に向き直った。顔は、どこまでも真剣だ。
「忘れさせてやるよ。元カレなんて」
「……ケンちゃん」
「和花ちゃんを超ハッピーにしてあげる!」
……こんないつまでも悩んでいる私を、受けとめてくれるの?
超ハッピーにする発言に一瞬驚いたけれど、笑顔のケンちゃんが本気で言っているのが伝わってきて、じわりと胸が温かくなっていく。
……ケンちゃんって、本当に優しいな。
思いがけない言葉とケンちゃんの優しさに触れて、私は感動していた。ケンちゃんの笑顔が涙で滲む。
「ケンちゃんの気持ち、嬉しいです。本当にありがとう……」
私は、これ以上ケンちゃんに心配かけない様に涙を堪え、満面の笑みを浮かべた。