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苦手な方はご注意ください。

犬も歩けば棒に当たる

作者: Tokyoshi

  キャベツとレタス




 「そりゃあ死にたくはないけどサ」少年はいった。三角座る少年のつるやかな膝小僧は、火星の丘のよう。「でもだから死んでもいいのかなあって気もする」

 「どういう事だい?」

 「死にたくないって事はサ、生きたいって事じゃん。生きたいって事はサ、生きがいとか希望とかがあるって事じゃン。そういうのがあるのって幸せな事だと思う。だから、そう思えてる内に死ぬのがいいんじゃないかって気もするんダ」

 「ふうん」ぼくは解ったような、解らないような。

 「どうせこれから先すっごく苦労しなきゃでしょ、まあ楽しい事もあるだろうけど、悔いは残るけどだから悔いはないっていうかさ、うまく言えないけど、とにかく、何だろう、ぼくはずっと、誰かに殺して欲しかったのかも。自分で死ぬ勇気はないし死にたいとも思わないけどさ、でも何か、今死んだらそれはそれで幸せだった、まあ悪くない人生だったって言える気がする、これから良くなる余地が残ったまま死ぬからね、ああ生きてれば、世界一幸せになれたのになあ、みたいナ?」

 「君は変わってる」

 「たまに言われる」

 ぼくは少し長い瞬きをした。

 「君はさ、」ぼくはにわかに思いついていった、「やり残した事とかないの?」

 ぼくを見る少年の目。それからどこかを見る少年の目。

 「そりゃああるヨ。さっきも言ったけど、生きてる以上希望だけは誰にも奪えないからね」

 「どんな事なんだい、君のやり残した事」

 「そうだね、いくらでもあると思うよ。例えば、上見路(うえみじ)三茶子(みちゃこ)の最新作も買ってまだ読んでないし、『ライフイズビューティフル』もまだ観てない。ライオンにも触ってみたいし、ねぎをおいしいって思いたい。ぼくはまだ飛行機に乗った事ないんだ。てゆうか、東京を出た事ない」

 「何とかみちゃこは知らないけど、『ライフイズビューティフル』は観たよ。とてもいい映画だった」

 「おじさん、ぼくに命乞いさせたいの? 生きたいって思わせといて殺すのが趣味? セイヘキってやつ?」

 思ってもみなかった発言にぼくは失笑した。少年もつられてへへへと笑った。

 「おじさんはさあ、どうして人を殺すの?」少年はぼくを見る。眼球。そして訊いた。黒目の一部に光が反射して、そこだけ光を放出しているよう。丸くて、作り物めいて見えた。何かをじっと見つめる赤子のような、頑是ない目だった。今まで殺した人間に、そんな目をした者はいなかった。

 「今はまだ、うまく言えない気がする」

 「ふうん。色々あるんだネ」

 「色々ある」そう、色々ある。

 「君は東京を出るとしたら、どこへ行きたいんだい?」

 「そうだなあ、大阪かナ」

 「大阪? どうして?」

 「テレビとかで観てるとさあ、ヤバそうじゃん。めちゃめちゃうるさいじゃん、あんな所に実際行ってみたら、どんな感じがするのかなあと思って」

 「うるさいだけのロクでもない場所だろう」

 「多分そうだけど、ぼくのクラスにも、一人大阪からの転校生がいるんだ。そいつもやたらにうるさいんだよ。ぼくがいくらそっけない態度取ってても、『お前何しテンネン』とかって話しかけて来るんだよ、メンドクサイでしょ?」

 「メンドクサイ」

 「でね、そいついつも同じ話ばっかりするんだけど、551食べたい、新喜劇見たい、なんで東京にないねん、ばっかり言うんだよ。そんなにすごいのかなあってちょっと気になってきちゃってサ」

 「大阪」

 「大阪。おじさんは行った事ある?」

 「ない」

 「ふうン」ごく自然な(またた)きの時間。少年のふうンで止まった唇。

 「行って見ようか」

 「え?」やはり少年の頑是ない眼球。

 「大阪」

 「まあいいけど、ぼくの事殺すんじゃなかったの?」

 「殺すのはいつでも殺せるよ」

 「ふうん。まあ行って見てもいいよ」

 「じゃあ行こうか、今から」

 「いいけど、ぼく学校に行く途中だったんだけど、」

 「呑気だね。君は殺されるところだったんだよ? 学校なんて休めばいい」

 「おじさんワルだね。じゃあ551食べて、新喜劇見たい」

 「大阪がぼくのイメージ通りなら、賭けてもいいけどそれだけじゃあ済まないヨ」

 もちろんそれだけじゃ済まなかった。というか、それどころじゃなかった。





 ぼくらを残した世界全体が後退した。それ位静かに、新幹線は発車した。少年は窓に顔を近づけて外を見、ガラスが曇る度に手の平で拭いた。走馬燈のように駅に残る人が過り、気付けば途轍もないスピード。近くを忍者のような電柱が過ぎ、遠くには大名のような山。少年は飽かず、外を眺めている。

 「ぼくこんなに遠出したの初めてだよ」

 「誰かと出掛けたりしないのかい?」

 「しないよ。学校にも、友達いないし」

 「どうしてだい? 君はぼくと普通に話してるじゃないか」

 「そりゃあおじさんが知らない人だからさ。無口な人だけが友達いないわけじゃないよ。ぼくは誰とでも話せるけど、でも仲のいい友達はいない。」

 「どうしてだい?」

 「どうして? 解んない。人と話すのが嫌いなわけじゃないけど、一人でいたくなる時もあるんだ。いつも誰かとつるんでる奴を見たら、ばかだなあって思っちゃう。なんか子どもっぽいじゃン。多分どこかで見下してるんだよ。そういう奴らを。だから友達が出来ないんだ」

 「じゃあ友達になろうっていえばいいじゃないか。遊びに誘うとか」

 「ヤだよ。もうぼくは友達がいないイメージがついてるから、今更誘っても、『ああこいつは友達がいないから友達が欲しくて誘って来たんだなあ』って思われちゃうじゃん。そいつらに内心でばかにされちゃうじゃん。それだったら一人でもいいよ。」

 「淋しくはないのかい?」

 「別に一人でいるのがいやなわけじゃないんだよ。『あいつはいつも独りでいて可哀想なやつだなあ』って思われるのいやなだけ。でもそれよりも『淋しいから誘って来たんだ』って思われるのがもっといやなの。ぼくも別にすれ違ってちょっと喋る人ぐらいはいるんだヨ? ただ何となくそこまで。何となく気を遣われてるの分かるし。大人数だと会話にもうまく入れない。『こいつおれらと仲良くしたくて頑張って会話に入って来たぞ』って思われるから。別にいいんだ。もう慣れたし」

 少年、孤独。君も。抽斗を開けたら削っていない鉛筆が一本だけコロコロと転がり、、。若い頃の記憶。

 「だからサ、久し振りなんだよね、誰かとどこかへ行くの。結構楽しみにしてるんダ、大阪」

 「そうだね。きっと面白い所だ」あの抽斗はどこの抽斗だったか。今見たら、鉛筆が増えているかもしれない。

 場内アナウンスが流れて来た。

 「間もなく、大阪に入るでぇ」ふざけたアナウンスだ。

 「到着したでぇ。はよ降りなはれ」ぼくらは急いで新幹線を降りた。

 天井がとても高く一気に開放された気持になった。まだ大阪に来たという実感は湧かない。大局的に捉えたホームの喧騒は、東京のそれと殆ど変わらなかった。がぃやがぃや。

 ぼくらは改札を出た。雑多な喧騒が、個々の独白になって聞こえて来た。皆が大阪弁でまくし立てていた。大阪に来た。

「はあ? ちょおどこの改札おんのん! あたしは切符買うとこおるから。マッハで来いマッハで、ミハエル・シューマッハで来い! ぅぅヴヴン?(レーシングカー走行音)」

「ちゃうやん! おばあちゃんみたいなんはポールマッカートニーや。え? 果物? 多分それリンゴスターや。え? ちゃうて、2001年に肺癌で死んだんはジョージハリソンや。ぃゃ何でジョンレノンだけ出ぇへんねん」

「みーたん! なんやどうちたん? さみちくなったの? え?ねぎ? またぼくちゃんのおねぎをにぎにぎしたいって? はーい、にぎにぎ、にぎにぎ、え? ああ、、おかんか。あぁねぎな。おお買って帰るわ! うん、じゃあ。はい、はーい。、、、、、、、。ああああああああああああああ! ああああ! あああああああ!!」

 「取り出せキップ。待ち合わせヘップ。ちゃんと最後まで出せやケチャップ」

 なんて騒がしい街、大阪。

 「取りあえずどこに行こうか?」ぼくは少年に訊いた。

 「どこでもいいよ。おじさんは?」

 「そうだなあ、じゃあ通天閣に行こうか」

 「ぅわぁ陳腐だね。おじさん『タイタニック』で泣くタイプでしょ」

 「ものすごい偏見だね。御堂筋線で一本らしい。行こうか。因みに『タイタニック』は泣いたよ」

 動物園前に着いて、そこから歩いた。

 ぽっかりと(そら)

 通天閣は何処かへ消えていた。



  パセリ




 小学校の頃、朝家を出る前にテレビを見ていた。放送時間は30分で、半分終わった8時は15分くらいに必ずCMがあった。いつもその時に家を出ていた。だから最後まで見る事はなかった。それで、夏休みとかに最後まで見て、初めてエンディングの曲を聞くと、とても変な感じ。いつもと同じ部屋なのに、全然違う空間に放り込まれたような気分になる。そういう事ってあると思わない? テレビの横の変なアフリカみたいな置物とか、窓から入って来る電気を点けなくても十分に部屋を照らす陽光とか、でもいつもよりかげった温か味のある天井とか、全部変な感じ。

 それが今の私の気持。ちょうどぴったり。ぴったりちょうど。お父さんより先に家を出て、高校には行かず帰って来る。通学定期を越えても電車から降りず、テキトーな所で対向するホームに行って、帰って来る。いつも降りる駅で降りず、また変な感じ。いつも電車で一緒のどこかの高校生を見送る。そしてまたその時間には乗るはずのない電車に乗って帰って来る。家に入ると、家の中全体に午前の色のない光が差し込んでいる。廃墟みたいで、人が住む所じゃない感そうとう。玄関を上って左は直ぐにキッチンで、突き当り右に私と父の共用の、半ば父専用のリビングがあり、左に私の部屋があった。そしてリビング手前に父の部屋がある。私はリビングに向かった。ロビンソンクルーソーが誰もいない家を探検しているような気分。読んでないけど。蛍光灯は消えていて、埃がきらきら舞っている。部屋に入ると直ぐにL字型のソファがあり、ベランダに出る為のガラス戸の横に小さなテレビが置かれている。勢いよくソファに座ると、埃が舞い上がった。それはどこかで見た噴火のシミュレーションみたいに複雑な軌跡を描いて、また漂い始める。

 無遅刻無欠席の私は、今日初めて学校を休む。体調は万全で、いじめられてもいない。友達だってけっこういるし、勉強もまあ苦じゃない。学校は、みんなが悪口をいっているほど嫌いじゃない。私も周りに合わせてだるいだるい言うけど、たまの非日常な学級閉鎖とかはテンション上がるけど、でも大体は好き。だから、休んだのはそんな理由じゃない。

 昨日、夜、私はスーパーにいた。母が亡くなってから、朝食は大抵パン。その日、私はスーパーにいた。焼きそばパンを手に、他に何かないかと徘徊していた。新発売のとか。知ってるけど食べた事ないのとか。食べたいのは何もないな、そう思った。私は焼きそばパンを手に持っていたけど、その事を意識しなかった。確か家にまだパンはあったし、今日は買わなくてもいいか、そう思った。メロンパンを見た。メロンパンがあった。スーパーのそれと購買部のメロンパンの微妙な違いについて考えていて、そこから高校の事を考えた。明日の体育は何だったかとか、雨が降らないかとか。国語は新しい話に入るんだったかとか。宿題があったら誰に見せてもらおうかとか、そんな事。

 そしてよく知った道。電柱。ガードレール。自動販売機。偶に吠えて来る犬。そのままスーパーを出ていた。よく知ったスーパーからよく知った家に帰るから、ぼんやり何かを考えたままで歩いた。角を曲がった所で、ふと右手の親指と人差し指につままれて揺れている薄くて冷たい感触が意識に上った。振り子みたいにぷらぷら揺れていた。万引き。自分が万引きした事に気づいた。どうしよう、そう思った。焼きそばパンをつまんだ手には、落とすまいと力が入っていた。どうしよう。取りあえず歩くのを止めて、少し考えて見ようか。いやでも今立ち止まったら、誰かに声を掛けられる気がする。私は何でもない顔をして家への道を歩いた。どうしよう。どうすればいいの? 今からスーパーに戻って、パンを返せばいいの? そんなの絶対にダメ。そのせいで万引きがばれるかも知れないから。もう遅い。全て手遅れ。私は後ろを振りかえることが出来なかった。誰かがこっちを見ていたら。目が合ったら。追い掛けてきたら。どうしよう。私は立派な犯罪者だ。お父さんのたった一人の娘なのに、犯罪者になっちゃった。どうしよう。どうしよう。足が速くなったり、遅くなったりした。こんなにも簡単に、人生は終わるの?

 私は気付いたらもう家にいた。ただいまも言わなかった。分厚い重い鉄の扉を開けて閉めた。

 「帰ってたのか。何とか言ったらどうなんだ」お父さんがいった。テレビを観ていて、こっちを振りかえっている。

 「ああ? 明日のパン買って来たのか。いくらだった? お金払うよ」お父さんはそういった。別にいいよ、私今困ってないし。私はそう言うのが精いっぱいだった。もちろん盗んで来たパンだなんて夢にも思ってない。私はそのまま部屋に入り、トビラを閉めた。

 どうしよう。防犯カメラとかに映ってて、スーパーの人が家まで来たら? お父さんはきょとんとした顔で応対するんだろう、それから私の部屋をノックして、スーパーの人が今来たけど、万引きしたってホントなのか? そう訊く。どうしよう。気付いた時に、すぐ戻ればよかったのか。すぐ戻らなかった私が悪いのか。犯罪って、そんな事なのか。気付いた時に戻らなかった事が、悪い事なのか。私はその晩は、ほとんど話さなかった。私はくたびれた布みたいな味のするオムライスを大量に残した。お父さんは、学校で友達とケンカしたと思ったみたい。そんな事だったら、どんなにいいだろうか。私の様子のおかしいのに気づいて、夕食を私の好きなオムライスにしてくれたお父さんの優しさが、不必要に痛かった。苦しかった。いっそ自分から話そうか、でもダメ。きっとスーパーに返しに行って謝ろうっていうから。もし何もないまま過ぎ去れるなら、そうしたい。自分からいい出す勇気なんてない。ああ、一人になりたい。誰もいない所へ行きたい。そこで罪を償ってから、帰って来たい。

 翌日、つまり今日、私はいつも通り家を出た。そして、電車に乗って、学校の最寄りでも降りずに戻って来て、家に帰って来た。学校に行けなかった。もし、学校に連絡が行ってたら? 登校したら、ちょっとお前、職員室に来い、って言われて、これは本当なのか、って詰問。私は大体において優等生だったから、先生も憐憫を最大限に顕した表情で私を見る。そんなのいやだ。どうせなら心の底から軽蔑してくれればいい。お前は最低のくずだ、罪を償え! そう言ってくれればいい。平手で思いっきり頬を張って欲しい。そうしたら、どんなにスカッとするだろう。どうしたんだ? 何かあったのか? 辛い事があったんならいってみなさい。そんなの、私の傷口に塩塩塩。違うんです、盗むつもりはなかったんです。そうか、そうだろうな、君は人の物を盗むような娘じゃない。まあ仕方のない事だ。終わった事だ。一緒に謝ろう。サイアク。

 私は誰もいないリビングで、一人天井を見て、全身脱力した。しばらく、誰とも話したくない。どこか知らない場所へ行きたい、そう思った。突然部屋が宇宙まで飛んで行って、月に着陸して、夜までそこで過ごしたい。ああ、一生に一度のお願いを使ってもいいから、明日にして欲しい。今日一日誰かにあげる。捨ててもいい。私は立ち上がり、リビングを歩き回った。押入れのふすまが開いたまま中の収納ケースが見えている。壁側には本棚が三つあって、辞書とか、雑誌とか、DVDとかがまばらに入っている。テーブルには灰皿と、リモコンが乗っている。何も、私の気を紛らわさない。全部知ってる。でも一つ一つ、つぶさに観察していく。リモコンの音量ボタンは、文字がかすれている。本棚の重みで畳が少し凹んでいる。辞書が、上下逆さまになってる。

 ふと、ふすまが開いたままの押入れの中に、葉書を見つけた。それは衣装だなと壁の隙間に入れられており、先が数センチだけ見えていた。葉書を手に取った。日焼けした長方形。葉書の差出人は、知らない女性だった。不意に胸が高鳴った。誰だろう? 父は誰からの葉書を、こんな所に隠しているのだろう?

 結婚する事になりました。少し崩れた女性の字で、葉書にはそう書かれていた。それから、綺麗な女性と背の高い男性の、晴れ着姿の写真があった。父の、昔の恋人だろうか。届いたのは大分前だったけど、年齢的にも、多分父と同じくらい。だとしたら、父が忘れられない女性。母以外に、心にい続ける女性。とても気になった。

 住所を見ると、大阪だった。父は福岡で生まれ、大学から大阪に出て来た。そして卒業とともに東京へ来て就職し、そのまま東京に住んでいる。父の大学時代の恋人。会いたい、ふとそう思った。あなたの昔の恋人の娘です、私は失笑した。そんな事、迷惑でしかない。向うも困るだけに決まっている。でも、私の知らない父を知っているその女性が、ふと羨ましくなった。別に父を溺愛しているわけではなかったが、そのとても綺麗な女性に会って、話したいと思った。

 私は大阪へ行こう、そう思った。





 びっくりして座席を確認した。ただ、新幹線が発車しただけだった。景色が静かに後ろへと流れ、駅で待つ人々が非常識なスピードで消えて行った。

 私は持って来た焼きそばパンを、手で弄んでいた。どうしよう、食べてもいいのかな、もう返すわけにはいかないんだから、捨てるのはダメだ。どうせなら食べて、その味を?みしめるべきなんじゃないか。罪と向き合う。私は急速に離れつつある東京を思った。そこでは父が働いていて、私のいない高校があった。みんな今頃、つまらない授業を受けているのだろう。心地よい背徳感。皆が宿題を必死に写している間、忘れた体操服を借りにいっている間、先生が暖房の効いた職員室でテストを作っている間、短い休む時間の内に女子トイレに長蛇の列が出来ている間、並ぶのが嫌で誰かが遠くのトイレに行っている間、私は新幹線の中で早送りみたいな景色をただ眺めている。昼の月とにらめっこ。引き分け。でもすぐに、不安に。暗い鬼が来る。学校に警察が行ってたりしないだろうか。まさか、万引きぐらいでわざわざそこまでしないか。でも分からない。クラス中に知れ渡って、会社にも連絡されて、それで、私は瞬く間に犯罪者になって、これから先の輝かしいはずの人生は崩壊する。そんなのイヤだけど、もうどうしようもない。

 私は今、人生の大きな分岐点にいるんだ、そう強く思った。もしこれから犯罪者になって刑務所に入ったりして、どん底の人生を送り始めるとしたら、今この瞬間はとても重要な時間なんだ。この日常は、もう最後かも知れない。今の気持、記録しておかなくちゃ、そう思った。この気持ちは、きっと一ヶ月もすればほとんど忘れてしまうと思う。今日が日常最後の日だったとしても、何でもない一日のいつも通りの気持でいた日として、平凡な過去になる。でも私の人生の大きな、重要な時の、大切な気持なんだ。絶対になくしたくない、そう思った。

 私は持って来ていた学校カバンからノートとシャーペンを取り出し、今の気持を赤裸々にあらわした。順序とか一貫性とか何も気にせず、ただ思いついた事から書いて行った。「犯罪者」とか「万引き」とか書こうとすると、無意識に力が入った。もし誰かに見られたら、そのせいで隠し通せた筈の事が露わになってしまう。でもせっかく書く気持に少しも偽りを入れたくなかったし、隠し事もしたくなかった。「犯罪者」と書くと、不安が否応なく増大した。私はとんでもない事をしたんだ、そう思った。

 ノートの一ページがうねうねした字で埋まり、次のページ。これは前に書いている、そう思う事が多くなった。「このまま犯罪者になるのだろうか」とか、「車掌が来て私を連行するんじゃないだろうか」とか。同じ事ばかり書いて、次第に書く事がなくなって来た。すると何故か、ほんとに不思議な事に、全部馬鹿らしくなって来た。万引きした事などばれるはずがないし、ばれるなら昨日の内に何か起こっている筈だ。それが今日になっていきなり新幹線の中で捕まるはずがないし、きっと何も起こらない。新幹線が東京を離れるのに比例して、私の中の私を責め苛んでいたモノも弱く薄くなっていった。なんだか可笑しい。読み返すと、ついさっきの自分までが馬鹿みたい。そんな事起こるはずがなかったし、起こったとしてもそう大した事じゃないじゃん。どうにかなるんだきっと。今までもちゃんとどうにかなって来たから。とても吹っ切れた気持になった。私は俄然、葉書の女性に会うのが楽しみになった。お父さんとの悪くはないけど良くもない関係とか、まだまだもっとある高校生活とか、色んな事が一気に変わる気がした。だって、皆が忙しく勉強してる時に、私は一人で大阪へ行くんだから。

 高校の友達から連絡が来た。

 「大丈夫? 急にガッコ休むからみんな心配してるよ?」その口調からして、警察なんて来てないらしい、ふふふ。私は一人新幹線の席で声を出して笑った。それから両膝を揃えた。

 「大丈夫だよ、私は今日も絶好調です 焼きそばパンには負けません(笑)」返事は来なくて直ぐに後悔した。狂ったと思われちゃった。

 大阪、とても楽しそうな所。まだ行った事の無い、外国みたいな所。多分きっと、素晴らしい出会い。



   キャベツとレタス

 

 

 

 「おじさん、通天閣はどこ?」

 「おかしいな。この辺りのはずなんだが。あんなものが見つからないって変だな」通天閣があったであろう場所には、空。冬の乾いた風が遮るもののないそこを抜けた。部屋に窓がなかったり、教室に机がなかったり、水槽に魚がなかったり、明らかにそこに何かがない、そんな淋しさがあった。ぼくらは立ち尽くし、仰ぐアンナチュラルな空。

 「通天閣、お散歩中かな?」少年がふといった。

 「そんなばかな、『トイストーリー』じゃあるまいし」

 「どっちかというと『ナイトミュージアム』だよね。変なチョイスだねおじさん、生涯の一作に『ランボー』とか選ぶタイプでしょ」

 「ものすごい偏見だね。『ロッキー』の方が好きだよ」

 「で、どうするの?」

 「そうだなあ」

 「おおい! 通天閣はどこですかー!」

 「こら、大声を出さないでくれ」

 「なんじゃあこらエテ公! 通天閣探しとんのんかわりゃがきゃあ!」ほら見ろ絡まれた。イメージ通りじゃないか、大阪。

 少年と同時に振り向いた。俄かに襲う既視感。つり上がった目、尖った頭、異様にでかい足。いつも長座の姿勢で、足の裏をやたらに触られる、、、

 「あー!」少年は大声を出した。

 「フリテンさん!」

 「ビリケンや。ワレ失礼やないかい。どたまカチ割って脳みそちゅるちゅ」「テレビで観たことある! ほんとにいたんだ」

 「最後まで聞かんかい。吸うで? あの途中で曲がらんほっそいストローで。紙パック買うたら貰えるやつや。押さえながら飲まなストん中ぇ落ちて結局ラッパ飲みするんや。ええ加減にせえよほんま」

 「どうしてビリケンさんがこんな所にいるんですか?」ぼくは慇懃に尋ねた。

 「お前らが騒ぎ散らすからやろがい。やれ通天閣がないだの、通天閣を返せだの」

 「返せとはいってないです」

 「フリテンさん通天閣の場所知ってるの?」

 「ビリケンや。わしゃあリーチ行く前によお見るタイプなんや。誰がフリテンさんやねん。」ぼくらは笑わなかった。

 「よく分かんない。」少年はいった。若いとは、可能性だ!

 「分かれや! だからリーチ行く前にちゃんと見るんや。ほんで待ち捨ててるどうのこうのよりそもそもあと一個引っぱって来なテンパイちゃう事に気づくんや。」

 「ただのイーシャンテンじゃん」

 「知っとるやないか」

 「それで、通天閣はどこなの?」

 「せっかちなガキや。嫌いやない。ええか、よう聞け、体中の穴カッポじって聞けよ。」

 「うん」

 「カッポじったか?」

 「カッポじったよ。」

 「見せてみい」

 「はい」

「ほんまや! ようカッポじりよった。どあほ! ほんならよう聞けよ。通天閣はな、旅に出たんや。」

 「旅に出た?」

 「旅に出たってどういう事ですか?」

 「旅に出たは旅に出たや。お前ら通天閣見たいんやったら、連れ戻せ。お前ら二人で。」

 「連れ戻す」

 「お前らが通天閣を探し出して、ほんで降りかかってくる困難とかも全部乗り越えて、大冒険して、スペクタクルの末に、連れ戻すんや。お前らなら、出来る!」

 「連れ戻すの?」少年が呟くように言った。

 明らかに面倒そうだった。通天閣を連れ戻す。どう考えてもまともじゃない。なんて街だ、大阪。少年よ、力一杯断ってくれ!

 「いいよ。」ええんかい。

 「ええんかい。」あんたも驚いとるやないか。

 「だって、楽しそうじゃん。ぼくらも別に忙しくないし」

 「ほうかほうか。そりゃあ有難いわ。アリがタイや。蟻が海老で鯛を釣るわ。」

 「で、どこへ行けばいいの?」

 「それが分かったら苦労せえへんやろguy ! おい!boy!」

 「じゃあテキトーに探せって事?」

 「当たり前ダの、く」「ヒントぐらいないの?」

 「ないよ。人生にヒントあってたまるかい。ガキ、『マナブ』は『真似ぶ』や。免許はオートマにしとけ」

 「免許持ってないし」

 「ほな取りに行け。ええか、親父の車に練習やゆうて無免許で乗れる時代は終わったんや。」

 「どういう経緯でいなくなったんですか?」ぼくはたまりかねていった。

 「わしのプリウスがかい。」

 「通天閣がです」プリウスがいなくなった? ちょっと気になるけど今は後回し。てゆうかプリウスに乗ってるのか。

 「だから言うてるやろ? 大阪有識者会議してたんや」いってません。大阪有識者会議?

 「会議中にいなくなったんですか?」

 「ちゃうて、いうてるやないか。そもそも来んかったんや。」いってません。

 「何かヒントはないんですか? てゆうか、あの大きさのままどこかへ行ったんですか?」

 「そんなわけないやろ。言うてるやないか。何回言わすねん。あいつは大きさ自由自在やから。それと言い忘れてたけど、あいつ食い倒れ太郎と付き合ってるから。」マジで? それは先言って。

 「どっちが女性なの?」少年、何て柔軟な問いなんだ。

 「どっちも男や。」マジで?

 「わしは身体も心も女性や。」マジで? そういえば、肌が綺麗だ。いやいや言うてる場合か。

 「肌がきれいだね」いうてるやん。

 「おだてんなや。出て十五万やぞ?」まあまあ多いな。初任給手取りやん。

 「本心だよ。それに爪もすごく綺麗」

 「ちょお待て、ブス褒める時のやつやないかい。爪と肌て。まあええわ。しゃあない。ヒントやろう」あるんなら初めからください。そういえば、足裏のこちょばしは効かないのだろうか。

 「ミナミや。大阪はミナミや。そこにヒントがある。」

 「南? 南極まで行くの?」

 「ポチ、ハチ! 生きてたのか! 言うてる場合か!」ぼくらは笑わなかった。生きてたのはタロとジロだ。訂正した方がいいのだろうか。訂正を待ってる? だとしたらメンドクサイ人種だ。

 「ミナミいうたらなんばの事や。動物園前まで戻って御堂筋乗ってなんば行ったらええ。」

 「そこに行ったら見つかるの?」

 「少なくとも、状況は動き出すわ」ビリケンさんは確信を持って言った。どうしてそう言えるんだろう? ビリケンさんは何かを知ってて、あえてぼくらに言ってない?

 「ねえ、また会えるかナ?」

 「じゃかあしゃあ、ガキ。会える時は会えるんや。昔から蝸牛角上の争いいうてな、蝸牛いうのはカタツムリの事や、カタツムリの角同士が戦ってるみたいにつまらん事を、あれ? わしは何言おうとしたんや? まあええわ。大して世の中分かってないんやからガキらしく鳴いてタンヤオでもしとけ。」

 「あっそうか、関西では4人打ちなら鳴いてタンヤオもアリなんだったネ」

 「めちゃめちゃ知っとるやないか」 

  ぼくらはなんばへ向かった。


  パセリ




 新大阪に着いて、新幹線を降りた。天井の低い車内にいたのはほんの二、三時間だったけど、全てが目新しく見えた。初めてテレビジョンを見た人みたいに。もちろん知らないけど。歩く人も、その服装も、床の点字ブロックも。改札を出ると、たくさんの人が行きかっていた。東京の方が人は多かったけど、こっちの方がうるさい気がした。さっきまで静かな車内にいたからかしら。多分違う。本当にうるさい。

 「三連単はやめとけゆうたやろがい! お前今月の生活費ぱあやないか。いやチョキ出したら勝ち言うてる場合か! 住之江の池沈めたろか。ナアお前、ちゃんとせえ! (泣き声で)ちゃんとせえ! にょうぼまた豆腐買いに行ったまま帰って来えへんねん。ちゃんとせぇ、、、(語尾嗚咽で霞む)」

 「日頃、ハッピーが不足しているあなたへ? 何やそのマッサージの宣伝は! 余計なお世話じゃあ! 誰のハッピーが不足しとんねん! ふざけた事ぬかすなあほぉ! あれ? これがハッピー不足やん。すんまへんマッサージお願いします」

 「え? 『ガラパゴス』って『ゾウガメのいる島』って意味なん? じゃあ『ガラパゴスゾウガメ』は『ゾウガメのいる島のゾウガメ』って事やん。お前そんなもん『男の中の男』やないか」


 新大阪から地上に出た。目指すはなんば駅。地下鉄で一本。が、見知らぬ土地で、得体の知れない大阪で、あまりうろちょろはしたくなかった。遠くまで来たという昂揚感が、私に贅沢をさせる。それ位の、蓄えはあるのだ。タクシーで行く。

 地上に出て私は手を上げた。タクシーなど呼んだ事がないから勝手が分からず、とりあえず控えめに手を上げた。そのまま、タクシーはいないかとキョロキョロした。車道を挟んだ向かい側の歩道にふと目をやると、退屈そうに道の脇に佇むおじさんと目が合った。下はねずみ色のジャージなのに、上はよれよれのシャツ一枚だった。色は乳白色。乾燥わかめみたいにしわしわだったけど、清潔そうな白だった。袖は肘の少し上まで。どう考えても寒い。目が物凄く垂れていて、鼻梁が心持上を向き、唇は厚かった。おじさんになってやっとおじさんらしくなった、そんな顔だった。

 おじさんがこちらを見ながら手を上げた。満ち満ちた笑顔。あれ? 違いますよおじさん、私はタクシーを呼んでるんです。見た事もない女子高生が手を上げてて目が合った気がしたからって、よくも自分だと思えるもんですね。私は友達でも尻込みするのに。それでいっつも、返しそびれる。(あれどうにかならないのかなあ)私は苦笑いをして、数度否定するように手を振った。違いますよ。あなたに挨拶したわけではありません。もちろん私は愚かだった。手の角度なんて些事。おじさんは歯が見えるくらい笑って、手を振りかえして来た。私は呆れたように口を開け眉間に皺を寄せたけど、おじさんは意に介さない。ちょっと私も可笑しくなって来たけど、変に誤解されたままはいや。私は手は上げたまま、首を左右に振った。悪いけれど、違います。おじさんはぎょっとしたような顔になった。自身の過ちに気付き、ショックを受けた表情。眉間に寄せたしわそのままに、おじさんは道路に視線を下げた。悪い事しちゃったかな、一秒もしない内に顔を上げ、首を傾げながら顔の前で指を一本立てた。もう一回? 何を? 私はよく分からないまま、また首を振った。私が手を上げているのはあなたがいたからではありません。それを見て、おじさんは小さく頷いた。理解したという事だろうか。また一瞬視線を逸らし、また見る。不気味な自信ありげな笑みを浮かべながら、ばしんと指を四本立てて見せる。そのまま止まって、私が何か応えるのを待っている。え? もしかして首を振った回数を数えるクイズを出したと勘違いしました? 見逃したからもう一回見て、自信たっぷりに「四」と答えたんですか? 私はもちろん首を振った。そういう事ではありません。おじさんは首を少しのけぞらせ、分かりやすく驚いた。それから自信なさげに首を傾げながら、指を五本立てた。え違いますよ? 「四」が不正解といったんじゃないんです。新しく答え直さないで。あれ? でももう首を振れないじゃん。また誤解されてしまう。私は首を振る代わりに再度手を振って否定の意を表した。もちろん愚かだった。おじさんはにこやかに手を振りかえして来た。慌てて首を振った。おじさんはぎょっとして自信なさげに両手で「六」を示した。違う。くそう。え? じゃあ私の思いはどうやって伝えたらいいの? 手も振れない首も振れない。言語を排したコミュニケーションがこんなにも難しいなんて。どうしよう。私は必死に考えた。今気付いたけど、タクシー何台も見逃してる。私はずっと上げていた手を一度降ろして、右を見て道路を覗き込むようにしてから、ぴっと手を上げた。そして急いで数歩右へ飛び、上を向けて軽く握った両手を胸の前で動かしながら、二歩進んで、止まった。

 「タクシーを呼んだら、タクシーが止まった」そうジェスチャーで伝えた。取りあえず伝わるクオリティだろう。私なりに、一生懸命やりました。今年で十七になりました。

 私はおじさんを見た。おじさんは停まったタクシーに乗り込む所だった。うそでしょ? えおかしいよね。え絶対おかしいよね。おじさんを乗せたタクシーはありえない勢いで走り去った。

 後ろの歩道を振りかえると、通行人の数人が素早く顔を背けた。見られてた。タクシーを呼んだらタクシーが来るジェスチャーを独りで全力でやるところを見られてた。タクシーを呼ぶための、呪術的な祈りを捧げていると思われた。現役女子高生シャーマンだと思われた。ああもうダメだ。見ていたひとりひとりに弁解したい。違うんです。あのおじさんのせいで。あのくそじじいめ。薄汚いオーロラみたいな裾のシャツ着やがって。誰が首振り回数数えるゲームなんかするか。私は力一杯首を振った。おじさんとの記憶を振り払うために。

 「え? お嬢ちゃん乗らんのかいな? ほんなら呼ぶなや」背後の道路から声が聞えた。振りかえるとタクシーがいた。あ、停まってくれてた。

 「ほんであんなしっかり全部伝えんでも、手ぇ上げたらわしら停まるで?」そういってタクシーは去った。止める間もなかった。そして見られてた。タクシーの止め方が分からないあまり全部やったと思われた。現役女子高生シャーマンだと思われた。また歩道を振りかえると、通りがかった褐色のティーカッププードルが可哀想なモノを見る目で私を見た。「人間にも、色々あるんやな。」もう電車で行こう、そう思った。プードルが頷いた。「うんそれがええ。」

 新大阪駅から、大阪メトロの御堂筋線に乗った。東京メトロにあやかった名前だろうか、不似合いでまじ世紀末。赤いラインの入った、スパイが札束を入れるジュラルミンのケースみたいな車両だった。人は山の手線の方が多かったけど、時折個性の強い人がいた。はち切れそうな位肥っていて、メガネが外せないんじゃないかという女性。花柄のワンピースは良く似合っているけど、どうやって着たんだろう。ない前歯を終始見せながらニタニタしている、試験管を暴発させた科学者みたいな髪型のおじさん。変わった形の鉛筆で新聞に何かを書き込んでいる。胸元にクマの刺繍が施された上下のスウェットを着ており、正直似合っていなかった。見るからに育ちのイイ少年もいた。鮮やかな紺色の帽子を被って、同じ色の心持ち大きな制服を着ている。黒縁の眼鏡をかけ、窮屈そうにランドセルを背負ったまま座席に座っている。読んでいる本はハードカバーで、マンガ三冊分くらいの厚み。とても難しそうな本。「カタカナの『へ』の形而上学的考究 240分で『へ』を理解しよう!」帯には、「『フ』の衝撃から36年。著者渾身の最新作! 『フ』を遥かに超える超大作!」面白いのかな。他の人たちは何もしていないか、スマホをみているかだ。何もしていない人は、広告を見たりしている。

 地下に不自然な広大な空間。それが一個の生き物だとしてその血管のようにパイプが這っている。空洞。中は空気が地上。五分の一程満ちた水。雨水だろうか。あるいは雑排水。暗い。音ない波紋を広げながら井守がしーしーと進む。水面に生起する同心円は

たちまち無秩序なサザナミになり、しばらく動。井守が通り過ぎやがて静。井守はしーしーと進み、どこまでも長いパイプを進む。シンエンが闇を濃くし、井守はしーしーと進む。ぱちゃぱちゃ。

 パイプの中にイモ虫が横たわっている。浅黄色の身体は半分位雨水らしき液体に浸かり、パイプ断面の円を昇ろうとしている瞬きに死す。パイプにも似た管状の身体は、歪な節が幾つもあり、突起がさらにあった。イモムシは水をどかし、波紋は生まない。彼はもはや蝶にならず、波紋も生まない。

 ほぼ一定のエントロピー。

 井守はしーしーと進み、パイプの角を曲がった。曲がると目の前に壁の様にイモムシ。井守は須臾の間立ち止り、液面の揺れがやわらいだ。水平を待たず、井守は知り合いを見つけた様に片手を上げ、それは液面から露出し、へちとイモムシにのっかった。もう一度知り合いを見つけ、イモムシのカラダは少しだけぶにと凹んだ。二ヶ所。井守は足場を確認するように何度も両手をイモムシに押し付けた。その度にぶにブニと凹み、低反発に形状記憶。井守はそのまま両足で知り合いを見つけ、イモムシを跨いだ。尾は軌跡をなぞるようにイモムシを撫で、それは丁度イモムシの節を這い辿った。

 井守はちーちーと進んだ。遥か先までパイプは曲がっていない。

 イモムシは少し押し付けられ、さっきよりも深く液体に浸かった。それでより死骸らしくなった。

 私の頭上のパイプの中。

 なんば駅に着いて、北改札を出た。辺りはテレビで観た網でもがくイワシ達みたいに、無秩序に往来していた。誰もが無関心に見えて、ぶつかる寸前でかわす。ちょっとぶつかったりもしている。そこから地上に出た。人の波はいくらか収まり、ぐううと伸びが出来た。

 ふと見ると、誰かが服を着替えていた。五メートルくらいある常識外の大男だった。公衆の面前で、何一つ疑問に思っていない鮮やかさで着替えていた。しかも、白いTシャツを白いTシャツに着替えていた。状況が理解できなかった。生れて初めて心から、夢であってくれと思った。何だこれは。私の後ろから、二人の若い男の人が話しながら通り過ぎた。

 「おい、誰かやたらデカい男が着替えてるぞ。白Tから白Tに。何考えてんねんあいつ」公共の場での着替えが大阪でも普通じゃない事に相当安堵した。

 「あいつ、火星人やないか」え?

 「ああほんまや。火星人や。ほんならどうでもええわ」え?

 「あの白Tユニクロかなあ?」え? ユニクロ? 火星人どうでもいいの? えどうしよう。帰りたいんですけど。五メートルの火星人の着替えどうでもいいとか帰りたいんですけど。

 「どうやろお? 割と鮮やかな白やからなあ。首元もまだぴちっとしてるし、サラかもしらんなあ」え誰か説明してください。ユニクロかどうかじゃないです火星人について説明してください。火星人は首を通し、腕を通して両手でシャツの裾を腰まで下げた。白無地だと思っていたシャツには、

 「知らんと話しかけた時、第一声で韻を踏んだらそいつは火星人」と書いてあった。シャツが説明してくれた。でも必要な情報じゃなかった。

 「っしゃア! 待っとけヤ、グリコぉ! 絶対断固戦うからナ!」火星人はそう叫んで五メートルの巨体で走り去っていった。一歩ごとにセイウチが落ちて来たみたいな音がしたけど、通りでは誰一人振りかえらなかった。確認ですけど、グリコと戦うって、仮にそうだとしても、企業を相手に訴訟を起こすとかそういう意味ですよね? 間違っても、あのグリコの看板と肉弾戦をするという意味ではないですよね? 大丈夫ですよね? 違いますよね? 絶対に関わりたくない、そう強く思った。

 私は暫く茫然としていたけど、はっと気がついて葉書を取り出した。ここへ来たのは、この女性に会うためなのだ。葉書には名前が書かれていて、住所が書かれている筈の所には、最寄りがなんばである事と、経度と緯度が少数第五位まで書かれていた。まるで分からない。大阪はこういう表記なのだろうか。そんな馬鹿な事があるだろうか。いや、あるかも知れない。ここでは常識は棄てた方がいい。ローマでは、ローマ人の言う事を聞くべきだ。スマホでも位置を特定できず、仕方なく人に訊いて見る事にした。

 振りかえると、道の端に立って空を見上げている人の背中が見えた。少し古びたジーンズの尻ポケットに右手を入れ、清潔そうな白いTシャツを着ていた。一応何となくの視線の先を見たけど、何もない空。

 「すみません。ちょっと道をお尋ねしたいのですが、」私は驚かさないよう、声をひそめて言った。

 その人は振り返った。

 「なんヤお前、ワレワレの前、用があるンナラいうてマエ」さっきの火星人と同じシャツだった。知らんと話しかけた時、第一声で韻を踏んだらそいつは火星人。なんヤお前、ワレワレの前、用があるンナラいうてマエ、嘘でしょ? 韻踏んでるじゃん。え火星人じゃん。火星人は反応を伺うようにニタニタ笑っている。うわあ、火星人に話しかけてしまった。帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい、、、

 「すみません、間違えました」私はそういってサイクロンのように去ろうとした。

 「待たンカイ。道訊いたヤないか。道訊くんに人違いとかあるカイナ」何で筋が通っているんだ。もっとメチャクチャであれ。火星人のくせに。

 「はあ」私は何も言えずにいた。緯度と経度だけ見せてテキトーにごまかして去ろう、そう思った。

 「お前、火星人の事ドウ思てんネン」火星人は少し憤慨して見えた。でもそれをひた隠しにしているという表情筋。

 「別にどうも思ってないです。私会った事ないので」

 「じゃアそんな得体の知レン化けもん見るような目でみるナヤ」そう見るのがこれ以上ない正解ですよね?

 「お前にとっテワレワレは何ナンや」得体の知れん化けもんですよ? え自覚ないの?

 「ワレワレはな、戸惑ってるンヤ、」私もです。

 「何にかって? この街にヤ。ワレワレは火星に住ンデてな、わけあって大阪に来たンヤ。悪いけど、ワレワレは大阪に侵攻する」

 「はい?」

 「大阪を攻め滅ぼすんや。ワレワレはなあ、ワレワレの為ならこの地球なんか、人間なんか、滅んでもエエンヤ! ミィミィファアソォおソォファアミィレェエエ!」火星人は第九の音階を叫んだ。多分笑い声的なやつだ。狂気を感じた。

 「お前らぁあ! 覚悟セエよお! ワレワレはぁ地球を滅ぼすンヤ! ドォオドォオレぇミィミィいいレぇレェエエエ! あああぅらぁあああ! んんじゃあごるぁああああ、でどこまでの道訊きタイン?」え情緒が恐いんですけど、えヤバい人ですよね、関わりたくないって予感当たってたんですけど。もう何としてでもこの場から去りたくて、私は早口で緯度と経度を言った。ここまでの道分かります? 分かりませんよね? すみませんでした。他を当たります。

 「それヤッタラそこの角右行ってスグヤ」何で分かるの? 火星人緯度と経度で分かるの? 普通にすごくない? まあ道さえ分かったんなら、私の不快感が顔に出てしまって火星人に心の裡を悟られる前にここを去ろう。

 「ありがとうございます」私は精いっぱいの笑顔で言った。接客業とかやめとこう、そう思った。心の裡を、悟らせない笑顔。

 「エエデエエデ。安い用ヤ。こんな、多感な時期に母親亡くしてふとしたきっかけで大阪に来たら急に火星人と喋ラナあかんなって(はよ)この場去りたくて小学校時代に足が速くて明るいだけの男に初恋して後でよう考えタラ何で好きか全然理解できひんくて、冴えへん男に話しかける時は付き合う気はないけどあわよくば私の事好きになれと思ってる女子高生の頼みヤッタラいつでも聞いたるガナ」え心の裡とかじゃなくて何もかも既に悟られてたんですけど、え火星人恐いんですけど。火星人はニタニタ笑っている。

 もちろん私は叫びながら走り去った。



  キャベツとレタス




 人色のジャクソン・ポロック。

 なんば駅に着いて北東改札を出ると、直交する人波に尻込みした。やはり人が多い。皆が活気に溢れていて、どこかへ向かっている。恐らくどの人間同士も知り合いでないのに、妙な一体感で二つの逆行する流れを作っている。大動脈のごと。ぼくらは機を図り駆け抜けるようにその人の波を垂直に抜け、一号出口の階段を上がって地上に出た。遂になんばに出たという達成感とは裏腹に、驚くほど人が少なかった。巨大なビルと大きな道路を目の前にして、走り抜ける車のエンジン音を聞き、拍子抜けするような騒音だった。

 「あれ? ここなんばだよね。地下はあんなに人いたのに」少年がいった。

 「うーん。取りあえず誰かに道を聞くか。ここもミナミに入るのかな?」

 「グリコの所行こ。多分あそこがメインだヨ」

 「そうだね」

 「ねえお姉さん。グリコの看板どこですか?」少年は通りがかった女性に聞いた。若くて可愛らしい、上品な女性だった。多分大学生だろう、こんな女性も大阪にはいるのだ。

 「グリコ? ああひっかけ橋のとこや。ええと、このビルがマルイなんや。0101て書いてマルイて読むやつな? あれ? 何であれでマルイて読むんや? マルイチマルイチの略かな? 知らんけど。ユニバみたいな? あんまスタイリッシュちゃうな、そらそうとコンピュータって0と1で全部書かれてんねんな、それいまいち意味分からんねんけどな、ほんならマルイもそれか、あの二進数とかいうやつ、じゃあ納得やわ。二進数で0101はあたしらの数字でなんぼなん? よお分からんな。でも多分それが36とかで、創始者がサブローさんとかそんなんやろ。あれ? じゃあ初めから36でええやん。何で二進数にすんねん。あそうか、コンピュータで打ち込んだから0と1だけになったんか。いやいやそんな事あるかいな。それやったらあたしのメールも全部「00101001101」みたいなるやん。そんなん頭おかしい奴やん。あでも受け取る方も一緒か。えこれ黒ヤギさんのやつやん。現代版黒ヤギさんやん。おメール貰って内容が「0100010111101」で全然意味分からんくてさっきのメールのご用事なあに、って送るけどそれも「010010010101101」みたいになって、また受け取った黒ヤギさんが「010001010110」でまた意味分からんから白ヤギさんが「010111010010」でまた黒ヤギさんが、え? グリコの場所? だからそこの角曲がるやろ? ほんならそのまま商店街に入るねん。天井高いアーケードあって、人でごった返してるわ。人間が喋ってる声が高い天井に響いて、狭いんか広いんかよお分からんとこや。そこを左に曲がるんや。右行ってもたら直ぐ出口やからあかんで。左にそのまま真っ直ぐや。どっち通行とかないから。大勢に迎合すなよ。コツは我が道を行く事や。ほんで551あって、マクドも見えて来るわ。まだまだ真っ直ぐ行く。アーケードが高く遠くにあるけど、開放感は伴わずに、下端の密度で狭苦しく感じる。どんだけ空間無駄にしてんねんと思うわ。ほんだら、アーケード切れて大通りに当たって、そこに信号がある。でかい信号やからムシはできひん。でもリードはしときや? 赤星みたいに。ほんで横が赤なったらすぐ行け! すぐや! 横赤がスタートの合図や。人いきれが一斉に動き出して、待ってる車の運転手は感情もなくそれを見てる。ほんで渡った所に井川遥のしょーもないお酒のポスターあるからそこで写真撮っとき、()えるから。そのまま真っ直ぐ行くやろ? ほんだらまたアーケード切れて、開放的な空が見える。高いビルでなんぼか隠されてても、高い空は開放や。そこにTSUTAYAがある。かにある。表面は硬質でガサガサしてて、火星の砂漠みたいや。ハサミのある腕は甲羅に対して水平に行き来して、それ以外の腕は扇ぐみたいにぱたぱた動いてるわ。色んなやつのでかい顔がある。グリコの看板もここや。しょーもない髪型した男が片足を地に着けて、片足の腿を九十度近く上げている。両手は看板いっぱいまで広げられており、ダヴィンチのウィトルウィウス的人体図を彷彿とさせる。この競技者が背負うような形で背後に大きな日の丸がある。地面はコバルトブルーが徐々に薄まって地平線に消え、何本もの白線が競技者の背負う日の丸に収束する。アーティストを演出する煙にも似た入道雲が左右から伸びており、紺青の空には一つだけ大きな星が輝いている。ここがひっかけ橋である。

 それを真っ直ぐ行くやろ? ほんならランチ安い店あんねん。それを真っ直ぐ行くやろ? ほんなら心斎橋駅あるから、そのままずっと真っ直ぐ行って商店街切れて大通りの信号渡って右ぃ行ったら東急ハンズあるわ。こうゆう看板のやつ。こうゆうやつや! こんな手ぇの形したやつ。こうやで。こっちちゃう。これやったら反対や。こうやこう。ここをこう曲げんねん。ほんでここがな? え? グリコの看板? それはTSUTAYAのとこや。その橋から見えるわ。」

 「商店街入ったらTSUTAYAが見えるまでただずっと真っ直ぐだね、ただそれだけだね、丁寧に説明してくれてありがとう。」

 「どうもありがとう」

 「でも気ぃ付けや。」

 「? どうして?」

 「私ひっかけ橋から来たけど、あそこ今テレビの撮影してたで。ほんで火星人攻めて来てたわ」

 「火星人?」

 「火星人。」

 「それはよくある事なの?」

 「テレビの撮影? ああ結構あるなあ。いうても大阪のメインやからな。大阪いうたらミナミか、なにわの海の時空間やからなあ」

 「ううん。火星人の方」

 「ああ火星人。しょっちゅうよ。こないだもおったから、一匹小さいの家持って帰ったら、飼うてた犬に食べられたわ。ほら、火星人って、栄養あるってゆうやん? うちの犬賢いから、そうゆうんすぐ分かんねん」

 「ありがとう。行って見るよ」

 「もう行くのん? うちの犬の写真見んでええの?」いらない。

 「じゃあ一枚だけ」愚かだ少年。

 「ほら見てこれ。近所の犬と交尾してるとこ」何の写真や。

 「ほんとダ。どっちがあなたの犬?」

 「えー? どっちや思う?」え、女が出す二択クイズや。こんなパターンもあるんか。

 「うーん……、下!」

 「えー、そうかあ。上やねんけどなあ」やっぱり外すんや。

 「でも可愛いのは上だネ」少年、末恐ろしい切り返し。

 「え? やっぱそうやんな! なあなあ、なんぼやったと思う?」出た! 値段聞くやつ。間違えるな少年。ぼくは知ってる。大阪人は、気持ち高くいうんが正解や。予想を下回りたいフザケタ人種や。

 「うーん……、十二万」まずい! 当てに行ってる。

 「ぶー! 一万八千円でしたー、血統書なしー」超えて来たやん。安うと思ってしまった。ちきしょう。

 「ごめん。ぼくらそろそろ行くよ」ぼくはたまりかねて言った。よく我慢した方だ。先が思いやられる、大阪。

 「ああそう? ほんならね。ああそうや。うち猫も飼うてるねん。ほらこれうちの犬と猫が交尾し…」ぼくらは足早に歩き出した。付き合ってられない。? 犬と猫が交尾? しまった。見ればよかった。

 そうして彼女が言った通りの道を歩き、グリコの看板のあるという橋まで行って見ると、ほんとに火星人がいた。で、グリコの看板の人が応戦していた。通行人は誰も見向きもしない。ポンコツの酒のつけが尋常行く所にあるように、そんなことは尋常、そんな感じ。

 「お前万博の人や思てへこへこしてたら、ただの火星人やないか」グリコの声はこもっていて、甲子園のアナウンスみたいだった。

 「お前モ、ただの民間企業ヤナイカ」火星人も大阪弁を喋る。

 少年は走り出し、ひっかけ橋の中央付近でがっぷりヨツに組んでいる二人(一人と一体?一枚と一体?)の間に割って入った。グリコも火星人も、途轍もなく大きい。グリコは、あの大きさ。

 「ケンカはやめて!」少年。若いとは、愚かだ。

 グリコと火星人はがっぷりヨツを解いた。グリコは丸めていた背を伸ばした。手はあの角度で上がったままだ。肩関節か何かで、手は下がらないらしい。

 「何やお前。お前みたいなちんちくりんが何の用やねん。」両手を上げた滑稽なポーズでグリコが訊いた。

 「ぼくらは通天閣を探してるんだ。どこにいるか知らない?」

 「あいつなあ、あいつ食い倒れ太郎と付き合ってんねん」

 「知ってるよ」

 「何で知ってんねん。標準語のくせに。ちょお待て。誰から聞いたんや。知ってる奴あんまおらんはずやぞ。」

 「ううん、一応内緒、迷惑かけたら悪いし。」

 「何やねん。標準語のくせに」

 「どっちも男なんでしょ?」

 「マジで? 通天閣男なん? 知らんかった。あの感じは女やと思ってた。好きになるとこやった」

 「で、通天閣さんどこにいるの?」

 「知らんがな。カレシに聞けや。」(カ↑レ↑シ↑)

 「どこにいるの?」

 「知らんがな。カレシに聞けや。」(カ↑レ↑シ↑)

 「彼氏がどこにいるの?」

 「ああ、食い倒れな。そこの通り真っ直ぐいったらおるわ。しょおもない顔して写真撮られとるわ。あかんな、あいつは。撮られてるって自覚が足らんわ」

 「お前ラ、ワレワレを無視スンナや」

 「お前一人のくせに意識しすぎて一人称ワレワレやん」

 「ワレワレは、地球への侵攻を開始するデ」

 「やれるもんならやってみい」

 「今のうちに降参シロ、『あれ』を渡せ。」

 「じゃかあしゃああんぽんたん。鼻の穴に指突っ込んで奥歯、お前奥歯とかあんのか? ある? ほんなら奥歯ガタガタいわしたろかい」

 「歯ぐきは強い方ヤ。交渉は、ケツレツでええンヤな」

 「ええからゆうとるんやろうがい。出べそのおかんのとこ帰れ」

 「おかんは出べそではない。ワレワレにへそはない。あるのは正義だけヤ」

 瞬間火星人は体重を落とし、グリコに強烈な体当たり。グリコは橋の欄干を破壊し、ぼちゃん、道頓堀川へ落ちた。

 「覚悟してオケ。ワレワレはお前らと違って、消費期限の方だけは守るンヤ」火星人は空を飛んでどこかへ消えて行った。

 ぼくは少年の所に駆けていった。

 「おい、無茶はしないでくれよ」

 「分かってるよ。でも、情報は手に入れたじゃない。」

 「食い倒れ太郎の居場所」

 「うん」

 「行こう」

 ぼくらは壊れた欄干に背を向け、浮く踵。歩き出した。

「待たんかい。一応上がるまで待てや」グリコがびちょびちょで這い上がって来た。橋に昇って来るのに、理想的な腕の位置だ。

 「ぼくらは通天閣を探してるんだ。先を急いでるんだよ」

 「何で通天閣を探してんねん」

 「え? 何で? えと、なんでだ? まあ、フリテンさんにそう言われたから」

 「フリテンさん? あの伝説の雀士、フリテンの八万兵衛の事か?」

 「分かんないけど多分違うよ」

 「ちゃうんかい。あの生涯の敗北は自分のフリテンだけというフリテンの八万兵衛ちゃうんかい」グリコは分かりやすく落胆した。

 「ぼくらは先を急ぐので、もう行きます」

 「待てや。話がある」

 「何?」

 「世界を救ってくれ」

 「は?」

 「え?」〔世界を救ってくれ〕くれ〕くれ〕グリコの声が反響する。

 「世界を救ってくれ。世界がピンチなんや。今見てたやろ」

 「何を」

 「火星人をや。攻めて来るゆうてたやん」

 「ほんとに攻めて来るの?」

 「当たり前や。火星人はウソつかんねん。大阪人はつくけど」

 「『あれ』がどうとかいってなかった? 『あれ』を渡せば許してやる、みたいな」

 「せやけど、あれだけは渡されへんねや。」

 「じゃあどうするの?」

 「火星人と戦うしかない」

 「どうやって?」

 「ただ戦うんや。お前、生き物殺せるタイプか?」

 「それによるよ。」

 「人間は?」

 「ぼくは殺せない。でもぼくの隣にいるこのおじさんは殺人犯だよ」

 「お前人殺した事あるんかい。」

 「まあ」

 「ちょうどええわ。おんなじや。火星人いてもうてくれ」

 「急に言われても。普通の人みたいに殺せるもんなんですか?」

 「知らんわ。いっぺんやって見てくれ」

 「やですよ。」

 「なんでやねん。地球の危機やぞ。」

 「まあマエムキに考えておきます」

 「待てや。断る時のやつやないか。おい、情けかけてくれ。なあ、じゃんけんのやつでおれだけ三歩しか進まれへんいうて文句言われんねんぞ。そんなん知らんやんけ。決めたんお前らやんけ、頼むから火星人べちゃべちゃにしてもうてくれ」

 「まあ、分かりました。」

 「それでええ。おおきにな。ほなおれはモデルの仕事再開するから、あとは任せたで。世界を救えるのは、お前らだけや」

 そういってグリコは(から)になっていた看板に飛び込み、無機質な表情になった。世界が危ない。もちろんピンと来ない。急展開。ただ世界の放つ騒音が少し遠くなった。ざざささ。

 ぼくらは歩いて食い倒れ太郎の所へいった。どうせ喋りかけてくるんだろうと思っていたら、それは太鼓を叩いているある瞬間の角度で静止しており、目は明らかに生きていなかった。

 「ねえ、これが食い倒れ太郎だよね?」と、少年。

 「そのはずなんだけど、動ける時間帯とかあるのかな」動けるという前提は、疑わない。

 「ねえ! 食い倒れ太郎さん! あなたのカレシの通天閣さんがどっかいっちゃったよ! どこ行ったか知らない?」

 「おい、大声を出さないでくれ。人に見られるじゃないか」

 「ぁんじゃあおんどりゃあ! 食い倒れ探しとんのんけえぇこのションベンたれ」めちゃめちゃ口悪いな。どうやらこの街は、大声を出せば誰かが話しかけて来るようだ。



  パセリ

 

 

 

 それは繁華街から少し離れたところにある、立派な一軒家だった。

 インターホンを押す。

 「はい」若々しい女性の声が聞えた。間違いなくあの人だと思った。黒い機械がざと喋る。

 「突然すみません。私は東京の高校生なんですが、実は、家出してきてしまいまして、その、どうしたらいいか分からなくて、」私はとんでもない嘘をついた。全て正直にいってもよかったのだが、何となくそうしなかった。こんなウソ、すぐにばれるって分かってるけど。

 「何やそれ。まあ行くから待っときや」女性はそういった。信じたのだろうか。それとも嘘だと分かって信じているふりをしてくれているのだろうか。

 五分くらい待たされた。ドアが開き、完全に余所行き姿の女性が現れた。胸の膨らみがはっきり分かる薄手のセーターの上に、首元にふわふわした毛皮のついたコートを着ていた。前ボタンは閉めていない。セーターは鴨の羽色。コートは薄めのレモンイエロー。下は裾に向けて広がった、長い真っ黒なパンツ。写真の女性がどうかはっきり判らなかったけど、とても綺麗だった。

 「あんた、時間あんねんやろ? あたしも暇やったから、話ぐらい聞いたるわ」

 「すみません」

 「その代わり家の中はあかんで。空き巣入った後やから」

 「はあ」

 「何で家出したんや」女性は扉の開いた玄関の脇にもたれ掛かって訊いた。爪先でドアを押さえていた。少しだけ家の中が見えた。靴箱の上に、電気代とかガス代の紙が置かれ、その上に重しのように車のキーと家の鍵がのっていた。

 「その、毎日を、壊したくなりまして、」壊す、という強い言葉に自分でぎょっとした。ちょっと反社会的に見えたか知らん。でも多分、うそではない。その女性の髪に隠れた耳に視線。

 「分かるわあ、あんた高校生やろ? あたしも今若かったら同じ事思うわあ」女性は顔をしかめながらそういった。眉間にしわ。右だけぴりりとほうれい線。「若いからそう思うんやなあ」だったら私は腹を立てていた。「あたしも若い頃はそう思てたわあ」でもほんと逆鱗。でも「あたしも今若かったら同じ事思うわあ」にはまるで腹が立たなかった。彼女の言い方もあるのかも知れない。何か褒められている気さえした。不思議な、魅力的な女性だと思った。多分何も考えていなくても、そんな言葉が出て来るのだ。そういう人は意識するとか、鍛錬するとかじゃなく、そうなのだ。何となく手先が器用とか、まあまあ絵がうまいとか、それと同じ。

 「両親とはうまい事いってんのん?」

 「まあ、私は父子家庭で母は亡くなっていますが、父とは比較的うまくいっていると思います」

 「分かるわあ」ほんとに? これも分かるの?

 「あれやろ? 洗濯機とか一緒でいいし、二人で出掛けるのもまあいいから仲いいと言えばいいけど、恋の相談とかは出来ひんし、理想のお父さんかって言われたらそれは違う気がするし、一週間ぐらいおらんくてもまあやっていけるわぐらいのやつやろ?」その通りです。全部あってます。大阪の女性ってすごいんですね。

 「で、高校はどうなん? 友達おんの?」

 「少なくはないと思います。こないだも四人でディズニーランド行ったし、違うメンバーとライブにも行ったりしますし、クラスにも溶け込んでいると思います。お昼ご飯も仲いい六人で食べてます。楽しいと思います。でも何か、こんな感じなのかなあ、って気はするんです。違和感というか、ちょっとしたぽっかり感みたいな。お父さんは私の生活にほとんど干渉してこないけど、今は華の女子高生だからな、とか、青春は今しかないんだぞ、とかはしつこく言ってくるんです。それは事実なんだと思うけど、でもそんな事言われてもピンと来ないし、だからどうすればいいのか分からないし、このままでいいのかなあって。多分いいんだと思うけど、物足りないわけじゃないけど、今を後で思い出してどんな気がするのか全然分からないんです。何をしておくべきで、どんな事を後悔するのかとか、どんな事でうるうるするのかとか。日常がかけがえないとかいわれても、分からないんです。後悔する事が分かってるならせずに済むようにしたいし、青春を謳歌できるなら、目一杯謳歌したいとは思うんです。でも、今は今だから懐かしくもないし、年月が積み重なった後悔もないし、何ていうか、これでいいのかなあって、」

 「分かるわあ」さすがです。

 「あれやろ? まだ小学生とかの時に、見て! 猫同士がグレコローマンスタイルでレスリングしてるよ! ってお母さんに言ったら、あああれね、あれはグレコローマンスタイルのレスリングじゃないのよ、って仏みたいな笑み浮べながら言われて意味分からんかったけど、大人になってバキバキの交尾やったって分かってどうしていいか分からんぐらい恥かしなったりするけど、あれと一緒やろ?」嘘でしょ? 全然違いますよ?

 「だからまあそんな事はあってもええんや。若いんやろ? 『若い頃の苦労は買ってでもせえ』って謂うやん? 知ってるか? え? 聞いた事ない。あんたええ加減にしいや」え? こんなとこで怒るの? 「まあええわ。だから若い頃の苦労はそれくらい貴重なんや。小学生はおやつ買って、中高と苦労買って、大学で苦労と麻雀牌買って、二十代で苦労と車と女買って、三十代で馬券と酒買って、四十代で家買って、五十代で株買って酒買って一応かつら買って、六十代で孫に高いゲーム買って、七十代で田舎に家買って、それでな、それでな? 八十代で墓買ってみまかって。ゆうてなあ。げゃひゃあははは、ぶわぁはははは」びっくりした。そんな下品な笑い方するの? 多分、止めた方がいいよ? 女性は突然真顔になり、私を見つめた。長い睫毛に囲まれてそれ自体が一個の生き物みたいな大きな眼が私を見た。とても気まずい思い。そんなに無言で見つめられたって。閉まろうとする扉を押さえた女性のつま先が、チャップリンみたいに見えた。

 「あんた、もしかして東京のもんやろ?」

 「ああ、はい。東京から来ました」

 「やろうな。あたしの笑いで笑わんのは東京もんと天王寺動物園のオランウータンだけや。一回な、天王寺動物園行った時オランウータンの檻の前で、あのサルは五歳児ぐらい賢いいうからやなあ、丁度娘が五歳やったんや。せやから娘が鉄板で笑う、『あんたは五歳♪あたしは後妻♪』ゆうやつやったったんや。ほんなら娘は鉄板で笑うのにそのオランウータンちいとも笑いよれへんねや」娘さんがすごいですね、オランウータンは悪くないですよ、「それから旦那が『ほんで最後においらはクサい』いうたら娘もサルも笑わんかったわ。旦那のんはまあええとして、ほんで笑わへんだけやなしに、オランウータンぷいとあたしらの前通り過ぎてどっかいてまいよってん。これがほんとの、おらんウータン、」女性は上半身をタイミングよくバウンドさせ、私はちゃんと笑った。

 お母さんを探しているのか、奥からハイハイをして赤ちゃんがやって来た。でぇでぇと言っている。

 「あ、こらガキ、ちゃんと大人しいせえ。ごめんなあお嬢ちゃん、ちょお待ってや。あやすから」

 「はい、全然大丈夫です」自分の子をガキと呼んだ事には触れなかった。

 「かわいいですね」私はお母さんの胸の中で「でぇでぇ」言う赤ちゃんが可愛くてたまらなくて。

 「せやろ。可愛いねん。はーい、はーい、ダイジョブでちゅかー、いないいなーい、金いらん人間いない!」

 「ぎゃあああ!」私はびっくりした。赤ちゃんの笑い声だった。

 「いないいなーい、文句言わんとバーキン買ってくれる旦那いない!」

 「ぎゃあああああ!」赤ちゃんは笑った。それはあやせているのだろうか。さっきまでの方が静かだった。

 「いないいなーい、心の底から『またご飯でも行きましょうね〜』ってゆうママ友いない!」

 「ぎいいやあああああ!」赤ちゃんは狂ったように笑った。

 「いないいなーい、本当に戦争を望んでいる人なんていない……」

 赤ちゃんは静かになった。なんて高尚なあやし方だろうか。女性が赤ちゃんを床に降ろすと、赤ちゃんは静かに奥へ消えて行った。

 「あやし方、お上手ですね」私はいくらかの社交辞令を込めて言った。

 「そうやねん、子供も二人目やからな。馴れたもんやわ」

 「どるんどるっるるどるどる」奥から赤ちゃんの騒ぐ声が聞えた。どこから出している音だろう。母親にとっては今が一番、大変な時期なんだと思う。

 「交尾中に旦那の顔食べる主婦カマキリ!」女性が家に向って叫ぶ。

 「ぎゃあああああ!」奥から叫び声が聞こえた。笑ってるのよね?

 「ばーばばん、ばばんばばぁあん!」玄関横にある犬小屋から大慌てで犬が出て来て吠えた。多分笑っている。

 「じゃーあじゃじゃじゃじゃん!じゃん!」玄関の軒の上に寝そべっていた猫がパンクバンドのように首を振り鳴いた。どうせ笑っているのだろう。

 「たかいたかーい、やっぱりなんやかんやいうて三十代でマイホームはリスク高ーい」

 「ぎぃやああああ、うわああああああ!」

 「ばばっばあばばばあん!ばばばんばばん!」

 「じゃーあじゃあーん!じゃじゃ!じゃじゃ!」

  うるせえなまじで。私も一応小さく笑った。

 「たかいたかーい、去年うちのおじいちゃん他界」静かになった。犬は犬小屋に戻り赤ちゃんは黙り猫は目を閉じた。私も努めて真面目(しんめんぼく)な表情をした。

 「せっかく大阪来たんやろ。なんこか案内したるわ」

 とても美しい女性に先導されて、私は有頂天外だった。かに道楽を見、食い倒れ太郎を見、グリコの看板の所では女性に強制されて同じポーズで写真を撮った。多分変な表情になっちゃったけど、それはどのタイミングで撮るのかよく分からない掛け声のせい。

 「おへそぐりぐり大腸グリコ」



  キャベツとレタス

 

 

  「ぁんじゃあおんどりゃあ! 食い倒れ探しとんのんけえぇこのションベンたれ」

 あまりに品のない声と距離を理解していないボリュームにぼくらは振り向いた。既視感が襲う。てゆうか知っている。微妙に背が低くて、真っ白のダブルのスーツを着て、メガネをかけて優しく微笑んでいる、、、

 「あー!」少年は大声を出した。

 「チキンのカーネル!」チキンいうたんな。

 「呼び捨てにすんなや」チキンはええんかい。

 そこにはカーネルサンダースがいた。

 「カーネルは大阪生まれなの?」絶対違うだろ。

 「七並べしとって、『おい誰やねん3おさえてる奴ぅ』いわれて、ほんならわしがいうんや『わしが出すよ。さんだーす』いうてなあ、な、大阪人やろ? おやびんと呼べ。」

 「分かんないけどどっちでもいいや。おやびん」

 「食い倒れさんが動かないんですけど、事情をご存じですか?」

 「りゃあああほぬかせ。知らんはずあらへんやろが粗大ごみ野郎が」口悪いなあもう。

 「教えていただけませんか? 探してるんです」

 「何であのハゲを探してるんや?」食い倒れは禿げていただろうか? ちらりと後ろを確認した。禿げてない。大阪では『彼』の代わりに『ハゲ』なのかもしれない。

 「通天閣さんと付き合ってるから」少年、少し口が軽くないか? 頼むから未知の地雷だけは踏まないでくれ。

 「マジで? えどっちから告ったん?」興味を持ってくれたようだ。

 「知らない」

 「まあええけど、ほんでお前、」瞬間辺りは凪ぎ、カーネルサンダースはぼくの方を見た。

 「何で右腕ないんや。」おやびんはずっと手に持っていた葉巻を口にくわえた。で、火をつけた。先が赤く光り、灰色になり、煙が立った。

 「まあ、色々と事情がありまして、」ぼくは曖昧に答えた。

 「ふうん。お前も、真っ当な人生送ってない顔してるわ。当たったやろ? まあええけど、ほんで食い倒れの居場所知りたいんか?」

 「はあ、出来れば教えていただければ有難いです」

 「あいつはもう戻って来やんよ」

 「戻ってこない」

 「うん。連れて行かれたから」

 「連れて行かれた?」

 「誰に連れて行かれたんですか?」

 「火星人や」

 「出た! 火星人」

 「また火星人ですか。」

 「またてなんや。お前ら火星人に会った事あるんか」

 「さっきそこでグリコとがっぷりヨツしてました」

 「がっぷりヨツやと? ちょお待て。右ヨツか? 左ヨツか?」知らんがな?

 「右ヨツだったよ。」見てたンかい。ほんでパッと見てどっちか分かるンかい。

 「それグリコさんの得意なほうやんけ。それでぼこぼこに勝ったんやろ? どうせ火星人が豪栄道みたいに引いたんやろ?」

 「ぼくが入ったからよく分からないけど、最後は体当たりされて道頓堀に落ちたよ」

 「うそやん! わしと一緒やないか。やばいやん。火星人着実に強なってるやん。どうしよ、地球終わるんちゃう?」

 「火星人に弱点はないの?」

 「ないんや。ありとあらゆること試したで。エロ本渡したり、気化したホルマリン吸わしたり、第三頸椎捻ってみたり、田舎のおっかさんの病状訴えたり、」ほんとにありとあらゆってる。「それでもなんも効果なかった。」

 「火星人がいってた『あれ』って何?」ナイスクエスチョン、少年。若いとは、柔軟性だ。

 「ああ、『あれ』か。わしも知らんねや。有識者会議では渡さん事に決まったらしい。」

 「通天閣さんは、食い倒れさんを追いかけて行ったのかな?」

 「分からん、そうかも知らん。」

 「火星人の元にはどうやって行ったらいいの?」

 「蟹見たやろ?」

 「蟹?」

 「グリコんとこの手前にあったやろこのハゲ!かに道楽のぐわぐわ動いてる蟹やがな。」

 そういえばあった気がする。が、グリコと火星人の取り組みに気を取られて、すっかり意識しなかった。

 「あの蟹が、好きなんや」

 「誰が?」

 「火星人が」

 「?」

 「火星みたいに見えるやろ? あの蟹。」

 「そうですか?」

 「見えるネ。確かに、赤いしがさがさしてるしネ」若いとは柔軟性だ。

 「だからあの蟹の近くにおるわ。」

 「でも目立つよネ、あんなに大きい火星人がいたら」

 「? 小さなれるに決まってるやろ。普通の人間と見た目は変らんぞ?」大きさを変えられる事は、大阪では当然なのだろうか。

 「ありがとう。じゃあ、行ってみるよ」

 「おお、また協力できる事あったらゆえ。わしもあいつおらんなって、実はちょっとだけ淋しいんや。」おやびんは葉巻の灰を落とし、俯いた。

 「せやから、できるんやったら取り返してきて欲しい。あいつは、おれにとって必要やったんや。おらんなって初めて気づいたんや。おんなじメガネでキャラ被ってるからおらんなったらええと思ってたけど、やっぱりあいつにはおって欲しいんや」

 「おじさんあごに生クリームついてるよ?」

 「髭じゃあほんだら。道頓堀沈めるぞこの死んだ魚の生肉常食者が。」

 ぼくらは来た道を戻り、かに道楽の前に立った。足がうねうねと動き、確かに火星に見えなくもなかった、知らんけど。

 時々、写真を撮る人たちがいる。外国人が多い。中でも一際中国人が目立った。顔立ちも少しだけ違ったし、何しろ喋り方が違った。両手に大きな袋。バク爆。お買い上げありがとうございます。

 一人だけ、じっとして動かない人がいた。待ち合わせかと思った。が、スマホを見たり、腕時計を見たりしない。ずっと、片時も目を離さず、蟹を見ている。もしや、

 「あいつが火星人だ!」少年はそう叫んだ。早まるな少年。若いとは、見切り発車だ。

 「何で分かんネン! お前らサテは掛布の生き残リカ!」分かんないけど多分違います。

 火星人(多分)は走り出した。目の前で誰かに走り出された者が一人の例外もなくそうするように、ぼくらは二人とも追いかけた。少年は落ちていた空き缶を拾い、投げつけた。それは的を外し、歩いていたおじいさんに当たった。少年よ。若いとは、無鉄砲だ。ポイ捨てより、拾い投げの方がいけないんだ。火星人は通りを横切り、橋の方へ走った(無過失のしゃれ)。ぼくらは追い掛け、人を押し倒した。火星人は幾らか方向を変え、戎橋の方へ向かった。若いベトナム人がぶつかって倒れ、何か罵言をまくし立てている。どいて! ぼくがそう叫んでも、誰も反応しない。火星人は橋の淵に立っているポールの隙間を抜け、階段を駆け下りた。ぼくはポールにぶつかりそうになりながら後を追う。少年も続く。階段の上に屯している四人の中国人が道を空けてくれた。礼をいう暇はなかった。火星人は階段を下りると、すぐ横の手摺を飛び越えた。ぼくは数段階段を飛び下り、ようやっと手すりを越えた。それから火星人は踵を返し、橋の下へ入った。突如薄暗い中を、川を左に駆け抜けた。どたどたと木を踏みつける三人の足音が橋の下に響いた。日陰へ。抜けると、一気に景色が開けた。火星人はまた手すりを飛び越え、階段を上った。ぼくらはもたつきながらも手すりを越え、二段飛ばしで階段を上った。上った上を左に曲がり、数段しかない階段を二回で飛び上った。目の前にTSUTAYAが見える。とすると、ぐるりと一周回っただけなのか。ぼくは一息ついて辺りを見回す。火星人はかに道楽と反対側の通りを走っていた。ぼくは早鐘を打つ心臓に無理を言って、また走り出した。少年は先に走り出している。交番の横を抜けると、古風な西洋風の建物があった。信号のある大通りまで出ると左へ曲った。狭い歩道に人が行き来している。大声を上げるが、誰も気にしない。ぼくらは人を?き分けるように走り、一つ目の角を曲がった。大きな龍の看板の、金龍ラーメンがある。人通りの幾らか減った路を走る。また、商店街に戻る。そこを右折し、「ひっかけ橋」から遠ざかる方へ走る。高い天井に不釣合な位の人通り。ぼくらはガムシャラに走る。背中にぶつかり、キャリーバッグを蹴上げる。罵られ、舌打ちされる。

 ふと後ろを見ると、身の丈三メートル近くになった火星人が迫って来ていた。このままでは追いつかれる。ぼくらは必死で走った。歩く人を突き飛ばし、流れを逆走した。

 カバンを売る店に入り、もう一つの出口から出た。ビルの入り口に息を潜める。火星人は追って来ない。どうにか逃げ切れたようだ。鳴りやまない心臓が、少し離れた商店街の喧騒を掻き消す。肺が千切れそうな位痛かった。どうにか、逃げ切れたようだ。とりあえずは安心だろう。少し息を整える事が出来る。ふう。

 「あれ? ぼくらが火星人を追いかけてなかったっけ?」ほんまや。しまったやられた。引っかかった。なんて馬鹿なんだぼくらは。完全に見失ってしまった。

 「手掛かりがなくなっちゃった」

 「どうしようか。取りあえず動かない食い倒れの所へ戻るか?」

 「そうだね。」

 道中、かに道楽の前を通った。何人もの人間が写真を取っていた。外国人が多くて、中国人が一番多い。一人だけ、写真も撮らず見ている人がいた。肩を上下させている。

 「あー! 火星人!」何て愚かなんだ火星人。あと、大声出さないでね少年。普通に捕まえられたから。火星人はまた走り出す。

 「お前らやっパリ掛布の生き残りヤナイカ!」

 今度こそ捕まえた。

 「おい火星人。食い倒れ太郎を何処へやった」

 「シラナイか知らないと言ったらどうなるか知ってるカイ?」ぼくらは人気のない、路地裏に来ていた。

 「何だそれ! 知ってるだろ、その所まで案内しろ!」

 「分かった」折れるの早いな。うそつけないらしいし、意外と誠実? 地球滅ぼすのにね。

 火星人は大仰に両手を広げ空を仰いだ。火星人は目を閉じ、深く息を吸った。

 「宇宙船、おいでやすぅ」それ京都じゃないか? まあ、火星人ならどちらでもいいが。

 宇宙船がおいでになった。円盤の下に三つ、半球状のドームがついている。こんなにも想像通りでいいのだろうか。全体の大きさは東京ドームの、三分の一くらいだろうか。途轍もなく大きい。が、勿論誰も見向きもしない。どうなってるんだこの街は。

 ぶおんと音が鳴り、光がぼくらを包み込む。

 「タコ焼き器は、」宇宙船から、頭ががんがんするような声がする。

 「一家に一台いや一人に一台」隣にいた火星人が答える。合言葉だろうか。

 ぼくらは重力を無視し、ゆうるりと上るジェットコースターみたいにふわふわと上昇する。ぼくは火星人の穿いているぴったりしたズボンを掴み、酔いそうな光から放り投げた。。火星人は投身自殺した者が慣例的に取る卍に似たポーズで地べたにつくばり、

 「お前ラ、藤浪を継ぐ者やったンヵ」といった。違うと思うけど、どちらにせよごめんなさい。火星人は光から出、ぼくと少年だけが宇宙船へ上昇した。

 「覚えとけよ。広島カープの黒田は、住之江の生レヤからナ」火星人は捨て台詞を吐いた。

 そして、宇宙船の内部に入った。

 船内は殺風景で、コンクリート造りのデザイナーズマンションのようだった。多分ぼくらは一番外側の通路にいて、それは宇宙船の外周を一周できる通路のようだった。

 「取りあえず歩いてみよう」ぼくはそういった。

 時々ドアノブのない扉があった。どうして開けばいいか分からず、通り過ぎるしかなかった。この調子では、大外をグルリと回るだけじゃないか。しかもどこまで来たら一周したのか、とんと分からない。

 向こうから下品な話し声が聞こえて来た。ぼくらは目を見合せた。まずい。どうしよう。隠れる所なんてない。ぼくは力一杯ドアを押してみた。何も反応はない。声は近づいてくる。声がはっきり聞き取れる。

 「セヤからさ、いっぺん聴いてミロって」

 「別にええワ」

 「絶対聴けって。MOROモロの、『火星で生まれた女』」

 「どうセしょうもナイ歌やろ」

 「ちゃうワ」

 「ほナ(うと)てみい」

 「火星デー、生まれター、女やーサカイー、木星へはーよおーついてえいかんー」

 「エエ歌やナイカ」

 「セヤロ」

 「ン? ナンやお前ら。何で壁にヘバリ付いてんねん」

 二人の火星人の怪訝を湛えた目がぼくらを見る。熱力学は容易に破綻し、時間は停止する。須臾にして永遠な現在。壁に倣わんとするぼくらの不動な視線。四つの生命を天幕の様に覆う沈黙はぼくらにのしかかっていた。理の必然に、ぼくらは天幕を破らざるを得ない。火星人は、あほを見る目でぼくらを見ている。


一十

一十 人

一  人


 「お、おん。壁になりトオてなあ」少年が機転を利かせた。

 「壁になりたいンカ。何で壁になりたいンヤ」

 「お、おお。壁になったら、生きてて壁にブチ当たる事もないやろうかいノオ」

 「何やお前。ウマイ感じの事いいよるな。ほんまに火星人か?」どこで疑うてんねん。

 「そうデンネン。デンネンデンネン、(うち)の台所ゴキブリデンネン」少年はギャグを言った。

 「お前おモンないな。火星人やわ」そういって二人は通り過ぎた。しのいだ。

 やはり歩いて行くと、少し違う扉があった。明らかに大きく、立派だった。

 「多分正面玄関的な所だ」ぼくはそういった。

 「ボタンがあるよ」と少年。

 「ボタンがあれば押すものだよ、少年」

 「ポチっ」少年は声に出していった。

 「惑星間大戦中、火星でスローガンとして採用されていたのはどんな標語でしょう?」壁が喋った。頭がガンガンする、うるさい。

 「おじさん、なにこれ?」

 「え? なんだろう、クイズみたいだ。火星のスローガン? 知らないよ」

 「え? 何かないの?」

 「ないよ」

 「はよ答ンカイ!」

 「え、じゃあ、『欲しがりません勝つまでは』」少年がそう言った。

 「ぶー! 残念。正解は、『欲しがりません、閉店間際に半額シール貼られるまでは』でした」何やそれ。むずいわ。てゆうかノーヒントでニアピンの少年すげえな。正解でいいやろ。

 「遠そうでまジ遠い、カァセエいい!」メロディーに乗せた不協和音が流れた。

 「警報! 侵入者おる!」どうやら非常ベルだったようだ。

 船内アナウンスががなり立てた。

 「どこヤ! 十七番エリアか。お前ら覚悟せえヨ。二度ト昼間から酒飲んで将棋出来るとおモウナ」

 床が突然開き、ぼくらは暗い穴ぼこへ落ちて行った。滑り台のようになっており、真っ暗な中をどこかへ流されて行った。ぼくらはしっかりと手を握り合い、離さなかった。

 頭が飛び出たかと思うほど腰を強打した。後ろで何かが動く音がする。多分、ぼくらが滑って来た通路が閉まったのだろう。そこは異常な位湿度が高かった。どんな形なのか、どれくらいの広さなのかも分からなかった。真っ暗で、何も見えなかった。

 「怖いよ、」少年がか細い声で言った。口にすると、余計に怖くなった。既に汗が噴き出し、頬を伝い顎から落ちた。目尻を汗が伝う感触にどきりとした。

 「とにかく、ここがどんな所か調べよう、生きてる限り希望はある、そうなんだよね?」

 「うん。」

 「さあ、手を離そう」ぼくも怖かった。手を離した瞬間に、すさまじい勢いで少年がブラックホールに吸い込まれてしまうのではないか。崖から落ちるみたいにどこかへ消え去るのではないか。この汗にまみれた手の平の熱が、ぼくらを繋ぐ唯一だった。

 ぼくは半ば強引に少年の手を離した。

 「そこにいるよね?」少年は必要以上の大声でいった。それは空間に異常に反響し、うるさかった。ぼくはそのうるささをとても心地よく思った。

 「うん。いるよ。さあ、壁を伝っていくんだ。どんな小さな事でもいい。声に出して言ってくれ」

 「うん。冷たい。ぼくの汗で滑るよ。でも表面はすごく滑らかで、継ぎ目も感じない。待って、しゃがんでみるよ。うん、駄目だ。つるつるしてるだけだ。ジャンプするよ。ああ、駄目だ。何もない。ぼくがもう少し背が高かったらなあ」

 「関係ないよ。こっちも何もない。まるでつるりとしている。すごい技術だね火星人。」

 「わっ! ああおじさんか。あれ? 結構狭いんだね」

 「ああ、この感じだと、十畳あるかないか位だな。一応そのまますれ違って最初の所に戻ろう。もう一度互いが通った所を入念にチェックするんだ」

 「分かった。ねえ、とても暑いよ。何とかならないかな」

 「駄目だろうね。換気されてるなら、ぼくらがそこから出るよ」

 「そうだね。ごめんなさい。あれ? 下の方に何かあるよ。あっ! ボタンだ。ボタンがあるよおじさん」

 「でかした少年。気付かなかった。少年の背の低さが役に立ったじゃないか。さあ、ボールがあれば投げるし、プチプチがあればプチプチするし、ボタンがあれば押すものだ」

 「押すの?」

 「押さないボタンなんてあるか。」

 「でも、この手のボタンって、押したら余計ピンチになる事ない?」

 「映画の見すぎさ」

 「ほんと?」

 「ほんと」

 「じゃあ押すね、あっ、今気付いたけどこのボタン、ドクロの形してるネ、ポチッ」先ゆわんかい。絶対押したあかんやつや。全部前振りや。やってもうた。

 ぎぎギ

 空間全体が音を立てた。何が起こっているのかさっぱり分からない。天井が下がっているのか。壁が迫っているのか。背中にかく冷汗が、まるで冷たくなんてない。

 「ドゥドゥドクロチャンス」少年のいる辺りから声が聞えた。じめじめした暑苦しい空気が具現化して、話せばそんな声だろうという、低くよく通るサウナみたいな声だった。

 「ドクロチャンス?」少年が訊き返した。

 「正解したら、こっから出られるで」

 「じゃあやる。どんな問題?」

 「まあ待てや。制限時間あるから。」

 「どれくらい? 十秒? それとも五秒?」

 「お前はガキやから知らんやろうけど、世の中そんなアマないねん、ほんでそんなはっきりとは分かってる事なんか何もないんや。生きていくっていうのはなあ、解りもせん事を解ったふりしてやり過ごすしかないんや。制限時間は、『ちょおどええ間』や、ちょおどええ間で答えなアウトや」

 「ちょうどいい間、難しくない?」

 「腑抜けた事言うてたら内臓抜き取るぞ。あ、腑抜けやからもうないぞう」

 「それは問題じゃないよね」

 「ちゃうよ、一番好きなシャレや。

  ではほな問題! 火星人は、グーとパーで分かれる時、どうやって分かれるでしょう?」

 「え? 何それ?」

 「地域差あるやつじゃないか。隣の地域も知らないのに火星なんて、そんなの知る訳ないよ。どうする少年。直観で答えるか」

 「よしっ! 『ぐううっとおおっ、ぱっ!』だ!」「え? 君の所はそうだったのかい? ぼくの地域では『ぐっとっぱっで、分かれましょ』だったよ」「何それ。文字数多いよ。タイミング取りづらいしさ」「君の方こそリズムと文字数がミスマッチじゃないか。ミスチルじゃないか」

 「……おいワレワレを忘れテ盛り上ンナや。お前ら命の危機にある自覚なさすギンねん。はい時間切れ〜。正解は、『ぐっぱぐっぱ、ぼんぼんぼかん』でしたー!」

 「何それ聞いた事ない」

 「いまいち盛り上がらないね」

 「そっちかーとかならないし」

 「………」

 「………」

 「…………、ごメンなさイ」

 「まあもういいよ」

 「仕方ないね……」

 「………」

 「………」

 「………」

 「……ほんマごメン」

 「いいって」

 「うん」

 「あ、でも不正解は不正解ヤカラ」

 「え? 終わりなの?」

 「当たり前や。不正解やったからどんどん酸素抜いていってるからな。」

 「えっ? 何それ。やめてよ」

 「ああごめん。やめるわ、ってなるかいあほんだら。お前あれか、『どろぼー追い掛けるんに「待てー」言いながら追い掛ける警官タイプ』か。待つわけないやろが。あほやないか。何で逃げてるどろぼーに『待てー』いうて追い掛けテンねん」

 「ねえ、ぼくらはどれくらい生きてられるんだろうか」

 「あん? 簡単やろがい。ワレワレ火星人は五次の代数方程式暗算で解けるんや。計算したるわ、お前らが、あれやろ? だから、十二指腸あッテ、ほんで脊椎ちゃんとあるとするデ? 分かった。あと90ごりごりは生きてらレルわ」全然分からんよ?

 「それってどれくらいなの?」素直に訊く少年。

 「そやなあ、まあカップラーメンはお湯入れてから30ごりごりでいけるわ」じゃあ30ごりごりは3分で90ごりごりは9分やないか。そう言え。

 「え? じゃあ90ごりごりは1分じゃん!」どんな計算したんや。まさか、少年、お湯投入から20秒で食べ始めるというのか。そんなもん麺がごりごりやないか。

 「そんなモン麺がごりごりやナイか」おんなじ事いうた。いやや。

 「あほ抜かスナ。90ごりごりは18分や」じゃあお湯入れて6分で食べ始めてる、そんなもん麺が逆ごりごりやないか。

 「マア麺は逆ゴリゴリやケドナ」何でこれもかぶんねん。

 「じゃあワレワレはもうドロンするから、残り88ごりごり、大切に生きナハレよ」

 辺りを再び黒い音。それが木霊した。ぼくらは何もいわず、ドクロが何か話すのを待っていた。が、一切は静寂。汗が噴き出る。汗が出る時に、軽やかな音が鳴ればいいのに。強烈に淋しくなった。

 「おじさん? そこにいるよね」

 「ああ、いるよ」

 「ねえ、もうぼくら生きて帰れないのかな」

 「かも知れない」ぼくは壁伝いに進んだ。少年の、隣にいたかった。

 「ねえ、もう出られないのかな」

 「分からない。でも、希望は捨てないでおこう」壁を伝うぼくの手が少年の凭れかかる髪に触れた。ぼくがそこで腰を下ろすと、少年もそうした。気恥ずかしさから手は繋がず、代りに肩をぴったりくっつけた。

 「でもサ、ぼく家には帰りたくないんだよ」と少年。ぼくはここが大阪の上空だという事を、真下では品のない喧騒が今も続いているという事を、全く忘れていた。

 「どうして家に帰りたくないんだい?」

 「ぼくは、いらない子だから」少年はそういった。抑揚のない、「回覧板ここ置いとくんで、」みたいな口調で。この世にはいらない子なんて一人もいない、もちろんぼくはそんな事は言わなかった。嘘になるから。

 「どうしてそう思うんだい?」

 「お父さんもお母さんも、ぼくを捨てたから」

 「捨てた?」

 「二人が離婚して、ぼくは伯母さんに預けられた。お母さんのお姉さんに」

 「一緒に暮していないのかい?」

 「お父さんはどこ行ったか分からない。お母さんは精神異常で、精神病院に入ったきり、何年も会ってない」

 「伯母さんとはうまくいっていないのかい?」

 「分からない。毎日ご飯は作ってくれるし、誕生日にはプレゼントもくれる。でも、それだけ。愛とかは感じない。ただ、妹への義理で育ててるって感じ。伯母さんは結婚もしてなくて子どももいないから、愛情の注ぎ方とか解ってない。プレゼントとか、着る服とか、お弁当のおかずとか、休日に二人で出掛ける場所とか、全部伯母さんが決める。まるでぼくが動物で、決まった事さえしてればちゃんと育っていくみたいに。だからぼくは、自分で何も決められないんだ。それで友達も出来ない。伯母さんの事もどこかで馬鹿だと思ってるし、同級生たちの事も見下してる。 ねえ? これってぼくが悪いのかな? ぼくがちゃんとしてたら、普通に生きていけるのかな?」

 「どうだろうね、でも、どうしようもない事はあるよ」

 「大人になるってさ、自分でどうするか決めるって事なの?」

 「そうだという人もいるね」

 「じゃあさ、ぼくはいつまでも大人にはなれないんじゃないかな。事ある毎に『お前はまだ子供だから』っていうんだよ、伯母さん。ぼくが大人になる事なんて絶対ないみたいに。ぼくだってちょっとずつ成長はしてるのに、でも伯母さんのいう事は何も変わらないし、伯母さんが全部決めて、ぼくは、自分では何も決められないまま」

 「難しい事だね」

 「うん」

 熱く湿った空気が肺に流れ込むのが分かった。がああと音が鳴りそうだった。

 記憶は黒で手の平も黒。呼気は鉛の色をして……。

 ぼくがこの少年くらいの年の頃、母が父を殺した。理由は未だに分からない。もっとも、母を理解出来た事なんてなかった。母は今も、東京で服役している。父を殺した直後に、母はぼくの事も殺そうとした。「お前は不完全な人間なんだ」母はそういった。ぼくは自分が不完全なんだと知った。「産まなければよかった」といった。生れなければよかったと思った。「全部お前のせいだ」といった。全部ぼくのせいだと思った。

 ぼくは母が去って一人になってだだっ広くなった部屋で、電動の糸鋸で、ちょうどベランダの窓から西日が射す頃に、換気扇の影が床を回る頃に、セミの喧騒がいくらか静まる頃に、ぼくは口角を上げた無表情で、自分の右腕を切断した。自分のカラダを、ちゃんと不完全にした。でも、何も変わらなかった。父は殺されて、それは母が殺して、ぼくは不完全で、何故生きてるかはわからなかった。それから初めに動物を殺し、人を殺し始めた。でもやっぱり、何も変わらなかった。どうしてだか、死にたいとは思わなかった。人を殺し続けて、何かが変わると思っているわけでもなかった。ただ、他にする事がなかった。ぼくは少年の気持が、よく解った。この少年を殺せば、何かが分かるのかも知れない。灰色の息を吐く。

 「ねえおじさん、」少年はぼくにいった。「おじさんはどうして人を殺すの?」ぼくは色んな事を思い出した。時間を掛ければ、殺した人たちの顔は全員思い出せる。殺し方も、埋めた場所も。

 「うまく説明できないと思う」ぼくはそういった。

 「ふうん。でも解かる気がする。ぼくがそう思うだけかな?」

 「さあね」

 「でもおじさんみたいな人、ぼくの周りにはいないよ? おじさんは変わった人だね」

 「そうかな。でも君がぼくを知らなくても、ぼくは生きていたし、ぼくらはたまたま出会って、こうしてる。君の知らない所にはぼくよりも変わった人はいるし、そんな人と出会う人もいる。偶然だけど、不思議じゃない」

 「そうだね」

 汗が粘り気を帯びて来、無数の小さな針で突かれてるような感じがした。二人とも服を脱ぎ、上半身は裸だった。少年と触れている上腕がとても暑かったが、離れたりはしなかった。ぼくらは何も言わず、互いに何かを考えていた。動いているのか止まっているのか、まるで判らなかった。

 「おじさんさあ、ぼくの事殺すんじゃないの?」

 「最初はそのつもりだったね」

 「じゃあさ、今殺してもいいよ」

 「え?」

 「目的はそうだったんでしょ? 今だったら殺してもいいよ? どっちにしろ死にそうだし」

 「そうか、」

 「おじさん、今日はめちゃめちゃ楽しかった。ありがとう。大阪来てサ、色んな事あったじゃン? フリテンさんが話しかけて来て、なんば行って、犬の交尾の写真見たり、他も色々。全部楽しかったよ。おじさんみたいな人が、お父さんだったらなあって思った。家におじさんみたいな人がいたら家に帰りたいと思うだろうし、生きるのも楽しくなったと思う。一緒に暮せたら幸せだろうなと思うよ。ほんとに、感謝してる」

 ほんとに感謝してる、それはぼくだ。

 「名前は?」

 「え?」

 「名前、まだ聞いてなかったから、呼べない」

 「でもぼくの事殺すんでしょ?」

 「殺さない」

 「どうして?」

 「分からない」ぼくはいった。気付かない内に、目を閉じていた。汗が閉じた目の溝に貯まった。

 「太田キャベツ」

 「え?」

 「太田キャベツ」

 「太田キャベツ?」

 「うん。ぼくの名前。」

 「太田キャベツ」

 「太田キャベツ」

 「キャベツが好きなのかい?」

 「全然。何となく響きが好きなだけ」

 「太田キャベツ。いい名前だね」

 「おじさんは?」

 「ぼく?」

 「おじさんの名前」ぼくの名前。熱い空気が、長ズボンにこもって膝の裏を湿らせているのが解かる。めくって厚くなった裾が、ふくらはぎを締め付ける。

 「吉川レタス」

 「吉川レタス?」少年はぷっと噴き出した。いや、太田キャベツ君はぷっと噴き出した。

 「吉川レタス」

 「絶対今考えたよね」

 「いいや。」

 「レタスおじさん」レタスおじさん。響きは悪くない。アンパンマンにハンバーガーマンがいたら、ぼくも出演できるかも知れない。サラダマンでもいいけど。

 ぼくはとても満ち足りた気分だった。このまま死んでもいい、そう思った。火星人から地球を救う、大阪を救う、そんな事はどうでもよくなっていた。地球のピンチも、地球人たちの危機も、そんなの知らない。

 「ねえ、低酸素症って知ってる?」突然少年が言葉を発した。声が、弱っているのが分かる。息が浅くなっている。

 「知らない」

 「酸素が薄くなるとね、気付かない内にどんどん考える事が出来なくなるんだ」

 「怖いね」

 「九九とか言えなくなるんだ」

 「へえ、じゃあいって見て」

 「いえるよ。ぼく二十×二十までいえるもん」すごいな。インドの九九やん。

 「レタスおじさんいって見て」

 「え?」

 「じゃあ、七の段」一番難しいやつや。いけるかなあ。最後に九九をいったのはいつだったか。

 「七一が七。七二、十四。七三、二十一。七四、、二十八(やばい、小さい方からいう事に慣れ過ぎてるやつや、でもミスしたら低酸素症やと思われる。いやや。いい年した大人が低酸素症やと思われる)。七五、三十五。七六、、四十、八?」

 「間違えた! もう既に低酸素症じゃん。やばいよおじさん。ゆっくり呼吸して、大きく吸えばまだ酸素は残ってるから」違うんだ少年。待ってくれ。普通に言えないんだ。自分でもどっちだか分からない。これが低酸素症、なのか。

 まずい、ほんとに意識が朦朧として来た。試しに八の段いって見るか。いやだめだ。自分を追い詰める事にしかならない。

 「ねえ、生きて出られたらサ、人の殺し方教えてよ」少年は唐突にいった。

 「ん?」

 「人の殺し方、教えて。まさか、人は殺しちゃいけないなんて言わないよネ?」

 「まあ、言えない生き方をしてるね」

 「よかった。自分を棚に上げて勉強しろとかいう大人嫌いなんだ」

 「ぼくもだよ」

 「じゃあ、教えてね」

 「そうだね。どうして知りたいんだい?」

 「殺したい人がいるとかじゃないよ? 伯母さんの事も別に憎んではいないし、父も母も殺したいとは思ってない。でもさ、何か面白そうジャン? ぼくが普通に生きてても、人を殺す事なんて多分ないからさ。どんなのだろうと思って。やったコトない事するのってわくわくするじゃん? 『ティファニーで朝食を』の最後にサ、万引きしたよね。あんな感じ」

 「ふうん。ぼくにはよく解らないけど、確かに特異な体験かもしれないね」

 少年は、何も言わなかった。浅い息だけが聞こえた。空気が肺まで行ってないみたいだ。気道の辺りを行き来しているだけみたいに。

 深呼吸しようにも、殆ど空気が肺って来ない。必然に呼吸が浅くなる。酸素が欲しい。どこか酸素のある所へ。無闇に鳴る心臓を抑える事が、どう考えても出来ない。一呼吸でいい。大きく息を吸いたい。ここから出してくれ。数秒間でいい。拓けた、どこかの草原に立ちたい。そして一呼吸だけ、大きく息を吸いたい。ああ、吸える時に吸っておけばよかった。酸素。普通な呼吸をこんなにも求めるなんて。大声で叫びたいけど、何も解決しない。息が。

 死が近づいていると頭では理解できても、何も分からない。ただ今までにない疲れを感じるだけだ。苦しく、あつい。直ぐ目の前に一億円あっても、多分取りに行かない。それが死ぬって事なのだろうか、そんな事が数多の哲人を悩ませてきたのか。簡単じゃないか。生きる事、それは目の前の一億円を取りに行く事。死ぬ事、それは目の前の一億円に興味を示さなくなる事。だとしたらぼくらは、

 「ぼくらもう死ぬんだね」少年は煙る炭みたいな声でいった。聞こえるはずのない位の小さな声だったが、はっきりと聞こえた。きっと、同じ事を考えていたからだ。もう声を出す気力はない。相槌の代りに、高い溜め息。もし生きて出られたら、少年と一緒に暮してもいい。きっと、少年も喜んでくれる。そうだ。そうしよう。ぼくは後頭部を壁につけた。浅い呼吸の中、漠然と希望を想像した。太田キャベツと吉川レタスが、二人で暮らす未来。

 うん、悪くない。

 少年の顔、よく見ておけばよかった。



  パセリ




 「あそこのロッテリアで休憩しよか」女性はそういった。それは「ひっかけ橋」のすぐ近くの店だった。

 私たちはロッテリアに入って、二階の席に着いた。窓から外が見えた。人々が力一杯行き交っていた。どこかで爆発したみたいな物凄い音が聞こえた。でも誰も気にもしていないので、私も気にしない事にした。大抵の物事は、どうだっていい。かさぶた、イボイノシシ。

 「で、何で家出してうちに来たんや?」

 「あ、何となくデス。すみません」

 「何となく? あんたいちびった事ぬかすなあ。なめたらあかんで、てゆうか今いくつやねん」女性は笑顔でそういった。笑顔なので、怒ってない。

 「十七です」

 (低くくぐもった声で地を這うように)「、、、ティィーン」

 「はあ」

 「家出は初めてか?」

 「はい」

 「あたしが高校生の頃はなあ、家出なんかしょっちゅうやったわ。友達のおかんがパトラッシュみたいなでっかい犬連れて教室這入って来よってなあ、授業中止なってそのまま家出や」全然分からないんですが? 

 「おとんにお使い行かされてなあ、ほんでそこで魚屋行ったんやけど、ドーベルマンがやたらデカいブルドッグと交尾してたんや。ほんでそのまま家出や」はい? 大きめの犬がいたら家出でいいんですか?

 「だからなあ、若い頃は家出ぐらいなんぼでもしたらええねん」

 「高校を出てからは、何をしていたんですか?」

 「普通に近所の大学に行ったよ」

 「どうでした? その恋愛とか」私は核心を突こうとした。あまりうまく導けなかったけど。多分この女性はそんな事気にしない。

 「そりゃあもう、あの頃はなあ、あたしもこう見えて美人やいわれとったからなあ、」今も美人ですよ、気恥ずかしくて言えなかった。「ボーイフレンドみたいなんはいっぱいおったよ、犬まではっははっはいうて腰振って来よったわ。げぁっはっはははは、うあうっはっははあ」びっくりするから止めてください、その笑い方。男の人たちはそれでも好きだったんだな。まあそれを差し引いても、もちろん魅力的だもの。

 「それで大学を出て、地元のちいちゃい企業に就職して、そこで社内恋愛からの寿退社や。単純やろ? ありきたりやろ? あたしの人生。これでも色んなドラマはあったんやで。人の人生なんか、数行では要約できひんねや。あんたは彼氏おるんか?」

 「一度告白されて、付き合ってみたんですけど、何もしないまま別れちゃいました」

 「ふうん。まあそんなもんや。今からやで」

 「あの、大学時代の恋人とかって、どんな人がいたんですか?」

 「ああ、一人忘れられへん人おるよ」きっと父の事だ。ファイナルアンサー。

 「それほどハンサムではなかったけど、背ぇは結構高かったな。ほんで優しかった。周りにいっつも気ぃ配ってて、そんなあいつをぼんやり見てたら、あいつもこっち見て笑いかけて来たんや。なんか分からんけど、ほっと安心した。こんな人と結婚するんかもしらんなあ、ふとそう思ったわ。でもな、周りが見えんようなる猛烈な恋やなかった。ずっと穏やかやった。周りもちゃんと見えてる状態で、この人のおらん人生は考えられへんと思った。あんた分かるか? その気持。この人おらんなったら死んでやる! とかちゃうねん。仮に取りあえずこの人おらんとこ想像しよ思ても全然浮かばんねん。この男おらんかったらどうなるんか、全然分からんねん。どんだけ細かいとこ想像しても、絶対その人がおるんや。分かるか? めちゃめちゃ幸せやで。何かな、今腕折れても痛ないんちゃうかなあと思うねん。世界滅んでも生きてられるんちゃうかなあと思うねん。そりゃあケンカもしたけどな、気ぃついたら仲直りしてる。あいつには何故か本音でしゃべれんねん。その時はほんまに腹立ってるけど、後になったら許せるんや。ほんで、ケンカの度に二人が仲よなってるって実感があるんや。一個ずつねじ緩んでないか確めてるみたいに、どんどん絆が深なってるって感じてた。あいつとあたしのどこが境界かよお分からんようなってくんねん。おんなじもん二人で使うようなったりして、あいつにあげたプレゼントもわたしのもんでもあって、結果二人のもんで。そんな感じや。あんたどうか知らんけど、あたしは運命とか信じてないタイプやん? でもその時は信じそうになった。あるんか知らんけどもしあるんやったら、絶対にこれやと思った。運命の相手がもしおるとしたら、そいつしかおらんと思った」

 「その人とは、どうなったんですか?」

 「結局別れた。やっぱ運命はないんかもしれんな、」

 「どうして別れたんですか?」

 「大学卒業する時に、あいつは東京に行ったんや。あたしもついて行こか思たけど、何故かそうはならんかった。『大阪で生まれた女』て曲知ってるか? 知らん? ええ曲やから聞いたらええわ。あたしはあの曲聞いたら涙止まらんねや。知ってるか、あれほんまはめっちゃ長い曲やねん。フルバージョンで聞いてみ。絶対泣けるわ。あたしは結局、東京へはよおついて行かんかったんや。運命やと思てたけど、何となく地元を出る気にはならんかった。あいつを好きちゃうかったとかじゃないねん。あいつを捨ててでも地元に残りたかったとかもちょっとちゃうねん。多分これは一生説明できひんやつなんやと思う。あたしもよく分からん。でも、あたしは後悔してないけど、もし東京行ってたらどうなってたんやろうとは思うわ。今はちゃう旦那と結婚して専業主婦やけどな、掃除とか終わって一段落した時に、ふっと思うねん。あの時東京について行ってたらって。今が幸せちゃうていうてんちゃうで? めちゃめちゃ幸せやで? 娘も二人生れて、いい子に育ってるし、でかい方はちょうどあんたぐらいかもうちょい大きいぐらいの娘や。あんたより美人やで? 悪いけど。だからあたしはめちゃめちゃ幸せなんや。でも、それとは別に、ふっと思うんや。どっちが幸せとかじゃなくて、また全然違った人生なんやろなア、子どもも全く違う子になったやろし、息子かも知らんし、何人も生んでたかも知らん。住んでる家も全然ちゃうやろうし、得意料理も多分ちゃう。とにかく全然違う人生やったんや、間違いなく。あんたはその中におるから外からは見られへんけどな、若いって、ほんまにすごい事やで? ほんまにすごい事やで? どんな人生になるか、今から全部決まるんや。全然違う色んな人生が、全部ありえるんや。大事にせなあかん。絶対大事にせなあかん。とにかく私が心からそう思ってるって事は、分かって欲しい」

 「その人に、会いたいですか?」

 「そうやなあ。会いたい。会いたいわ。未練あるとかちゃうで。ただ、会って色んな事話したい。あの時の気持とか、全部話したいわ。東京行ってからどんな暮らししてるんかとか、結婚してるやろうけど、相手はどんな人で、子供はどんな子どもかとか。そいつとどこが似てるんかとか、どんな話聞かせたるんかとか、全部話したい。あの人があたしのおらんところでどんな風に生きていってるんか、知りたい。あたしがおらんでも幸せになれてるって知ったら、そらちょっとは嫉妬するかも知らんけどな、まああたしもあいつなしで幸せやし、お互い様や。だから奥さんの惚気話とか聞きたいし、あたしのえぐい惚気も聞かしたるわ、ヒくようなやつ」

 私は隣り合って座ったこの女性の、とてもとても横顔を見た。どこか遠くを見つめていて、唇の端が柔らかく持ち上がっていた。淡くファンデーションした頬の奥に薄っすらと見えるシミが、私は魅力的だと思った。

 でも、名乗り出せなかった。私が何か言ってしまえば、何かが壊れそうな気がした。私はまだ十七歳で、全然人生とか知らなくて、何も言える状況にはいない。それ位繊細で、触れてしまえないような微笑みだった。これから先、父とこの女性が会う事はあるのだろうか。もしあったら、その時に話せばいい。今私が言える事は何もない。二人が会えるのは、もしかしたら二十年後かも知れない。二人ともじじいとばばあで、記憶も定かじゃないかも知れない。でもきっと、淡い昔話をして、笑ったりする。もしかしたら泣いたりもする。またケンカしたりもするかも知れない。それでも何も言わないでおこう、そう思った。

 「その人には、何て呼ばれてたんですか?」

 「え?」

 「その忘れられない人に」

 「ふふふ、げへへへ、そうやなあ、名前なんて、呼ばれてないかも知れん。大体が、『お前』で済んだからねえ。あたしも、『あんた』って呼んでたと思うわ」

 「あんたとお前」

 あんたとお前。父の大学時代など、想像も出来なかった。が、何故か涙が出そうになった。「あんたとお前」その二人の関係が狂おしい位に羨ましかった。だめだ、こんなとこで泣いちゃいけない。私は唾を飲んで、強くまばたきした。

 「あんたは名前何ていうんや?」

 「私ですか?」

 「あんたや。他に誰がおんねん。誰がこのテーブルの手ぇ拭くやつに名前聞くねん。『紙ナプキン言いますねん』いうだけやろがい」

 窓から下を見ると、大勢が行き交っていた。恋人同士がいた。あんたとお前と呼び合っているのだろうか、それとももっとベタベタした呼び名? 寒そうに速足で過ぎる人もいるし、スマホで地図と建物を見比べている人もいる。みんな、幸せなのかな? 誰かが幸せになっても他の人が不幸にならないなら、みんなが幸せになったらいいな。

 「パセリ」私は神になって、天上から下界に魔法の言葉を唱えるみたいに言った。

 「パセリ?」

 「パセリ。私の名前」

 「ふうん。いい名前やん」

 「うん。パセリ」

 「パセリちゃんね。パシリみたいやね?」違うのにすればよかった。

 「あ、いやでもパシリも体力ついたりするらしいから」フォロー出来てないよ? 方向間違えてるよ?

 「でもやっぱり断る勇気も持たなあかんで」私パシリじゃありませんよ?

 「まあ若い頃は色んな経験したらええ」結論出ちゃった。まあいいか、この人に一生パシリだと思われてても、別にいいじゃないか、うん。一時の恥? 一生の恥?

 「私、万引きしたんです」

 「何やあんた、お嬢様みたいなかっこしてそんな事すんのかいな」

 「まあ」

 「ほんで、バレたんかいな」

 「いえ、バレてません。今の所」

 「何や。ほんならええやん」

 「え? 見つからなかったらいいんですか?」

 「ええよええよ。あたしだってなあ、今の旦那に隠れて一回だけ浮気した事あんねんで? 若い男前の兄ちゃんと。あれは良かったなあ、バリンバリンいうて」何の音?

 「それも見つからなかったんですか?」

 「当たり前や。男なんか何も見てないからな。ばれへんばれへん。なんぼでもやったったらええんや」

 「なるほど、」

 私はすっと胸がすく思いを感じた。やっぱり大丈夫。心ぽっかりごそり。多分外は寒くて、そしてここは暖かい。両手でカバンの紐を、ねじったり解いたりする。天気予報を信じて、折り畳み傘は置いて来た。

 「やっぱり、家、帰ります」私はそういった。それなりの笑顔。

 「そうかそうか。そりゃええ。それが一番やで」その女性はとても魅力的に相好を崩した。この笑顔を忘れないでおこう、そう思った。



   キャベツとレタス

 

 

 

 がわぁあぐぁん!

 爆音が劈いた。真っ暗な床の一部が突如白光になり、空間が恐ろしく傾いた。ぼくはとっさにキャベツ君を抱え、壁まで転がり落ちた。冬に冷えた空気が一瀉千里に流れ込み、闇に馴れた目に、光が激突した。汗が乾く。何が起こったのか。床に開いた穴から、尖ったものが突き出している。

その鋭利な物体は引っ込み、ただぽっかりと開いた穴から小さく空が見えた。

 ぼくは少年と共に、床を這って穴まで行った。大きく息を吸う。見ると、はるか下に大阪の街が見えた。その視界の中央に、大きな鉄の塊があった。真上から見た事などなく、それが何か一瞬分からなかった。

 「通天閣さん!」少年がそう叫んだ。さっきの鋭利な物体は、通天閣の先端だったのだ。通天閣が火星人を倒そうと、UFOを襲撃したのだ。でかした!

 「いてまうぞ火星人。他所もんはランディバースで間に合うてるんや!」スピーカーの爆音が聞こえた。通天閣にスピーカーなんてついていたのか。ん? でもこの声は? 確かどこかで……、、

 「フリテンさぁん!」少年が叫んだ。姿は見えないけど、多分通天閣の中にいる!

 「ビリケンや! 誰がフリテンやねん。フリテンでもロンしたろか!」

 「チョンボだー!」

 「やっぱ知っとるやないか!」

 「ビリケンさん! 通天閣さんに会えたんですね」ぼくは大声で言った。

 「誰がビリケンや。あ、ビリケンやわ。ややこしい事すな! おう、通天閣は小さなってなんばうろちょろしてたわ。それからお前ら、火星人の言う事、絶対に聞くなよ。あいつらはウソしかつけへんからな! 月一で京都行ってるからな!」別にええやろ。

 「都構想の選挙行かんかったからな」火星人やからや。

 「お前ラ、やってくれたナ! これを以て正式な宣戦布告やととるゾ。もう容赦シヤン」ぼくらの乗っているUFOから声が聞えた。

 「のぞむところじゃあ! お前ら二人、もっかい言うけど、あいつらの言う事は絶対に聞くなよ」

 ぼくらの船は空を走り、通天閣は遠ざかった。ビリケンさんが、展望台にいるのが小さく見えた。その表情は、とても憔悴して見えた。

 「お前ラ、あいつらの仲間カ?」頭上から声が聞えた。仰げば、高い天井の一部が開いて、火星人が覗き込んでいる。火星人が深淵を覗き込む時、ぼくらも火星人を見ている。

 「仲間というか、今日あったばかりですけど」

 「ちょお来い。お前らは騙さレテる。話アルからあがれ」

 二人とも強引に連れられ、火星人の部屋らしき場所へ通された。大きな窓からは空が見晴らせ、とてもよく晴れていた。遠くに山が見えた。何山だろうか?

 「お前ラ、あいつラに何て聞いてんねん」

 「火星人が『あれ』を渡せと迫って来て、大阪人は渡したくなくて、戦いになりそう、それ位しか知りません」ぼくはいった。

 「まあ、大体おうテルわ。でもナ、『あれ』が元々火星のものやったコトは聞いてナイやろ?」

 「そうなの?」ぼくは火星人を見た。全てが緊張した無表情。

 「そうや。ワレワレのモンやったんヲあいつら大阪人が取りよったんや。元々ワレワレと大阪人は、うまいこと商売しとったんや。ワレワレは火星であんじょおしとったんや。火星はいい所やった。でもアイツラガ、私利私欲に走りよっテ、『あれ』を火星から奪っていきやがった。そのせいで火星はめちゃめちゃなったンヤ。『あれ』は火星に必要なものやったんや。あれが火星の中心にぶら下がってルカラ、ワレワレは生きていけたンヤ。みんなの生命の源やったンヤ。それがのうなって、全部荒野になったわ。今、誰も住まれへんようなって、みんなどっかに避難してるんや。わやくちゃやほんまに」

 「『あれ』のせいで、火星人は故郷を追われちゃったの?」

 「そうや。悲しい話やで。シックハウスや」

 「ホームシックだね」

 「まあ間違う事も、アルデヒド、いうてね。せやから取り返すノン手伝って欲しいねん」

 「ぼくらに?」

 「そうや。多少あいつらの懐に取り入ってるヤンケ」本当だろうか? ぼくはどっちを信じたらいい? どっちに味方したらいい。

 ん? そういえば、火星人はウソつけないみたいな事、誰かいってなかったか? 試す価値はある。

 「君たちは火星人だよね」

 「そうヤ」

 「火星人はウソ付けないの?」

 「そうヤ」出たこのやつ。どっちだ。嘘つきだったら、嘘をつくから、「嘘をつけないのか」という問いがほんとは「ノー」なので、嘘をついて「イエス」という。正直者なら正直に「イエス」という。どっちも一緒やないか。これじゃダメだ。

 「彼女いるの?」キャベツ君が訊いた。そう、こういう問いは無垢が似合うちびっ子が訊くべき事だ、いやいや、そもそも興味なかったわ。

 「イ、イルニ決まってんジャン」分かりやすく慌てる火星人。? でも何だろうこの違和感。

 「ほんと? 彼女いるの?」

 「いるっていってんジャン。むちむちで、すれんだあの」分かった、違和感の正体。標準語になってる! もしかして、ウソつく時標準語になる?

 「童貞なの?」

 「ハ? マジ意味分かんね。ソンナわけないじゃん。マジ一万人斬りダシ」

 「火星人はウソつく時、標準語になるの?」

 「ナラネエシ。マジいつでも大阪弁だシ」間違いない。彼はウソをついている。何て、何て分かりやすいんだ。

 「異性と話した事はあるの?」

 「それぐライあるがな」よかった。

 「二人きりで話した事は?」

 「ンなもんあるに決まってるやろガイ」よしよし。

 「二人でカラオケは?」

 「あるガナ」うん。

 「手を繋いだ事は?」

 「アルヨ」うそや。ここからか、頑張ってくれ。

 「おっぱい触った事は?」

 「あるガナ」何であんねん。店行ったな。

 「あれ、ちょっと待ってくれ。『あれ』は元々火星人のモノで、大阪人が奪ったのか?」

 「そうやてゆうテルやろ」? 大阪弁のまま。これはほんとなのか?

 「でも、大阪人に、何の得があるの? その火星を人が住めるようにする『あれ』を手に入れて」穿った問いを放つキャベツ君。

 「ほンマは火星に生き物を住めるようにするやつなんやケドな、まだもういっこ効果アンねん」

 「どんな効果?」

 「ツッコミがちょっとダケうまなんねん」ツッコミがちょっとだけうまなる?

 「ツッコミがちょっとだけうまなる?」キャベツ君も訊いた。

 「そうや。うまナンネン。あいつらうまかったやろ?」どうだろう。

 「それだけ? それだけなの?」

 「それだけヤ」

 「それだけの為に、火星を住めない星にしたの?」

 「そうや。それが何ヨリモ大事やって、あいつらはゆう」

 「そんな……」ぼくも同じ気持ちだった。ツッコミがうまくなるのは仮に大事だとしても、火星人から故郷を奪う価値のある事とは到底思えない。もし全て本当なら、大阪人が悪い。

 「ねえ、フリテンさんは別だよネ? フリテンさんは無関係だよネ?」

 「フリテンさん? フリテンの八万兵衛の事カ?」

 「違います。ビリケンさんの事です」そんなに有名なのか、フリテンの八万兵衛。会いたい。

 「びりけん! アイツカ! あいつこそとんでもないワルヤガナ!」

 「そんなはずないよ。あの人はいい人だって、絶対。お前が知らないだけで!」ん? やけにビリケンさんを庇うな少年。

 「何でヤネン! あいつがくず中のくずやガナ!」

 「うるさい! 彼女いないくせに!」

 「h? イルシ、別に全然イルシ」

 ………、どうしてそう庇うんだ、キャベツ君。そういえばビリケンさんは「身体も心も女」って言ってたっけ。肌きれいだったし。爪もきれいって、ん? ちょっと待て少年。それだけはやめておけ。謹んでお願いを申し上げるから。よく分からないけど、特殊なタイプの禁断の恋だ。

 「キャベツ君、君好きな人いる?」

 「急に何? レタスおじさん。別にどっちだっていいじゃん」

 「まあそうなんだけど、その人ってつり目で尖った頭で、異様に大きい足してる?」

 「してヘンガナ」絶対そうやん。大阪弁なったやん。火星人の逆やん。うわあ絶対ビリケンの事好きやん。うわあまじか。うわあ。

 「つり目デ尖った頭で足異様に大きい女好きになるわけないヤロ!」

 「フリテンさんを馬鹿にするな!」ゆうてもうてるやん。刑事にひっかけられた犯人やん。うわあマジで? まじでか。

 ばたばたと背筋がピンとなるような音がした。見ると、不気味なほど大きなオウムがいた。萌黄色の羽根は薄汚れて、眼玉がテニスボール位あった。なんでこんなデカい奴に今まで気付かなかったんだ。

 「ああそうや。この鳥の中に入ってんのん食い倒れのやつやで」おい。はよ言えや。もう情報が多い。中に入ってるって何だ。まあええわ。中に入ってんねんな。

 「どうして食い倒れを奪ったんだ。返してあげてよ」

 「何をいうトルんや。あいつらが先『あれ』奪ったんや。ワレワレはそれかやしてほしいダケや」

 「『あれ』ってどんな形してるんですか?」

 「キンタマぐらいの大きさの玉で、金色してるンヤ」それはキンタマやん。

 「ワレワレは『永遠(とわ)に放たれる光』とも呼ぶ」カッコええな。キンタマやで?

 「ワレワレは『キンタマ』とも呼ぶ」呼んどるやないか。それで統一せえ。

 「『あれ』がないとあかんネや。あれがあそこにないとあかんネや」あれとかあそことかやめなさい。誤解生むわ。

 「あれは生命(いのち)の源や」変な意味にしか聞こえへん。

 「キンタマは生命の源や」わざとやってるやろ。

 がぅんぐぁあ! 眩暈を起こしたのかと。世界が傾き、火星人が地面につきそうな位横へ倒れた。窓から外を見た。巨大化したビリケンさんが、通天閣を振り回している。

 「じゃあおるぁああ! どっかいね火星人。『あれ』は渡さんぞ。大阪は死んでも守るぅ! 大阪夏の陣やア! いや今冬やがな。」ビリケンさんの目は、明らかに異常だった。理性が飛んでいる目をしていた。

 「まサカあいつ! 飲んだんか!」火星人は表情を一変させた。慌てた様に部屋を飛び出し、どこかへ走り去った。

 「フリテンさん! こんな事はやめて!」少年は叫んだ。もちろん声は届かなかった。

 「『火』という字は人と人が支え合っテ、、、ンンほんデ何か飛ばしたら出来るんヤ(後半早口)」ぼくらの乗っている宇宙船が響いた。大きなガラス窓の下から、真っ白の光が飛び出した。そこだけ絵の具が剥がれてカンヴァスの白が見えたみたいに鮮やかに空間を走り、それはビリケンさんの左肩を貫いた。ごふぁ! ビリケンさんは数歩後ろへ下り、そこで踏ん張った。

 「『火』という字は人と人が支え合っテ、、、ンンほんデ何か飛ばしたら出来るんヤ(後半早口)」同じ文言が同時に幾つも聞えて来た。窓から外を見ると、十は下らない宇宙船が飛来し、大阪の空に跋扈していた。全てがほぼ均等な間隔をもってビリケンさんを取り囲んでいた。

 「上等じゃあ! そんなおもちゃでわしをいてまえるとおもてんのかあ! なめなよぉ!」ビリケンさんは通天閣を振った。巨大な宇宙船は物理の閾を超えたスピードで素早く身をかわし、それは空を切った。少年は部屋に向って叫んだ。

 「ねえ、宇宙船の外に声が聞えるようにしてよ!」

 「何やワレ。どの口がいうとんねん」宇宙船が答えた。

 「お願い。一秒が惜しいんだ」

 「何か分からんけど、分かった。話聞いテル間ぁない事ってあるもんな? 信じるって大切や。あいよ。船外スピーカーオン!」宇宙船がそう叫んだ。

 「フリテンさん!」

 「誰がフリテンやア! わしゃあ天下のビリケンやがな!」

 「こんな事は止めて! 死んじゃうよ」

 白色のレーザーがいくつもビリケンさんのカラダを突き抜けて、街を破壊した。その度にビリケンさんはよろめき、血を噴き出した。窓ガラスが飛び、車が跳ねる。ビルが崩れ、砂埃が舞う。

 火星人が部屋に飛び込んできた。

 「おイ! 何しテンネン。勝手にスピーカーオンにすなや。電気代かかるヤロ」

 「すみません。お金でいいなら払うので、少しこのままにしておいてください」ぼくは消え入るような声で言った。ぼくだって、どうすればいいか分からなかった。

 「エエか。よう聞け。あいつは『あれ』を飲み込んだンヤ。悪いけど、それでもワレワレは奪う。ほんなら、正直どうなるかは知ラン。多分、無事では済めへん」

 少年は黙って聞いていた。何もいわなかった。きっと、言われなくてもどこかで分かっていた。

 「フリテンさん! 『あれ』を火星人から奪ったってホントなの?」

 「ああ、ほんまや。何や? わしを見損なったか?」

 「どうしてそんな事したの?」

 「わりゃあガキゃあ。よう覚えとけ。何が正しいかなんか、何処まで行ってもワカランねや。結局なあ、自分が正しいと思った事をやり続けるしかないんや。」

 ビリケンさんの頭をレーザーがかすめた。ビリケンさんは倒れ、通天閣を支えにしてようやっと立ち上がった。左腕はもう、使い物にならなかった。

 「ドコで間違うたんやろなあ、気付いたらフリテンしてもうてたわ。ガキゃあ、お前の言う通り、ワシはフリテンさんやった」

 「そんなのどっちでもいいよ。お願いだから! 死なないで。」

 「あほぬかせ」

 「『あれ』を火星人に返してよ。そしたら死ななくてもいいんでしょ! ぼくはフリテンさんに死んでほしくないんだよ。生きて欲しいんだよ。ねえ! ツッコミなんてうまくなくたっていいじゃん。ツッコミがうまくても下手でも、フリテンさんはフリテンさんでしょ!」

 ビリケンさんの胸を二方向からレーザーが穿った。ビリケンさんは通天閣を落とした。肩から力が抜け、目は虚ろだった。半開きになった口からは、ゴボゴボと血が流れ出ていた。キャベツ君は泣き崩れ、火星人は攻撃を止めない。

 「……なんでやねん…。」ビリケンさんはそう答えて、膝を地についた。

 ごおおごぁあおお! ビリケンさんは両手で喉を抑え、空を仰いだ。口からバカみたいな光が漏れ出ていた。『あれ』が彼女の口から出て来た。それは不謹慎かも知れないが、命の誕生を思わせた。

 スローモーション、ゆっくり空へ浮んだ。

 「オイ! 出たぞ。キンタマや。拾え。直ぐ帰ルぞ」火星人はそう叫んだ。

 「お前ラ、大して役には立たんかったけど、ご苦労やッタ。食い倒れと一緒にいね!」火星人はそういうと部屋を出て行った。突然ぼくらを光が包み、次の瞬間には船外に飛び出していた。ゆうるりと地上へ向かい、ひっかけ橋の上に降りた。グリコの看板を、皆が写していた。オウムは何処かへ飛んで行った。ぼくらはビリケンさんがいた辺りに走った。人通りのないアスファルトの上に、小さくなった、少年くらいになったビリケンさんが倒れていた。

 「フリテンさん!」キャベツ君は駆け寄った。もう、生きてはいないように見えた。少年を、止めようかと思った。

 「レタスおじさん、フリテンさん生きてるよ!」少年は振り返ってそう叫んだ。ぼくは駆けた。彼女は生きていた。

 が、目は生きていなかった。ぼくを見ているようで、ぼくの小脳をでも見ていた。

 「ああああああああ」ビリケンさんはいった。口から涎が流れた。言葉を発しようというよりは、閉じる事の出来ない口から自動的に音が漏れているようだった。

 「あああああ」彼女は呻く。

 「フリテンさん、生きていてくれてありがとう」

 「あああああああああああ」

 「フリテンさん、リーツモドラ二つは満貫になる所もあるよね」

 「ああああああ」

 「ぼく、めちゃめちゃ知ってるでしょ?」

 「あああああ」

 「一回だけ緑一色テンパった事あるよ。すごいでしょ?」

 「あああ」

 「めちゃめちゃ知ってるでしょ? フリテンさん、アツはナツいねえ」

 「ああああああ」ビリケンさんはぴくぴくと体をねじった。電気を流されて苦しんでいるようにも、こしょばされて可笑しがっているようにも見えた。

 「あああああああああああああ」

 「ごめんねフリテンさん、もういいよ。もういいんだ」キャベツ君は横たわる彼女を地に伏して抱き締めた。

 「もういいんだ。ありがとう。生きていてよかった。本当によかった」

 「ああああああああ! あああ!」

 「もういいよ。何もいわなくていいから。もういい。もういいんだ。」キャベツ君は泣いていた。「フリテンさんの気持は、そりゃあ正直全部は分からないけどさ、でも多分、間違ってなかったよ。ただしかったよ。フリテンさんは間違ってなんかない。そうでしょ? 天下のフリテンさんでしょ?」

 「ああああああああああ!」ビリケンさんは、こんなになってもまだツッコミを忘れていないように見えた。まだ、何かを懸命に言おうとしていた。まだ、ビリケンさんらしく生きようとしていた。彼女は命を賭して、何を守ったのだろうか。かつての彼女は今の彼女を、どう思うだろうか。

 長い時間が過ぎた。時折ビリケンさんが呻いた。風が吹いたりもした。雲が動いて、太陽も月も星も動いた。キャベツ君が何を考えているのか、それは分らなかった。少年は知らぬ間に決心していた。

 「ねえ、レタスおじさん、」少年はぼくに背中を向けたままいった。

 「宇宙船の中でした話、憶えてる?」

 「さあね、色んな話をしたから」

 「生きて出られたら、人の殺し方教えて、って話」

 「ああ、したね」

 「今教えて」

 「え?」

 「今、人の殺し方、教えて」少年はぼくに背中を向けたままゆっくりと言った。何を考えているんだよ。ぼくは何も返す言葉がなかった。少年が、単なる思い付きで言ってるんじゃない事は、これ以上ない位よく分かった。多分今世界で一番苦しんでるであろう事も、その背中を見るだけで分かった。ぼくは何もいえなかった。

 「教えてよ、殺し方」少年はもう一度言った。その向こうで、ビリケンさんが呻いている。大きな足の裏が見えている。趾をぴくぴくと動かし、それを止める。あああああああ。

 人を殺すなら、ただ首を絞めればいい。でも少年、理由が欲しいんだろう。自分の判断が正しいかどうか判らないから、他に理由が欲しいんだろう? 人の殺し方を教わって、で、やった事ないからやってみた、そんな理由が欲しいんだ。そんなものにすがるだけで、相当楽になるんだ。君がそれを望むなら、ぼくは止めない。

 君が彼女の為にそうするなら、ぼくは君の為にそうする。

 「両親指の付け根を合せて、ちょうちょを作るみたいにする。それをちょうど喉に来るように持って来て、馬乗りになる。それから上体を起こして、肩と両手が真っ直ぐ垂直に来るようにする。空いた両足で、暴れないように両腕を抑える。それから、手の力というよりは殆ど体重を掛けるようにして、首を絞めればいい。動かなくなってから、まだ十秒はそのままでいる。ただ力ずくで殺そうとするより、遥かに簡単に確実に殺せる」ぼくは静かにそういった。キャベツ君はただ聞いていた。それから徐ろに起き上がり、ビリケンさんの胴に乗った。両手を合せ、首へ置く。その背中が、ひどく哀し気に見えた。肩をいからせ、えずいているようにも見えた。少年が少しずつ、力を込めていくのが分かった。ごめんね、少年は小さくそう言った。ごめんね、少年は少し大きな声でそう言った。ぼくはただ見つめていた。その小さい背中は、あまりにも哀しかった。

 ビリケンさんが、手足をばたつかせた。大きな足の踵がアスファルトを蹴り、手のひらがバシバシ鳴った。?ぅぅえああ、ビリケンさんはもがいた。ビリケンさんに合わせるように、少年の身体が小さく揺れた。っっつぐうぅ??う。ぼくの耳に声が聞えた。どっちの声だろうか。少年の背中はあまりにも哀しかった。ぼくは止めて上げたかった。でも、出来なかった。ううううう、少年がそう呻いた。ビリケンさんはもがいている。ぼくは色んな事を思い出していた。ビリケンさんとの出会いから、とても長い今日の全てを。きっと、少年も同じだろうと思った。

 少年が力を抜いた。ビリケンさんは動かない。少年が空を見た。宇宙船は既に見えなくて、勿忘草色の空に、淡くにじんだ雲がいくつか浮かんでいた。

 「やっぱりできないよ」キャベツ君はそう言った。背中が、泣いていた。小さな嗚咽が聞こえた。少年は突っ伏して、ビリケンさんの胸で泣き始めた。ビリケンさんの胸が上下するのが見えた。趾をぴくぴくと動かした。

 「ごはぁ!ああわああぁああ」ビリケンさんがそういった。少年は、自分の為にそうした。

 キャベツ君は泣いた。空を仰いで。

 キャベツ君は、泣いた。空を、仰いで。

 キャベツ君は泣き疲れると、振り向いて立ち上がった。そうしてビリケンさんの腋に手を入れ、抱き起こそうとした。

 「手伝おうか?」ぼくはそういった。ビリケンさんと、少年は、殆ど同じくらいの身長。

 「ううん、大丈夫。ぼく一人で出来るよ」

 「そうだね」

 「ねえフリテンさん?」キャベツ君は言った。「知ってると思うけどさあ、フリテンしても、自分でツモればあがれるんだよ?」少年は涙を拒むように笑った。麻雀を知らないぼくは、よく分からなかった。でも少年が笑っていたから、ぼくも笑った。

 ぼくは振り返って歩き出した。キャベツ君との今までを思った。キャベツ君とのこれからを思った。ぼくらが苦しんで来たどんな困難も、今日のそれよりは小さくつまらない事で、ぼくらに待ち受けているどんな困難も、今日のそれよりはきつくないだろう。多分もう、普通に生きていける。多分もう、ぼくは失いたかったものを失う事が出来た。ぼくは得た。ぼくとキャベツ君は、共に生きていける。

 ぼくはふと立ち止まり、振り返った。キャベツ君が遠くにいた。彼は立ち止ったまま、動いていなかった。ビリケンさんを抱え、ただ立っていた。

 キャベツ君がぼくを見る目。頑是ない目。多くを語る、真っ黒な目。眉間に出来たしわ。八の字の眉。心持上った口角。小さく口が開いていたが、その距離で小声で何か言っても、きっとぼくには届かない。

 キャベツ君は静かに左手を上げた。

 「またね、レタスおじさん」キャベツ君は恐らくそう言った。上げた左手の指がだらりと曲がっていた。キャベツ君の笑顔は、とても素敵だった。

 ぼくは何も言わず、微笑みを返した。それから左手を上げて、小さく振った。ぼくらはまた会える。きっと会える。キャベツ君とビリケンさんは二人三脚をする小学生みたい。

 さあ帰るか。

 551も食べてないし、新喜劇も見てない。帰りに寄って行こうか。

 いやいや、今度来た時に、あの二人に案内してもらえばいい。



  パセリとキャベツ



 「やっぱり家、帰ります」

  私は店の前で女性と別れた。太陽は見えなかったけど、空は夕暮が近づいていた。トマトスープにミルクを入れ過ぎたみたいな色だった。耳と手が冷たかったけど、着込んだ心臓は暖かかった。それから駅の方へ向かって歩き出した。

 前から少女を抱えた少年が歩いて来た。少女は殆ど意識がないみたいで、少年に完全に体を預けている。この少女、どこかで? 

 「一人で大丈夫なの?」私はその少年に尋ねた。冬なのに汗だくで、見るからに苦しそうだった。

 「大丈夫。この女性は、ぼくの大切な人だから」少年は私をしっかと見てそういった。まだペーペーの子どもが何を生意気な、そんな事は言えなかった。私の知らない何かがあるのだと分かった。それが何かはもちろん分からなかったけど、ただ、二人は互いを必要としてる、それだけは分かった。で、それで十分だった。

 「あなた達は、お互いを何と呼び合ってるの?」

 「ぼくら?」

 「うん」

 「この人はぼくを、『わりゃあがきゃああ』って呼んだりするよ」思ったよりえぐいね。大丈夫? 楽しそうに言ってるけど。それってマゾなのよ。

 「君は?」

 「ぼくはフリテンさんって呼んでる、あ、フリテンの八万兵衛の事じゃないよ?」誰だ。

 「ふうん。」あんたとお前じゃなかったか。私はどこかでちょっとだけ残念に思った。でももちろんそんな事は口に出さなかった。恋人同士それぞれ、色んな愛の形がある。これから出来るのも、もうなくなっちゃったのも。全部違う形で、全部ちゃんと愛。全部ちゃんと幸せ。多分ネ。

 空も、真っ赤。

 「ねえ、焼きそばパンいらない?」

 「え?」

 「焼きそばパン、二人で食べたら?」

 「え? でも、怪しいお姉さんに食べ物貰うのはちょっと、」

 「誰が怪しいお姉さんや」しまった。つい下品な口調に。大阪のバカヤロー!

 「でもくれるんなら貰うよ。お姉さんが怪しくないのは見れば判るから」

 「え? どうして? 私って信頼できる顔してる?」

 「ううん違うよ。お姉さん処女だから」ぐうう。小僧め。くそう! 誰か抱いてくれ。

 「はいどうぞ。仲良く食べてネ」

 「ありがとう処女のお姉さん」

 「あ、それ万引きしたやつだから。あんたも共犯者だネ」

 「お姉さんワルぶるのがかっこいいと思ってるの? どうせ『トップガン』のトム・クルーズがタイプなんでしょ?」

 「ものすごい偏見だね。私のタイプは『ダーティハリー』のクリントイーストウッドよ」

 「うわあ」笑顔で眉間にしわの少年。

 そして愛らしい微笑み。何だかいい一日だったナ、ふとそう思った。イヤミを言われるのが嫌で、何も言わなかった。代わりに貴重な貴重な女子高生の微笑み。


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